第十章 ボトルネック――七つの水車は止まっていなかった。止められていた
西の支流の水は、少しも減っていなかった。
千束は川岸の石に膝をつき、流れに手を入れた。冷たかった。指のあいだを、水が強く押し流していく。ネーヴァなら竿で深さを測っただろう。千束には竿がなかったが、手の甲に当たる水の重さで分かった。この流れなら、水車は十分に回る。
「水は足りています」
千束は立ち上がって、オスカーに言った。
「だから困ってるんだよ」
オスカーは髭をかきむしった。
「水はある。石臼もある。麦もある。なのに、粉が出てこねえ」
七つの水車小屋が、支流に沿って並んでいた。
どの小屋の水車も、回っていなかった。水は羽根板の脇をむなしく流れ落ち、木の歯車は止まったまま、苔の匂いのする湿った空気の中で黙っていた。
小屋の中から、金槌の音が聞こえていた。
かん、かん、かんと。石を叩く、乾いた音だった。
◇
オスカーの小屋の中では、男が三人がかりで石臼を持ち上げていた。
直径が大人の背丈ほどもある、丸い石だった。上の石を太い縄と滑車で吊り上げ、脇へずらす。下の石の表面には、細い溝が放射状に何本も刻まれていた。男の一人が、その溝に鑿を当てて、金槌で叩いていた。
「目立てだ」
オスカーが言った。
「石臼の溝は、挽いてるうちにすり減る。すり減ったら、溝を刻み直さなきゃ粉が粗くなる。それに小麦を挽いたあとに大麦を挽くなら、臼の隙間を変えて溝も合わせて刻み直す。麦が違えば、臼の具合も違うんだ」
「一回の付け替えに、どのくらいかかりますか」
「半日」
「半日も」
「臼を吊り上げて溝を刻む。また下ろして隙間を合わせる。半日で済めば上等だ」
「付け替えは、一日に何回ありますか」
オスカーは苦い顔をした。
「今は、一日二回」
「前は」
「前は、ひと月に一回か二回だった。小麦なら小麦を、何日も続けて挽いてたからな」
「どうして増えたんですか」
オスカーは小屋の壁に打ちつけられた木の板を指さした。天命帳の写しだった。新しい板だ。秋分の朗読のあとに、天命院の使いが打ちつけていったものだという。
千束は板の数字を読んだ。
西の支流の水車小屋は、毎日、小麦と大麦とライ麦の三種を挽くこと。大寒に備え、三種の粉を毎日欠かさず蓄えるべし。
千束は息を吐いた。
「毎日、三種類を挽く。だから毎日、臼を付け替える」
「そういうこった。朝に小麦を挽いて、昼に臼を付け替えて大麦を挽いて、夕方にまた付け替えてライ麦。付け替えのたびに半日止まる。一日の半分以上、水車は止まってる」
「止まっているのではなく、止められているんですね」
オスカーは千束を見た。
それから、苦笑いのような、泣き出しそうな顔をした。
「天命だよ。誰が逆らえるってんだ」
千束は小屋の外へ出た。
七つの水車小屋を、端から端まで見渡した。どの小屋からも、金槌の音がしていた。かん、かん、かん。止まった水車が七つ、川面に影を落としていた。
部品表のいちばん下の枝を直しても、その上が詰まっている。
大倉には麦がある。団子のおかげでパン屋の窯には火がある。その真ん中で、粉が出てこない。麦を粉に変える工程が、流れ全体をせき止めていた。
ボトルネック。
瓶の首、という意味だ。瓶をどれだけ大きくしても、首が細ければ水は首の太さの分しか出てこない。工場の流れで、いちばん遅い工程のことをそう呼んでいた。そこを速くしない限り、ほかのどこを速くしても、全体は一つも速くならない。
千束は手帳を開き、粉の流れを書いた。
大倉。荷車。水車小屋。粉屋。パン屋。食べる人。
水車小屋に、丸をつけた。
丸の中が、空っぽに見えた。
◇
その日の夕方、王都に新しい天命が告げられた。
秋の終わりの、臨時の朗読だった。大聖堂の鐘が七回だけ鳴らされ、広場に人々が集まった。千束は広場の端の、パン屋の軒下から露台を見上げた。
白い布の向こうに、背の高い影が立っていた。
「天命を告げる」
あの声だった。
「大寒の初めの冬に、王都の倉は空になる。蓄えは、天命院の聖なる倉へ預けよ。神の倉のみが、民を飢えから守る」
広場がどよめいた。
悲鳴が上がった。人々が走り出した。粉屋へ、パン屋へ、市場へ。
千束は軒下から動かなかった。
競争だ、とあの男は言った。俺は約束を売る。お前は数字を売れ。
千束は手帳の、河岸地区のページを開いた。
毎日、売れた分だけ届ける。昨日も届いた。今朝も届いた。
広場から市場へ流れ込んでいく人の波の中で、河岸のほうへ向かう人だけが、走っていなかった。
翌朝、リコが報告に来た。
「ほかの地区は、また粉が上がった。二十五枚だって」
「河岸は」
「十四枚。ちょっとだけ上がった。でも、マルタさんの店の列は、昨日と同じくらい」
「どうしてだと思いますか」
リコは少し考えた。
「毎朝、パンがあるから。明日もあるって、みんな知ってるから」
千束は手帳に数字を書いた。
河岸、十四。その他、二十五。
天命の約束より、毎朝のパンのほうが、少しだけ人を眠らせた。
少しだけだった。粉が出てこなければ、毎朝のパンも止まる。
◇
粉屋組合の長は、ガンツという名の老人だった。
七つの水車小屋をまとめる男で、王都の西の支流沿いに、いちばん大きな小屋を構えていた。白い眉が目の上に覆いかぶさるほど伸び、腕にはいくつもの古い火傷の痕があった。
「臼を付け替えるなと言うのか」
ガンツは千束の話を、最後まで聞かなかった。
「天命は三種を毎日挽けと言っておる。逆らえば、組合ごと天命院に潰される」
「三種を、毎日挽くのは変えません」
千束は言った。
「ただ、一つの小屋で三種を挽くのをやめます。七つの小屋で、分けて挽きます」
ガンツの白い眉が動いた。
千束は小屋の床に、木炭で七つの四角を描いた。
「西の支流の水車は七つです。上流の三つは小麦だけを挽く。真ん中の二つは大麦だけ。下流の二つはライ麦だけ。どの小屋も、一日じゅう同じ麦を挽き続けます。臼を付け替える必要がありません。それでも七つの小屋を合わせれば、毎日、三種の粉が出ます」
「……天命の文言どおりではあるな」
ガンツは床の四角を見下ろした。
「西の支流の水車小屋は、毎日、三種を挽くこと。支流全体で、三種を挽く」
「はい。どの小屋が何を挽けとは、天命には書いてありません」
ガンツの喉の奥で、何かが鳴った。笑ったのか、唸ったのか、分からなかった。
「じゃが、目立ては要る。溝はすり減る。同じ麦を挽き続けても、何日かに一度は臼を上げにゃならん。そのたびに半日止まるぞ」
「止まらないようにします」
「どうやって」
千束は小屋の裏手を指さした。
そこには、古い石臼がいくつも積み上げられていた。割れたもの、欠けたもの、まだ使えそうなもの。苔に覆われて、半ば地面に埋もれていた。
「予備の臼ですね」
「昔のじゃ。割れたのを取り替えたときの残りよ」
「まだ使えるものがあれば、水車が回っているあいだに、そちらの臼に溝を刻んでおきます。今使っている臼がすり減ったら、吊り上げて、溝を刻み終えた予備の臼と入れ替える。外した臼は、また水車が回っているあいだに刻み直す」
ガンツが黙った。
千束は床の四角の脇に、二本の線を引いた。
「前にいた場所では、これを段取り替えと呼んでいました。品物を切り替えるための準備です。準備には二種類あります。機械を止めないとできない準備と、機械を動かしたままでも先にやれる準備。止めないとできないほうを内段取り、動かしたままできるほうを外段取りといいます」
「内と、外」
「今は、目立てを臼を止めてからやっています。内段取りです。溝を刻むのは、本当は臼を止めなくてもできる。予備の臼でやればいい。外段取りに出せます。そうすれば、止めるのは臼を吊って入れ替える時間だけになります」
「入れ替えだけなら……一刻もかからん」
ガンツの声が、低くなっていた。
「半日が、一刻」
「はい」
ガンツは長いあいだ、床に描かれた線を見つめていた。
それから小屋の裏の苔むした臼の山へ歩いていき、一つ一つ足で蹴って音を確かめた。割れた臼は鈍い音がした。使える臼は、硬く澄んだ音がした。
「四つは使える」
ガンツは振り返った。
「じゃが、臼は重いぞ。吊り上げて、入れ替えて、また吊り上げる。一刻でやるには、腕のいい男手が要る」
千束の後ろで、ダンが袖をまくった。
◇
最初の入れ替えは、三日後の朝だった。
オスカーの小屋の水車が、朝から小麦だけを挽き続けていた。昼前、臼の溝がすり減って、粉が粗くなり始めた。オスカーが合図すると、水門が閉じられ、水車がゆっくりと止まった。
ガンツが、小屋の外で砂時計を返した。
一刻を測る砂時計だった。
「始めろ」
男たちが滑車の縄に飛びついた。上の臼が吊り上がる。ダンが下に潜り込み、臼の縁に両手をかけて、脇の台車へ押し出した。台車の上には、昨日のうちに溝を刻み終えた予備の臼が載っていた。
「下ろすぞ!」
縄が鳴った。
刻み直した臼が、ゆっくりと下りてくる。ダンが両腕で臼の縁を支え、軸の穴を心棒に合わせた。額に汗が流れていた。腕の筋が浮き上がり、首の血管が太く膨らんでいた。
「合った」
ダンが言った。
オスカーが隙間を確かめる。鑿の柄で臼の縁を叩き、音を聞く。
「よし」
水門が開いた。
水が羽根板に当たり、水車が軋みながら回り始めた。歯車が噛み合い、臼が回る。臼の口から、白い粉が細い滝のように流れ落ちてきた。
ガンツが砂時計を見た。
砂は、まだ半分以上残っていた。
「……半刻もかかっとらん」
小屋の周りに集まっていた粉屋たちが、どよめいた。
ほかの六つの小屋の男たちが、口々に叫んでいた。半刻だと。嘘だろう。うちの臼でもできるのか。予備の臼はどこにある。
ダンは小屋の床に座り込み、肩で息をしていた。
千束は手帳に書いた。
段取り替え、半日から半刻へ。
それから、少し迷って、もう一行足した。
ダン、腕。
十日目には、七つの水車小屋が全部、同じやり方で回り始めた。上流の三つが小麦、真ん中の二つが大麦、下流の二つがライ麦。どの小屋にも、裏に予備の臼が一つずつ据えられ、水車が回っているあいだに石工が溝を刻んでいた。
西の支流から出てくる粉の量は、倍になった。
ガンツは千束の前に立ち、白い眉の下から長いあいだ千束を見下ろしていた。
「娘」
「はい」
「わしは四十年、臼を回してきた。止めずに臼を替えるなんてことは、考えたこともなかった」
「私も、自分で考えたわけではありません。前にいた場所で、同じことで困った人たちが考えたやり方です」
「それを、ここまで持ってきたのは娘じゃ」
ガンツは自分の火傷の痕だらけの手を見下ろした。
「止まっとったのは、臼じゃなかったんじゃな。わしらの頭じゃった」
ガンツは千束に、深く頭を下げた。
千束は慌てて、それより深く頭を下げた。リコが横で吹き出した。
◇
「それは、どれだけ確かなの」
その夜、王宮の東の部屋で、イレーネ王女は千束の手帳をのぞき込んで言った。
机の上には、千束が書き写した数字の紙が何枚も並んでいた。河岸地区の粉の値段。王都中のパン屋の窯の数と、団子で焼けるパンの数。西の支流の水車が挽く粉の量。
「粉が倍になったのは確かです。七つの小屋で、毎日数えています」
「では、王都のパンは足りるの」
「今のところは」
「今のところ、というのは」
「大倉の麦が、今の量のままなら。天秤の荷車が、これ以上麦を持ち出さないなら。冬が、天命の言うほど寒くならないなら」
王女は顔を上げた。
「ならないなら、ばかりね」
「はい」
「あなたの数字は正確よ。わたくし、毎晩足し算してるもの。でも、あなたの数字には、いつも『なら』がついている」
千束は黙った。
王女は窓辺へ歩いていき、外の闇を見た。王都の灯りの向こうに、白い塔がぼんやりと浮かんでいた。
「戸倉。冬至の日に、王宮で評定が開かれるの」
「評定」
「年に一度、王と大臣と天命院が集まって、冬を越すための決まりごとを話し合う場よ。今年の評定は、大寒をどう越すかを決めることになる」
王女は振り返った。
「父上は、一つだけ問われるはずよ」
千束は王女の顔を見た。
王女の目の下の影が、灯りの中でいつもより濃く見えた。
「春まで持つか」
王女は言った。
「その問いに、わたくしの書記として、あなたが答えるの」




