第九章 部品表――パン一個をばらしてみたら、足りないのは薪だった
「パン一個は、何でできていますか」
翌朝、千束はマルタの店の作業台の前で言った。
店の奥は狭かった。粉袋が壁際に積まれ、作業台の上には昨日の生地の名残が白く乾いている。窯の口は黒く煤け、中はひんやりとしていた。火が入っていない窯は、ただの石の穴だった。
「何って、粉だよ」
マルタが腕を組んだ。
「粉と水と塩と、パン種。あたしが四十年こねてきたんだ。いまさら何を聞くのさ」
「それだけですか」
「それだけだよ」
「焼くには」
マルタは口を開きかけて、閉じた。
千束は作業台の端に、木炭のかけらで線を引いた。いちばん上に、パン一個。その下に枝分かれさせて、項目を書いていく。
粉。水。塩。パン種。
さらにその横に、もう一本の枝を伸ばした。
薪。窯の時間。こねる手。
「前にいた場所では、これを部品表と呼んでいました」
「ぶひんひょう」
「一つの品物が、何から、いくつずつできているかの一覧です。料理でいえば、作り方の紙に書いてある材料の一覧に近いです。ただ、部品表には、目に見えないものも書きます。焼く火や、窯が空いている時間や、人の手。それがないと、材料が全部そろっていても品物はできません」
マルタは木炭の線を見下ろした。
「火も、材料なのかい」
「材料です。パンを焼くのに要るなら」
リコが作業台の下から首を伸ばした。
「じゃあ、チヅカの部品表は?」
「私ですか」
「チヅカは、何でできてるの」
千束は少し考えた。
「手帳と、ボールペンと、計算です」
「あと、足の遅さ」
「それは部品ではありません」
マルタが噴き出した。煤で黒い顔に、白い歯が見えた。
千束は炭で、薪の項目を丸く囲んだ。
「マルタさんの窯は、一回火を入れると、パンが何個焼けますか」
「一窯で八十個。朝に三窯、昼に二窯」
「一窯に、薪は何束要りますか」
「火を起こして窯を温めるのに四束。焼いてるあいだに足すのが一束。だから一窯五束」
「一日五窯なら、二十五束」
「そう。いつもなら、薪屋が毎朝三十束置いていく」
「今は」
「昨日は八束。今朝はゼロだよ」
千束は手帳を開いた。
河岸地区のパン屋は八軒。どの店も窯の大きさは似たようなものだと、走り使いの子どもたちから聞いている。一軒が一日二十五束なら、八軒で二百束。王都全体では、パン屋が六十軒を越える。一日に千五百束を越える薪が、パンを焼くためだけに燃えている計算になる。
その薪が、来ていない。
部品表の、いちばん目立たない枝が、折れていた。
◇
王都の薪は、北の丘陵の森から運ばれてくる。
千束は、走り使いの子どもたちに頼んで、薪屋を一軒ずつ回ってもらった。夕方には、子どもたちが小石を握りしめて戻ってきた。どの子の話も、同じだった。
「森の木を切る権利を、商会が全部買ったって」
「薪屋は商会から薪を買わなきゃいけなくなった。値段が五倍だって」
「大寒に備えて、天命院が薪も蓄えろって言ったんだって」
天秤商会だった。
麦だけではなかった。大寒に要るものは、全部だった。麦も、薪も、塩も。天命が「三年の大寒」を告げた日から、あの商会は、人が怖がるものを先回りして買い占めていた。
「わざわざ薪を買い占めて、何になるの」
リコが聞いた。
「パンが焼けなくなります。パンが焼けなければ、人はもっと怖くなります。怖くなれば、もっと蓄えます。蓄えるために、もっと高く買います」
「それ、鞭?」
「鞭です」
千束は手帳の、予実の欄を見た。
薪の天命は、どこにもなかった。天命帳の板にも、薪については何も書かれていない。予がないのだから、差異も出ない。誰も、薪が足りなくなることを予定していなかった。
だから、誰も気づかなかった。
◇
天秤商会の会頭が大倉を訪ねてきたのは、その二日後だった。
バルトロという男だった。市場で鞭を見せたとき、後ろのほうで腕を組んでいた、毛皮の帽子の太った商人だ。今日は帽子の上に羽根飾りまでつけ、胸の天秤の飾りは金でできていた。後ろに、荷物持ちの若い男を二人従えていた。
「札の魔女どの。いや、倉奉行の書記どの」
バルトロは大げさに両腕を広げた。
「先日は市場で失礼した。今日は、商いの話をしに来た」
「どうぞ」
千束は倉番小屋の前の木箱に腰かけたまま言った。立ち上がらなかった。
バルトロの目が、一瞬だけ細くなった。それから、また笑顔に戻った。
「薪が要るそうだな。河岸のパン屋に、毎朝届けたいのだろう」
「はい」
「わしの商会には、薪がある。山ほどある。書記どのが天命院のやり方に口を出すのをやめてくださるなら、河岸のパン屋に昔の値段で薪を回してもよい」
「口を出す、というのは」
「札だよ」
バルトロは千束の足元に積まれた、札の束を指さした。
「袋に番号をつけて、どこへ行ったか書き留める。あれをやめてもらいたい。天命院の倉の麦を、人が数えるのは不信心だ。商会としても、気持ちのいいものではない」
「商会の荷車が、配給の袋を入れ替えられなくなるからですか」
バルトロの笑顔が、凍りついた。
荷物持ちの若い男の一人が、懐に手を入れかけた。バルトロが、その腕を押さえた。
「……書記どのは、口が過ぎる」
「よく言われます」
千束は立ち上がった。
「お断りします。札はやめません。薪は、別の方法で探します」
「別の方法だと」
バルトロは声を上げて笑った。
「北の森は、全部わしのものだ。南は湿地で木が育たん。東と西は畑だ。王都に入る薪は、一本残らずわしの手を通る。別の方法など、どこにある」
「探します」
「見つからなければ、王都中のパン屋の窯が冷える。そのとき、市場の民は誰を恨むかな」
バルトロは千束の顔に、太い指を突きつけた。
「札の魔女が、天命に逆らったせいで、パンが焼けなくなった。そう噂が立ったら、書記どのはどうなさる」
千束は答えなかった。
バルトロは満足そうに鼻を鳴らすと、荷物持ちを従えて去っていった。羽根飾りが、風に揺れていた。
ダンが、倉の陰から出てきた。手に、太い棒を握っていた。
「殴っていいか」
「だめです」
「そうか」
ダンは棒を下ろした。少し残念そうだった。
◇
答えは、倉の中にあった。
その夜、千束は七つの倉の裏手を歩いていた。月の光が、倉の裏の空き地を照らしていた。
空き地には、山があった。
麦の山ではなかった。麦わらと、籾殻の山だった。
村から届く麦は、脱穀したあとの粒だけではない。茎のついたままの束で届く分もあり、大倉で倉番たちが打って粒を落とす。落としたあとの麦わらと、粒を包んでいた殻が、毎日のように裏の空き地に捨てられていた。春になれば、まとめて燃やすのだという。
千束は山の前にしゃがみ込み、麦わらを一本抜いた。
乾いていた。軽く、よく燃えそうだった。
ただ、軽すぎる。麦わらは一瞬で燃え上がり、一瞬で燃え尽きる。窯を温め続けるには、熱が足りない。
千束は籾殻を一握りすくった。指のあいだから、さらさらとこぼれていく。
「娘。何をしておる」
背後で、トマの声がした。杖の音が、近づいてきた。
「トマさん。麦わらと籾殻は、燃料になりますか」
「なるとも。昔は、村の竈はみんな麦わらで焚いておった」
「パンの窯は」
「麦わらだけでは、すぐ燃え尽きるな。わしの母は、麦わらを固くねじって束にしておった。それから、籾殻を泥と牛の糞で練って、団子にして干す。団子はゆっくり燃える。ねじった麦わらで火を起こして、団子で熱を保つ」
千束は籾殻をもう一度すくった。
「団子は、干すのに何日かかりますか」
「この時期なら、天気がよくて二日じゃな」
二日。
千束の頭の中で、勝手に計算が始まった。
王都のパン屋が一日に要る熱。麦わら一束と、籾殻団子一つで、薪一束のどれだけの代わりになるか。団子を作るのに要る籾殻の量と、泥と、人の手。干すのに要る二日。
明後日の朝に窯を焚くなら、今日、団子を練らなければならない。
完成品の数から、要る材料の量を逆に計算する。それぞれの材料が手に入るまでの時間をさかのぼって、いつ何を準備すればいいかを決める。前の場所では、資材所要量計画と呼んでいた。部品表と在庫とリードタイムを掛け合わせて、注文する日を割り出す計算だ。
千束は手帳を開いた。
明後日の朝、窯八軒分。
今日の夜のうちに、団子を何個。
明日の朝のうちに、麦わらの束を何本。
「トマさん。泥と、牛の糞と、人の手が要ります」
「人の手なら、倉番が三十人おる」
「泥は」
「河岸にいくらでもある」
「牛の糞は」
トマは喉の奥で笑った。
「牛を追う男から鞭を借りたのは、どこの誰じゃったかの」
◇
団子作りは、思っていたよりずっと汚い仕事だった。
倉の裏の空き地に、倉番たちと孤児院の年長の子たちが並んで、籾殻と泥と牛の糞を素手で練った。匂いがひどかった。リコは鼻をつまみながら、両手を茶色にして団子を丸めていた。
「チヅカ、これ、ほんとに燃えるの」
「計算上は」
「計算上じゃなくて」
「トマさんのお母さんが燃やしていました」
「それなら燃える」
リコは千束の言葉より、トマの母を信じた。
ダンは一人で、麦わらを固くねじって束にしていた。大きな手が、乾いた茎を縄のようにきつく撚り上げていく。トマが一度教えただけで、ダンの束は誰のものより固くなった。
練り上げた団子は、倉の屋根の上に並べて干した。黒い瓦の上に、茶色の団子が何百個も並んだ。月の光の下で、それは奇妙な眺めだった。
二日後の夜明け前、千束はダンと一緒に干し上がった団子と麦わらの束を荷車に積み、マルタの店へ運んだ。
マルタは窯の前で待っていた。
疑わしげな顔で、団子を一つつまみ上げ、鼻に近づけて顔をしかめた。
「これで焼けって?」
「麦わらで火を起こして、団子で熱を保ちます。燃え方は薪と違うので、火の足し方を変える必要があるかもしれません」
「あたしは四十年、薪で焼いてきたんだよ」
「はい」
「失敗したら、今朝のパンは全部炭だ」
「はい」
マルタは千束を睨んだ。
それから、ため息をついて、麦わらの束を窯の口に押し込んだ。
火打ち石を打つ音がした。
乾いた麦わらに火が移った。ぱちぱちと音を立てて、炎が一気に立ち上がった。窯の中が、橙色に染まった。
マルタはその上に、団子を三つ放り込んだ。
炎が、少し沈んだ。
店の中の全員が、息を詰めて窯を見つめていた。リコも、ダンも、走り使いの子どもたちも。
団子の表面が、じわりと赤くなった。
炎は大きくならなかった。けれど、消えもしなかった。団子は低く長く、赤い熾火になって燃え続けた。窯の口から、熱い空気がゆっくりと吐き出されてきた。
マルタが窯の壁に手をかざした。
しばらく黙っていた。
それから、窯の床に一つまみの粉を振りかけた。粉は、すぐに茶色く焦げた。
「……温まってる」
マルタは呟いた。
最初の八十個のパンが窯に入ったのは、夜が明けてすぐだった。
焼き上がったパンは、薪で焼いたものより、少しだけ皮の色が淡かった。マルタは一つを割り、湯気の立つ中身を指で押した。それから、黙って千束に半分を突き出した。
千束は受け取って、かじった。
熱かった。
「焦げてないね」
マルタが言った。
「焦げてません」
「ちゃんと焼けてる」
「焼けています」
マルタは千束の顔をまじまじと見た。
「あんた、なんでそんな顔してんのさ」
「……どんな顔ですか」
「褒められて困ってる顔だよ」
店の外には、もう長い列ができていた。列の先頭の老人が、焼きたてのパンを両手で受け取り、何度も頭を下げていた。
マルタは千束の肩を、粉だらけの手で強く叩いた。
「あんたの数字で、今日は焼けた」
千束は、口の中のパンを飲み込めなかった。
ありがとう、と言われることに、千束は慣れていなかった。前の場所では、数字を出すと、誰かの顔が曇った。できません、と言うと、誰かがため息をついた。数字は、いつも誰かの都合を断るためのものだった。
数字で、誰かのパンが焼けた。
どう受け取ればいいのか、分からなかった。
「どういたしまして、って言うんだよ」
横からリコが言った。
「……どういたしまして」
千束は言った。声が、少しかすれた。
ダンが窯の熱気の中で、肘を二度叩いていた。
◇
十日のうちに、籾殻団子は河岸の八軒から王都中のパン屋へ広がった。
大倉の裏の籾殻の山は、みるみる低くなった。倉番たちは毎日交代で団子を練り、孤児院の子どもたちは屋根に並べて干す仕事に駆り出された。子どもたちには、その日に焼けたパンが一個ずつ渡された。四分の一個ではなく、一個。団子を練った分の、正当な手間賃として、王女が許したのだった。
薪の値段は、上がるのをやめた。
バルトロは市場で、団子を「牛糞のパン」と呼んでけなした。けれど、牛糞のパンを買う列は毎朝長くなり、商会の薪は倉の中で売れ残った。
手帳の予実の欄に、千束は新しい行を足した。
薪。予、なし。実、王都で一日千五百束必要。団子にて代替、約六割。
そこまで書いたとき、倉番小屋の戸が乱暴に開いた。
粉屋のオスカーだった。髭に粉もつけていなかった。走ってきたのだろう、膝に手をついて息を切らしていた。
「書記さん」
「どうしましたか」
「水車が」
オスカーは顔を上げた。
「西の支流の水車が、止まりかけてる。七つ全部だ。このままじゃ、明日の粉が挽けねえ」




