第七話 追放された軍師は、最強の兵器を戦わせない
世界最強の兵器を守るため、俺たちの戦争が始まった。
『全回収車両、前進を停止しろ!』
アークの命令が、軍用回線を通じて北の丘へ飛ぶ。
だが、巨大な黒い円環を載せた車両は止まらない。
左右を走る二台の大型牽引車から、太い管が伸びている。
一台は黒煙を吐き、もう一台は白い冷気を引きずっていた。
動力供給と冷却装置。
中央の円環だけでは動かない。三台で一つの回収装置らしい。
『第零号。帰還準備へ移行』
低い声が要塞全体を震わせた。
耳から聞こえているのではない。
胸骨の内側へ、直接響いてくるような音だった。
『マスター』
つないだままの内線から、ノアの声がする。
『身体の制御に、遅延が発生しています』
「そこから出るな」
『私が接近すれば、装置を破壊できます』
「却下だ」
『ですが――』
「三週間前、お前が門を支えただろ」
俺は送話器を握ったまま、地図へ目を落とした。
旧弾薬庫は岩山の中心にある。
厚い岩盤が干渉を弱めているが、完全には防げない。
「今度は、お前が守られる番だ」
返事が途切れた。
遠くで汽笛が鳴る。
黒い円環を載せた車両が、北側道路へ入った。
『……承知しました』
ノアが答える。
いつものように命令を受け入れただけなのか。
それとも、自分で残ると決めたのか。
今は確かめている余裕がない。
「リーゼ」
「帝国軍回線へ接続済みです」
リーゼが通信卓の切り替え器を下ろす。
検問所にある古い拡声器が鳴り、アークの声が北の丘へ拡散された。
『帝国軍全将兵へ告ぐ。現在前進している技術院車両は、私の停止命令に違反している。全部隊、その場を動くな。攻撃に加わることを禁ずる』
丘に並んだ十二両の戦車が停止する。
随伴歩兵も、銃を構えたまま動かなかった。
だが、技術院の灰色の軍服を着た警備兵だけが、三台の車両を囲んで前進を続ける。
ヴァイスが、拘束されたまま鼻で笑った。
「皇太子殿下のご命令は、准将一人の判断より優先されます」
「この部隊の指揮官は私だ」
アークが拳銃を抜いた。
銃口を向けた先は俺ではない。
ヴァイスだった。
「貴官には、交渉決裂時の回収権限しか与えられていない。私の指揮下にある兵を動かす権限はない」
「第零号の回収は、帝国存亡に関わる最優先任務です」
「だからといって、命令系統を無視してよい理由にはならん」
アークが軍用回線の送話器を取る。
『繰り返す。私の命令なく発砲した者は、敵前命令違反として拘束する』
帝国軍は動かない。
千五百人の兵士と十二両の戦車。
その全てが、戦場から外れた。
「随分と助かる」
俺が言うと、アークはこちらを睨んだ。
「勘違いするな。お前に協力しているわけではない」
「分かってる。部下に言うことを聞いてもらえない、可哀想な技術院を眺めていただけだ」
「戦闘が終わったら、お前も拘束する」
「順番待ちにしておいてくれ」
アークは何か言い返しかけ、やめた。
北側観測所から報告が入る。
『回収車両、第一標点を通過!』
俺は地図の上に置いた三つの黒い駒を動かした。
「オスカー。始めろ」
『了解だ』
◇
グラウエン要塞へ続く北側道路は、岩山の斜面を削って造られている。
左は崖。
右は急斜面。
大型車両が通れる道は、ここしかない。
だから三週間、幅と傾斜と地盤を測り続けた。
どこへ何トンの車両が乗れば、どの場所に負荷が集中するのか。
その答えが、今、北側道路の中央に並んでいる。
「西側第一砲塔、照準よし!」
「第二砲塔、装填完了!」
要塞の二門が、ゆっくりと砲口を下げる。
狙っているのは巨大円環ではない。
その三十メートル先。
道路を支える石造りの擁壁だ。
『発射用意!』
オスカーの声。
『撃て!』
二つの轟音が重なった。
砲弾が回収車両の頭上を通り過ぎる。
技術院警備隊が、一瞬遅れて地面へ伏せた。
砲弾は、道路脇の擁壁へ着弾する。
石と土が噴き上がった。
「外した?」
ヴァイスが呟く。
「そう見えるか」
俺は地下機関室へ回線をつないだ。
「蒸気弁を開けろ」
『全開!』
地面の下で、太い管が震えた。
かつて北側道路には、冬季の凍結を防ぐための蒸気管が通されていた。
二十年前に使われなくなった設備だ。
三週間かけて穴を塞ぎ、黒晶炭を燃やし、今朝から限界まで圧力を溜めていた。
崩れた擁壁の亀裂から、高温の蒸気が噴き出す。
土が内側から持ち上がった。
巨大円環の前を走っていた動力車が、慌てて制動をかける。
間に合わない。
道路が崩れた。
前輪が陥没へ落ち、車体が大きく傾く。
さらに円環車両の後方でも、別の蒸気管が破裂した。
冷却車両が後退しようとするが、後輪が柔らかくなった地面へ沈む。
三台は、前にも後ろにも進めなくなった。
「車両を狙わなかったのか」
アークが地図を見る。
「中に人がいるからな」
「では、何を撃った」
「道だ」
俺は崩落した部分へ赤い線を引く。
「道なら死なない」
「詭弁だな」
「褒め言葉として受け取っておく」
ヴァイスの表情から、薄い笑みが消えた。
「警備隊だけで前進させろ」
彼が命じる。
「円環を要塞へ近づける必要はありません。第零号を地上まで誘導できれば、それでよい」
技術院警備隊、およそ百二十名が車両を離れた。
携行式の小型円環を背負った兵士が混ざっている。
灰色の列が、正門へ向けて動き始めた。
「第二段階へ移行」
リーゼが電鍵を叩く。
要塞の車庫から、二両の戦車が発進した。
◇
一両目の戦車が、正門前の低地へ白煙を吐き出す。
旧式の煙幕発生器。
本来は車体を隠すためのものだが、今日は違う。
風向きに合わせて噴き出した煙が、接近する技術院警備隊の視界を奪った。
『目標を見失った!』
『前方に車両音!』
『発砲を許可する!』
白煙の中で銃声が連続する。
弾丸は戦車の正面装甲に弾かれた。
二両目は側面の細道から現れ、冷却車両へ接近する。
砲塔は後ろを向いている。
代わりに、車体前部へ工兵用の衝角を取りつけてあった。
戦車が加速する。
冷却車両と円環車両をつなぐ牽引棒へ、衝角が突き刺さった。
金属が折れる。
冷却車両の前輪が横へずれ、完全に動きを止めた。
「砲を使わない戦車など、初めて見ました」
リーゼが双眼鏡を覗いたまま言う。
「砲弾が高いんだ。車体を使えるなら、その方がいい」
「修理費は計算されましたか」
「今は戦闘中だぞ」
「だからこそ伺っております」
「あとにしてくれ」
「記録しました」
「何をだ」
「支払いを先送りにした事実を」
戦場で予算の話をする副官を雇った覚えはない。
だが、おそらく雇用契約書の写しを三部出されるので黙っておく。
煙の向こうで、技術院警備隊が二手へ分かれた。
一隊は戦車を迂回し、正門へ。
もう一隊は冷却車両を守ろうとしている。
その進路へ、坂の上から黒い塊が走ってきた。
三両目の戦車だった。
機関部は空。
砲塔もない。
使える部品を全て二両へ移した、鉄の棺桶だ。
重力だけで坂を下り、技術院警備隊の前を横切る。
道路脇へ激突し、横転した。
道が塞がれる。
「三両目は動かないと聞いていたぞ」
アークが言う。
「坂道では、壊れた戦車も動く」
『カイル!』
オスカーの怒声が通信機から響いた。
『あれは戦車墓場へ置いておく約束だったはずだ!』
「ちゃんと墓場へ送っただろ。横向きになったが」
『整備兵が礼まで書いた車体だぞ!』
「敵兵にも読んでもらえる」
横転した車体には、白墨の文字が大きく残っていた。
――お疲れさま。
それを盾にすることになった技術院警備隊が、困惑している。
『死んだ戦車まで戦力に数えるか』
「俺も死んだ人間だからな」
俺は答えた。
「死者の扱いには慣れてる」
『お前の葬式では、棺桶も使い回してやる』
「経済的で助かる」
技術院警備隊の前進が止まった。
だが、黒い円環は止まっていない。
むしろ光が強くなる。
『第零号。帰還経路を確認』
内線から、何かが落ちる音がした。
「ノア?」
『……聞こえています』
声が遠い。
『右腕が、命令に従いません』
「扉から離れろ」
『実行できません』
喉の奥で息を詰まらせる音。
『身体が、扉へ向かっています』
◇
旧弾薬庫の中で、ノアは一歩ずつ扉へ近づいていた。
右手には鍵が握られている。
自分で閉めた扉。
自分だけが開けられる扉。
それなのに、指は命令どおり鍵を差し込もうとしている。
「……嫌、です」
誰へ告げるでもなく、ノアは声を絞り出した。
右足が前へ出る。
左足が続く。
首の傷から伸びた黒い線が、胸元へ広がっていた。
『第零号。帰還せよ』
研究施設で、何度も聞いた命令だった。
検査が終われば、白い部屋へ戻る。
戦闘が終われば、拘束装置へ戻る。
帰る場所を、自分で選んだことはなかった。
ノアの手が扉へ伸びる。
鍵の先端が、鍵穴へ触れた。
机の上には、押し花を挟んだ帳面が置かれている。
柱。
梁。
筋交い。
坑道で働く人間の名前。
厨房で教わったパンの作り方。
明日は、自分が焼く番だった。
「戻りません」
命令ではない。
誰かに求められた回答でもない。
ノアは左手で、右手の指を握り込んだ。
爪が皮膚へ食い込む。
鍵が床へ落ちた。
身体は扉へ進もうとする。
それでも、開けるための鍵は拾わない。
「私は、ここにいたいです」
ノアは扉へ背を預け、その場へ座り込んだ。
両手を自分の胸へ抱える。
誰かの命令ではなく、自分の身体を自分で押さえた。
内線の向こうから、カイルの声が聞こえる。
『ノア、返事をしろ』
「……聞こえています」
『扉は』
「閉じています」
『そうか』
短い返事だった。
けれど、それだけで呼吸が少し楽になった。
『必ず壊す。それまで待ってろ』
「はい」
一度答えてから、ノアは言い直す。
「待ちたいので、待ちます」
回線の向こうで、カイルが僅かに息を止めた。
『上出来だ』
◇
「回収装置は、なぜ冷却車両を切り離されても動く」
アークがヴァイスへ詰め寄る。
「予備系統があります」
「停止させろ」
「できません」
「命令だ」
「回収完了まで、自動運転は解除されないよう設計されています」
ヴァイスは平然と答える。
「第零号は、間もなく自ら出てきます」
「出てこないさ」
俺は言った。
ノアが命令に抵抗できる保証などなかった。
だが、あいつは今、自分で待つと決めた。
ならば俺が疑う理由はない。
「リーゼ。装置の構造は」
「中央が制御。前方車両が動力。後方車両が冷却。冷却車両との接続は破壊しましたが、円環内部の予備槽で稼働を継続しているものと思われます」
「何分保つ」
「最大出力であれば、長くはありません。ただし――」
「ノアの方が先に保たない」
「はい」
要塞砲で円環を撃つ案は、最初から捨てている。
正面装甲が厚すぎる。
それに、中には操作員がいる。
破壊するなら、三台をつなぐ圧力管を全て断つしかない。
前方の動力車と円環車両をつなぐ管は、車体の下側に隠れていた。
要塞からは見えない。
だが、反対側からなら見える。
「第三段階。装甲列車を出す」
リーゼが俺を見る。
「牽引管を狙撃するのですね」
「ああ」
「射角は六度しかありません」
「十分だ」
「走行中の列車から、六十センチ幅の管を撃つことになります」
「だから十分だと言ってる」
俺は送話器を取った。
「貨物線班、出発しろ」
『了解!』
岩山の南側で、重い扉が開く。
装甲列車が地下貨物線から飛び出した。
線路は要塞の外周を半周し、北側道路の下へつながっている。
三週間かけて枕木を交換し、崩れかけた橋を補強した。
正面から見れば、動かない戦車と煙幕が主力に見える。
本命は、最初からこちらだった。
装甲列車の短砲身砲が火を噴いた。
砲弾は動力車の下を掠め、岩壁へ突き刺さる。
『外しました!』
「次弾装填!」
『砲架にずれが出ています!』
初弾の反動で、応急修理した固定具が歪んだらしい。
技術院警備隊が、装甲列車の存在に気づく。
携行式対戦車砲の向きが変わった。
「列車を止めろ。砲手を下げろ」
『しかし、閣下!』
「命令だ。俺が行く」
リーゼが俺の外套をつかんだ。
「却下します」
「俺が命令してるんだが」
「正確には提案です。拒否します」
「いつから副官に拒否権ができた」
「ノア様を教育した結果かと」
「悪いところばかり学ぶな」
「閣下が自分を戦力へ数えないからです」
リーゼの手に力がこもる。
「あの角度から管の位置を知ってるのは俺だけだ」
「なら、私も同行します」
「指揮所はどうする」
「オスカー大佐へ引き継ぎます」
「俺だけで――」
「同行します」
二度言われた。
断れば、三部作成された抗命書を突きつけられそうだ。
「分かった。好きにしろ」
「閣下の副官ですので」
リーゼは俺の外套から手を離さなかった。
◇
装甲列車の砲塔内部は、油と煤の臭いで満ちていた。
砲手の肩から血が流れている。
「掠り傷です!」
「医務室へ行け」
「まだ撃てます!」
「お前が撃てるかじゃない。俺が撃たせたくない。行け」
兵士は悔しそうに歯を食いしばり、最後には敬礼した。
俺が照準席へ座る。
リーゼは装填手の位置へ入った。
「砲弾は一発です」
「十分だ」
「先ほども同じ言葉を聞きました」
「今度は当てる」
「外した場合は?」
「予算が尽きる」
「極めて重大ですね」
列車が動き出す。
窓の外を岩壁が流れる。
正面には崩れた道路。
その上で、巨大円環が黒い光を放っている。
照準器へ顔を近づける。
動力車と円環車両の隙間。
太い圧力管が、一瞬だけ見えた。
「速度を落とせ」
『制動弁が戻りません!』
「何?」
『第三橋梁を越えた振動で、弁が固着しました!』
予定より速い。
射角へ入る時間は、三秒もない。
技術院警備隊の対戦車砲が、こちらへ向く。
「リーゼ、装填」
「完了!」
照準線へ、圧力管が入る。
二秒。
敵の砲口が光った。
一秒。
俺は引き金へ指をかける。
だが、敵の方が速い。
轟音。
砲弾が正面から飛んできた。
その間へ、帝国軍の戦車が割り込んだ。
敵弾が側面装甲へ直撃する。
炎と金属片が噴き上がった。
戦車の天蓋から、アークが半身を乗り出している。
「今だ、カイル!」
俺は引き金を引いた。
砲弾が放たれる。
圧力管へ命中した。
黒い車体の下から、高圧蒸気が噴き出す。
動力車と円環の接続が断たれた。
黒い円環の光が、一度大きく明滅する。
それでも消えない。
「まだ動いております!」
「予備槽だ!」
円環そのものに残った圧力で、最後の命令を実行しようとしている。
『強制帰還工程、最終段階へ移行』
ノアとの内線が切れた。
「ノア!」
返事はない。
円環の支持脚が地面へ食い込み、黒い光が要塞へ伸びる。
列車砲に、もう弾はない。
だが、二門の要塞砲には残っている。
俺は内線を切り替えた。
「オスカー。円環の左右、支持脚を狙え」
『本体ではなく脚か』
「倒せば、自分で自分を焼く」
『射撃角度、ぎりぎりだぞ』
「知ってる」
『外したらどうする』
「列車で押す」
『本気か?』
「半分くらいは」
『残り半分は何だ』
「冗談だ」
オスカーが笑った。
『なら、外せんな』
二門の砲塔が旋回する。
巨大円環の正面装甲ではなく、その根元へ照準を合わせる。
ヴァイスが初めて声を荒らげた。
「やめろ! 神経接続中に装置を破壊すれば、第零号へ逆流する!」
「どうなる」
「心臓が停止する可能性がある!」
俺の指が止まった。
嘘かもしれない。
だが、ノアの命で試すことはできない。
ヴァイスの口元へ、僅かな笑みが戻る。
「賢明な判断です。第零号を外へ出せば、装置は停止します」
旧弾薬庫の扉が開くまで、あと何秒ある。
ノアはまだ中にいるのか。
生きているのか。
内線は沈黙したままだ。
「カイル」
アークの声がした。
砲撃を受けた戦車から降り、額から血を流している。
「撃て」
「ノアが死ぬかもしれない」
「そいつの言葉を信じるのか」
「信じない。だが――」
「なら、私を信じろ」
アークはヴァイスへ拳銃を向けた。
「神経接続中に中枢を破壊すれば逆流する。それは事実だろう」
ヴァイスは答えない。
「だが、支持脚を壊して装置の向きが変わるだけなら、接続は切れる。逆流は起きない」
ヴァイスの顔から表情が消えた。
それが答えだった。
「どうして知ってる」
「三年前、第零号の移送計画書を読んだ」
「機密文書だぞ」
「私は正規の指揮官だった」
「随分と便利な立場だな」
「早く撃て!」
俺は送話器を握る。
「オスカー。撃て」
二門が同時に火を噴いた。
一発目が左の支持脚を破壊する。
二発目が右の固定具を吹き飛ばした。
巨大円環が傾く。
内側に集められていた黒い光が、隣の冷却車両へ向いた。
車体に刻まれた術式が、同じ干渉を受ける。
弁が閉じる。
圧力計の針が振り切れた。
「全員伏せろ!」
爆発。
黒い円環が、内側から砕けた。
破片と白い蒸気が、北側道路を覆う。
黒い光が消えた。
要塞を縛っていた、不快な音も消える。
残ったのは、火災警報と、負傷者を呼ぶ声だけだった。
「リーゼ。ノアの回線を!」
「呼び出しています!」
一度。
二度。
三度。
返事がない。
俺は装甲列車から飛び降りた。
肩に鋭い痛みが走る。
爆発で飛んだ金属片が刺さっていた。
「閣下!」
「あとだ!」
貨物線の入口へ走る。
そのとき、内線が鳴った。
『……マスター』
足が止まる。
「ノア」
『聞こえますか』
「聞こえる。扉は」
『閉じています』
「身体は動くか」
短い沈黙。
『動きます』
俺は息を吐いた。
「そうか」
『装置は』
「壊した」
『皆さんは』
俺は周囲を見る。
負傷者はいる。
燃えている車両もある。
だが、死者を知らせる声はない。
「全員、生きてる」
内線の向こうで、ノアも息を吐いた。
◇
技術院警備隊は武器を捨てた。
指揮を失い、円環も破壊された以上、戦い続ける理由はない。
アークの帝国軍が彼らを拘束する。
こちらの死者は、ゼロ。
帝国側の死者も、ゼロ。
負傷者は双方合わせて二十三名。
砲撃を受けたアークの戦車からも、乗員全員が生還していた。
代わりに、修理費の見積もりを見たリーゼが、一度だけ目を閉じた。
「どうした」
「精神を安定させております」
「怪我人が出たからか」
「そちらもございます」
「ほかに何がある」
「あとでお話しします」
恐ろしいので、聞かないことにした。
ノアは旧弾薬庫から、自分で扉を開けて出てきた。
鍵を握る手には、爪を立てた傷が残っている。
俺を見ると、駆け寄ろうとして――途中で立ち止まった。
医務室前には負傷者が並んでいる。
煤に汚れた兵士。
腕を吊った整備兵。
頭へ包帯を巻いた帝国兵までいた。
「死者は、いますか」
「いない」
「負傷者は」
「二十三人だ」
ノアの視線が、俺の肩で止まる。
「マスターも、負傷しています」
「掠り傷だ」
「嘘です」
「なぜ分かる」
「出血量が多いです」
余計なところだけ成長が早い。
ノアは負傷者たちを見た。
「私が戦えば、誰も傷つかなかったかもしれません」
「そうかもしれない」
「では、なぜ」
「お前が傷つくからだ」
「私は一人です。負傷者は二十三人です」
また、数を数えている。
だが、以前とは違う。
自分の価値をゼロにしているのではない。
自分のために誰かが傷ついたことを、どう受け取ればいいのか分からないのだ。
「お前が毎回傷つけば済むなら、俺たちは何のためにいる」
医務室の入口から、オスカーが出てきた。
左腕に包帯を巻いている。
「だが――」
「三週間、誰が柱の名前を教えた」
坑道の工兵が片手を上げる。
「俺だな」
「誰がパンを教えた」
配給係の老兵が笑った。
「俺たちだ」
「誰が門を支えた」
兵士たちの視線が、ノアへ集まる。
「お前だろう」
オスカーが言った。
「人間は、借りたものを返す生き物だ」
「これは、交換でしょうか」
「そう考えたいなら、それでもいい」
小さな足音が近づく。
黄色い花を渡した少女だった。
母親の手を離し、ノアの前まで来る。
「ノア様を、皆さんが守りました」
「うん」
「なぜですか」
少女は不思議そうに首を傾けた。
「友達だから、守るんだよ」
ノアが動きを止めた。
「友人は、守る側ではないのですか」
「守ってもらってもいいんだよ」
少女はノアの傷ついた手を取り、小さな布を巻き始めた。
包帯というより、ただの端切れだ。
それでもノアは手を引かなかった。
「これで大丈夫」
「医学的な効果は低いと思われます」
「ノア」
「ですが」
ノアは手に巻かれた布を見つめる。
「不快ではありません」
少女が笑う。
ノアはまだ笑えない。
それでも、ほんの少しだけ少女の手を握り返した。
◇
夕刻。
ヴァイスの所持品と、回収車両から運び出した資料を司令室へ並べた。
技術院の暗号で書かれていたが、解読表も同じ鞄へ入っていた。
「機密管理が雑だな」
「自分たちが敗北する可能性を想定していなかったのでしょう」
リーゼがページをめくる。
「閣下と同じですね」
「俺は負ける可能性を常に考えてる」
「では、医師の指示を無視して司令室へ来た理由は?」
「負けてないからだ」
「今の発言も記録しました」
肩の傷より、今後の記録の方が痛くなりそうだ。
シャルロッテから借りた暗号帳と照合し、一枚ずつ内容を確認する。
兵器技術院第十三研究局。
神体回収計画。
適合者の確保、封印、制御、廃棄。
人間について書かれた文書とは思えない言葉が並んでいる。
そして一覧表の先頭に、見慣れた文字があった。
――第零号《N.O.A.H.》。覚醒済み。回収最優先。
「ノアの資料か」
「はい。しかし、これだけではありません」
リーゼが次の行を指す。
――第一号。共和国領内にて活動を確認。
――第二号。所在不明。
――第三号。死亡確認未了。
俺は黙って文字を追った。
ゲームの『鋼鉄黙示録』に、ノア以外の魔法使いは登場しない。
少なくとも、プレイヤーが戦場で見る限りは。
だが、説明のつかなかった出来事はいくつもある。
共和国の首都を一夜で覆った黒い霧。
帝国北部から忽然と消えた一個師団。
そして物語の終盤、何の前触れもなく始まった古代神の復活。
「最終目的についての記載があります」
リーゼが最後の頁を開いた。
赤い印が押された計画名。
――神体回収計画・最終工程《神性再構成》。
必要神体数、四。
俺は椅子へ背を預けた。
「ノアを連れ戻すためじゃなかったのか」
「彼女を含む四人を集めることが、目的のようです」
「集めて、殺した神を作り直す」
原作ゲームで古代神が復活するのは、まだ二年先だ。
俺がノアを帝都から盗み出したことで、歴史は変わった。
あるいは、今まで見えていなかったものが見え始めただけかもしれない。
扉が開く。
肩の処置を終えたノアが入ってきた。
手には、少女が巻いた布がまだ残っている。
「話は聞いたか」
「はい」
「お前と同じ存在が、少なくとも三人いる」
「知りませんでした」
「俺もだ」
「その人たちも、命令されていますか」
「可能性は高い」
ノアは一覧表を見る。
青灰色の瞳が、第一号から第三号までを順番に追う。
「どうしますか、マスター」
外では、壊れた道路の応急修理が始まっている。
負傷者を運ぶ足音。
夕食の鍋を動かす音。
戦争が終わっても、明日のための仕事はなくならない。
「決まってる」
俺は資料を閉じた。
「全員、助ける」
「全員とは、三人でしょうか」
「今のところはな」
「敵対した場合は?」
「話し合う」
「交渉に応じない場合は?」
「それでも話す」
「国を消そうとした場合は?」
「消させない」
「難しい任務です」
「任務じゃない」
俺は立ち上がる。
肩が痛み、顔が僅かに歪んだ。
ノアがすぐに隣へ来る。
「支えます」
「必要ない」
「私は、守ってもらいました」
ノアは俺の無事な方の腕を取った。
「ですので、今度は私が支えます」
「交換か?」
「いいえ」
少し考えてから答える。
「そうしたいからです」
なら、断る理由はなかった。
窓の外では、夕日が黒い円環の残骸を照らしている。
帝国最強の兵器は、この戦いで一人も倒さなかった。
それでも、俺たちは勝った。
明日になれば、ノアはパンを焼く。
俺たちは、そのパンを食べる。
世界を救う方法など、まだ分からない。




