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外れる予言の数え方 〜転生した生産管理は、世界の倉を棚卸する〜  作者: もしものべりすと


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第十一章 安全在庫――「手をつけない分」を決めた夜、王女は鍵束を差し出した

「足りるかどうかは、外れる幅で決まります」

 千束はそう言って、王女の机の上に一枚の紙を置いた。

 紙には、縦に二本の線が引かれていた。左の線の上に、小さな点がいくつも打たれている。点は線の真ん中あたりに固まり、上と下に行くほどまばらになっていた。

「これは、孤児院のパンの数です。この三十日、子どもたちが実際に食べたパンの数を、毎日ヘルガさんに数えてもらいました」

「毎日、違うのね」

「違います。四十二人が毎日同じだけ食べるわけではありません。熱を出して食べられない子がいれば減ります。新しい子が来れば増えます。ほとんどの日は真ん中あたりですが、たまに大きく外れます」

 王女は点の散らばりを指でたどった。

「この外れる幅に、名前はあるの」

「ばらつき、と呼んでいました」

 千束は右の線を指した。

「こちらは、大倉から孤児院へ粉が届くまでの日数です。普段は一日。でも荷車が遅れた日や雨で道がぬかるんだ日、天秤の荷車に横取りされかけた日は、二日も三日もかかりました」

「届くのにも、ばらつきがあるのね」

「はい」

 千束は二本の線のあいだに、横に一本線を引いた。

「毎日の食べる量のばらつきと、届くまでの日数のばらつき。その二つを合わせて、一番悪い日が重なっても子どもが飢えない量を、手もとに置いておきます。普段は使いません。手をつけない分です。前にいた場所では、これを安全在庫と呼んでいました」

「安全、在庫」

「予定が外れたときのための、お守りです」

 王女は紙を手に取った。

「それを、王国全体でやるの」

「はい。王国の倉の、手をつけない分を決めます。冬が天命の言うほど寒くなかった場合も、もっと寒かった場合も。上流から飢えた人が流れてきた場合も。天秤の荷車が、これ以上麦を持ち出した場合も。一番悪い日が重なっても王都の人が春まで食べられる量を、倉の奥に置いて手をつけない」

「それを、評定で父上に申し上げればいいのね」

「はい」

 王女は紙を机に置き、千束の顔をまっすぐに見た。

「じゃあ、稽古をしましょう。わたくしが父上の役をやるわ」


◇


 王女は椅子に深く座り直し、顎を引いた。

 背筋が伸び、声が低くなった。十九の娘の顔が、急に年老いた王の顔になったように見えた。

「書記よ。大寒の冬が来る。王都は、春まで持つか」

 千束は紙を王女の前に置いた。

「陛下。王都の倉の麦の量と王都の人が一日に食べる量から計算しました。手をつけない分を倉の奥に取っておいても、春の終わりまでの量があります」

「では、持つのだな」

「計算上は、持ちます」

「計算上、とは」

「冬の寒さと上流から来る人の数と、倉から持ち出される量。それが私の見込みの範囲に収まれば、です。範囲を超えた場合は、その限りではありません」

「範囲を超える見込みは」

「十のうち、一か二です」

「では、十のうち八は持つのだな」

「はい」

「書記よ。持つと約束できるか」

 千束は口を閉じた。

 一秒。二秒。三秒。

「約束は、できません」

 王女の顔から、王の表情が消えた。

 十九の娘の顔に戻っていた。眉を寄せ、唇を噛んでいた。

「戸倉」

「はい」

「確率で言えば、のあとに何を言うつもりだったの」

「十のうち八は持つ、と」

「父上は、確率を召し上がらないわ」

 王女は机に肘をつき、額に手を当てた。

「王は、確率を食べないのよ。民も食べない。十のうち八と言われて、眠れる人がいると思う? 残りの二が自分の家だったらどうしようって、皆が思うわ。思った人から、蓄え始める」

「……」

「あの男は、必ずこう言うわ。天命により、持つ。あるいは、天命により、持たない。どちらでも、皆は眠れる。少なくとも、明日の朝まではね」

 千束は膝の上で手を握りしめた。

「天命は嘘です」

「知ってるわ。でも、あなたの数字は、本当なのに誰も眠らせない」

 王女の声には、怒りより疲れが滲んでいた。

 千束は何も言えなかった。

 塔の上で、あの男が言ったことと同じだった。お前の数字は、誰も眠らせない。


◇


 その夜、千束は倉番小屋の裏で、トマと並んで座っていた。

 冬至の近い夜の風が、七つの倉のあいだを吹き抜けていた。空気が乾いて、星がよく見えた。トマは杖を膝に横たえ、見えない目で空のほうを向いていた。

「王女さまに叱られたか」

「叱られたわけではありません」

「声が沈んでおる」

 千束は膝を抱えた。

「約束できるか、と聞かれました」

「できると言えばよかろう」

「できるかどうか、分からないんです。計算では十のうち八は持ちます。でも、残りの二は持たない。持たなかったときに、約束したと言われたら」

「言われたら、どうなる」

 千束は答えなかった。

 答えは、喉の奥で固まっていた。

 十二年前の、乾燥室の熱い空気がよみがえった。

 特急の注文だった。量販店の新しい棚のために、二日で通常の倍を出せと、鷲尾が言った。千束は二十六だった。生産管理課に来て三年目で、鷲尾の前で「できません」と言える度胸はまだなかった。

 間に合います。

 そう答えた。

 出荷待ちのパレットに貼る現品票に、千束は赤いペンで書き添えた。特急。間に合わせます。戸倉。自分の手で書いた、自分の約束だった。

 その夜、ラインは徹夜で回った。明け方の段取り替えで、班長の久保が型の交換をしていた。四十を過ぎたばかりの、無口で手の速い人だった。疲れていたのだと思う。千束も、久保も、ラインの全員が。

 型が落ちた。

 久保の右手の指が、二本、その下にあった。

 千束はそのとき、事務所で出荷の手配をしていた。電話で呼ばれて駆け下りたとき、久保は床に座り込み、白いタオルで右手を押さえていた。タオルが、赤く染まっていた。

 久保は千束を見上げて、言った。

 間に合ったか。

 千束は、何と答えたのか覚えていない。

 出荷は間に合った。札に書いた約束は、守られた。

 久保は翌月、工場を辞めた。

「娘」

 トマの声が、千束を倉の裏の夜に引き戻した。

「何か、思い出しておったな」

「……前の場所で、一度だけ、約束をしました」

「守れなんだか」

「守れました」

 千束は自分の膝に額を押しつけた。

「守るために、ある人の手が潰れました」

 トマは長いあいだ黙っていた。

 風が倉の瓦を鳴らしていた。

「それで、約束をやめたか」

「はい」

「数字を、盾にしてか」

 千束は顔を上げた。

 トマの濁った目が、星の明かりの中で千束のほうを向いていた。

「娘。わしは目が見えん。じゃから、おぬしの数字は見えん。じゃが、おぬしの声は聞こえる。数字の話をするとき、おぬしの声は、誰かを押し返しておる」

「押し返して」

「近づくな、と言うておる。わしの数字の向こう側に来るな、と」

 千束は唇を噛んだ。

「数字は、約束の道具じゃ」

 トマは杖を握り直した。

「何袋あるか数えるのは、何袋配ると約束するためじゃ。盾にするために数えるんなら、数えんほうがまだましじゃ。盾の向こうで、誰かが腹を空かせておるからの」

 千束は何も言えなかった。

 トマは立ち上がり、杖で地面を探りながら、倉番小屋のほうへ歩き出した。数歩行ったところで、立ち止まった。

「その人の手が潰れたのは、おぬしが約束したからか」

「……」

「それとも、守れん約束を、守れるように見せたからか」

 トマはそれ以上何も言わず、小屋の中へ消えた。

 千束は一人、星の下に残された。

 守れない約束を、守れるように見せた。

 間に合います。あの言葉の下に、千束は計画の数字を書いていなかった。乾燥室の能力も、段取り替えに要る時間も、徹夜の人間の手の速さも。書いていたのは、鷲尾の顔色だけだった。

 そして事故のあと、是正処置の報告書の原因欄に、千束はこう書いた。

 作業者の確認不足による作業ミス。

 本当の原因は、そこには書かなかった。


◇


「チヅカ。あんぜんざいこって、何」

 小屋に戻ると、リコが藁の寝床から顔を出して聞いた。起きていたらしい。

「聞いていたんですか」

「王女さまのところの話。ダンが教えてくれた」

 ダンは隣の寝床で、背中を向けて寝ていた。寝息は聞こえなかった。

「手をつけない分です。何かあったときのために、普段は使わずに取っておく分」

「ふうん」

 リコは寝床の中でごそごそと動いた。それから、小さな布袋を二つ、千束の前に差し出した。

 一つは、いつもの小石の袋だった。

 もう一つは、それより小さな袋だった。口が固く縛ってある。

「これ、あたしのあんぜんざいこ」

 リコは小さな袋の口を開けた。

 中には、小さく割ったパンのかけらが、いくつも入っていた。乾いて固くなっている。

「毎日トビにあげるパンを、ほんの少しずつ残してここに入れてるの。トビが熱を出して、あたしが孤児院に行けない日があったら困るから。そのときに、ヘルガ院長に頼んで、これを渡してもらう」

「いつから」

「チヅカが来る前から」

 千束はパンのかけらを見つめた。

 ばらつきもリードタイムも、安全在庫という言葉も、この子は知らなかった。知らないまま、弟が飢えない一番悪い日を想像して、手をつけない分を毎日少しずつ貯めていた。

「これに手をつけたことは、ありますか」

「一回だけ。トビが熱を出したとき」

「足りましたか」

「足りた」

 リコは袋の口を、また固く縛った。

「足りるかどうかなんて、分かんなかったけどね。足りるって決めて、残してたの。トビに約束したから。ねえちゃんがいなくても、パンはあるからねって」

 千束は息を止めていた。

 足りるかどうか分からないまま、足りると決めて、残していた。

 約束したから。

「チヅカ?」

「……なんでもありません」

 千束はリコの頭に、そっと手を置いた。灰色の髪は、乾いた藁の匂いがした。

「その袋は、正しいです。とても」

 リコは得意そうに鼻を鳴らした。

 壁際で、ダンの背中が小さく揺れた。笑ったのか、ただ寝返りを打っただけなのか、千束には分からなかった。


◇


 冬至の五日前、千束は王宮の東の部屋に呼ばれた。

 王女は窓辺に立っていた。手に、何か重たいものを持っていた。

 鉄の輪に、鍵がいくつも通されていた。黒ずんだ鉄の鍵。真鍮の鍵。長いもの、短いもの。一本一本に、小さな木の札が結びつけられている。札には焼き印で、倉の名前が刻まれていた。

 一の倉。二の倉。三の倉。七の倉まで。その先にも、千束の知らない名前の札が並んでいた。河岸の南倉。王宮の地下倉。西の支流の粉倉。

「王都大倉の鍵束よ」

 王女は言った。

「倉奉行が任じられたときに、天命院から預かることになっているもの。わたくしは十五のときに一度だけ手に取って、すぐに天命院へ返したわ。倉の鍵は、天命院の宣託官が持っていたほうが安心だと言われてね」

「それを、どうして」

「取り返したの」

 王女は少しだけ笑った。疲れた笑い方だった。

「昨日、父上に頼んで、天命院から取り戻してもらった。評定の前に、倉奉行として王都の倉を検めたいって。父上は渋い顔をなさったけど、倉奉行の務めだと言われれば、断れないわ」

 王女は鍵束を、千束の前に差し出した。

 鉄の輪が、窓の光を鈍く反射していた。

「戸倉。評定までに、王都の倉を全部数えなさい」

 千束は鍵束を見つめた。

 これだった。

 この世界に落ちてきて、三の倉の袋を数えたときから、ずっと欲しかったものだった。夜中にこそこそと、見回りの兵に怯えながら数えるのではなく。正面の扉を開けて灯りをともし、すべての倉を端から端まで数える。天命の数ではなく、本当の数を。

「五日で」

「四日よ。最後の一日は、評定の支度に使うわ」

「王都の倉は、全部でいくつありますか」

「この鍵の数だけ」

 千束は鍵の数を数えた。

 十九本あった。

 四日で、十九の倉。夜中に一の倉を数えるのに、三晩かかった。

 前の場所なら一秒で数字を見て、一秒で答えを決めて、三秒目に言っていた。

 できません。

 千束は手を伸ばした。

 鉄の輪は、思っていたよりずっと重かった。指に冷たさが染みた。鍵どうしが触れ合って、小さく鳴った。

「……数えます」

 千束は言った。

「全部」

 王女の目が、わずかに見開かれた。

 それから、王女は窓の外に目をやった。王宮の屋根の向こうに、白い塔が細く伸びていた。

「天命院は、もう知っているわ。鍵束が倉奉行に渡ったことを」

「……」

「あの男が、黙って見ているとは思えない」

 千束は鍵束を胸に抱えた。

 重さが、腕の中で静かに鳴った。


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