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第八話 処刑された軍師は、世界に居場所を作る

 戦争に勝った翌朝、俺は自分の要塞から追放されかけた。


「絶対安静です」


「肩を撃たれただけだ」


「砲弾の破片です」


「似たようなものだろ」


「では、もう一度同じ場所へ刺して確かめますか?」


 包帯を手にしたリーゼが、眼鏡の奥で冷たく笑った。


「冗談だ」


「私もです」


「お前の冗談は目が笑ってないんだよ」


 医務室の寝台へ戻される。


 昨夜、帝国第十三研究局が持ち込んだ回収装置を破壊し、ノアの奪還を阻止した。


 死者はゼロ。


 負傷者は、帝国軍とこちらを合わせて二十三名。


 その中で最も軽傷なのが俺だった。


 にもかかわらず、ノアとリーゼは俺だけを重病人のように扱っている。


「閣下は自分を戦力として数えないだけでなく、負傷者としても数えないのですね」


「指揮官が寝ていたら、戦後処理が進まない」


「進めております」


 リーゼが分厚い書類の束を寝台脇へ置く。


「捕虜六十二名の名簿。負傷者の容体。損傷した設備の一覧。消費した弾薬と黒晶炭の記録。帝国軍より押収した物資の目録です」


「仕事が早いな」


「副官ですので」


「なら、俺が確認しないと終わらないだろ」


「私が読み上げます。閣下は横になったまま指示を出してください」


「非効率的だ」


「再び傷口が開くより効率的です」


 反論しようとしたところで、医務室の扉が開いた。


 ノアが入ってくる。


 両手には、木製の盆。


 その上には、黒く焦げた物体が載っていた。


「マスター。朝食です」


「……パンか?」


「その予定でした」


「過去形なのが気になるな」


「表面の一部が炭化しました」


「一部?」


「六割ほどです」


「過半数を超えたら一部とは言わない」


 昨日、ノアは少女たちとパンを焼く約束をしていた。


 帝国最強の兵器が、生まれて初めて自分の意思で引き受けた仕事だ。


 見た目だけなら、攻城戦で使う投石に近い。


 だが、鼻を近づければ、小麦と蜂蜜の匂いがした。


「味には問題ありません」


「食べたのか」


「味見をしました」


「自分で?」


「はい」


 思わずノアを見る。


 以前の彼女なら、自分のために用意された食事さえ、命令がなければ口へ運ばなかった。


 今は自分で焼き、自分で味を確かめた。


 焦げたパンくらいで感動する日が来るとは思わなかった。


「どうぞ」


 ノアがパンを一つ持ち上げ、俺の口元へ差し出す。


「自分で食える」


「右肩を負傷しています」


「左手がある」


「左手で報告書を持つ必要があります」


「寝かせたいのか、働かせたいのか、どっちだ」


「食事を優先してください」


「ノア様のご判断が正しいかと」


 リーゼまで敵に回った。


 仕方なく、差し出されたパンを齧る。


 硬い。


 苦い。


 少し甘い。


「どうでしょう」


「兵器として使える」


「マスター」


「冗談だ。悪くない」


「どちらが正確でしょうか」


「初めてにしては上出来だ」


 ノアが黙って俺を見る。


「次は、焦がしません」


「次も作るのか」


「はい。明日も私の当番です」


 その言葉が聞けただけで、焦げた味にも価値があった。


 だが、俺たちに明日があるかどうかは、まだ決まっていない。


 窓の外には、帝国軍の野営地が残っている。


 アーク率いる正規軍一千五百。


 彼らは研究局の兵士を拘束したものの、グラウエン要塞から撤退してはいなかった。


 帝国軍人である以上、国家反逆者の拠点を見逃すこともできない。


 戦いが終わったのではない。


 撃ち合いが止まっているだけだ。


「閣下」


 リーゼが新しい書類を差し出す。


「アーク准将より、会談の申し入れです」


「断る」


「午前九時に正門前です」


「今、断ると言ったぞ」


「先方には受諾すると回答済みです」


「お前はいつから俺の意思を無視するようになった」


「帝都を出た日からです」


「随分前だな」


「なお、オスカー大佐とシャルロッテ会頭も同席します」


「シャルロッテ?」


 医務室の外から、軽やかな声がした。


「お招きいただき光栄ですわ、カイル様」


 扉が開き、蜂蜜色の髪を揺らしてシャルロッテ・クラインが入ってくる。


 中立商人クライン商会の会頭。


 俺たちへ八百人分の食料を売り、代金として黒晶炭鉱の採掘権を奪っていった女だ。


 今日も仕立てのいい外套に身を包み、戦場跡とは思えない涼しい顔をしている。


「どうしてここにいる」


「昨夜、私の商品が置かれている要塞で戦闘が起きたと伺いましたので」


「お前の商品?」


「食料、薬品、採掘機械。それから将来得られる黒晶炭です」


「全部、俺たちの物だ」


「代金を完済するまでは、半分ほど私の物です」


 シャルロッテは寝台脇まで来ると、焦げたパンを一つ手に取った。


「こちらは商品になりませんわね」


「食べるな」


「毒見です」


「ノアが作ったと聞いた瞬間、興味を持っただけだろ」


「商人は未知の商品へ常に関心を持つものです」


 一口齧り、上品な笑みが止まる。


「……黒晶炭より、よく燃えそうですわ」


「燃やしますか?」


「ノア、真顔で聞くな」


 シャルロッテは咳払いし、鞄から書類を取り出した。


「お怪我をなさったカイル様へ、私からお見舞いです」


「請求書にしか見えない」


「奇遇ですわね。私にもそう見えます」


 表紙には《グラウエン要塞緊急保全計画》と記されていた。


 その下に、小さな文字で共同出資者の名が並んでいる。


 帝国の商会が七つ。


 共和国の商会が五つ。


 中立都市の銀行が三つ。


「これは……」


「黒晶炭鉱の採掘権を分割しました」


「勝手にか?」


「契約書の第三条をご確認ください。採掘効率の向上を目的とした共同出資は、私の裁量で可能です」


 読み飛ばしていた細則だ。


「お前、最初からこれを狙っていたな」


「まさか。カイル様がこれほど早く帝国軍と戦争を始めるとは思っておりませんでした」


「始めたのは向こうだ」


「借金を踏み倒す方は、皆そうおっしゃいます」


 シャルロッテが微笑む。


「今後、帝国がこの要塞を攻撃すれば、帝国商会七社の権益を破壊することになります。共和国も同様です。中立銀行は融資の保全を求め、各国の議員へ働きかけるでしょう」


「要塞を金で人質に取ったのか」


「投資先を守っているだけです」


「見事だな」


「お褒めいただき光栄です」


「褒めてはいない」


「存じております」


 だが、これで一つ条件が揃った。


 帝国が俺たちを攻撃する利益を、攻撃しない利益より小さくする。


 軍隊で守れないなら、契約で守ればいい。


「リーゼ」


「すでに準備しております」


 彼女が別の封筒を掲げる。


「第十三研究局より押収した命令書、人体実験記録、神体回収計画。西部軍兵站局の横領記録。そして昨夜の交戦記録です」


「送り先は」


「帝国議会、軍法会議、帝都の新聞社十二社。共和国政府および新聞社八社。中立都市連盟です」


「写しは?」


「五部ずつ」


「三部じゃないのか」


「国家機密ですので増やしました」


「国家機密を増刷するな」


「一部でも届けば、帝国は研究局の独断を否定できません」


 シャルロッテが満足そうに頷く。


「運送はクライン商会が請け負います。もちろん有料で」


「世界を救うついでに請求するのか」


「世界が滅びれば、代金を回収できませんもの」


 軍事、情報、商業。


 三つの補給線がつながった。


 これなら交渉になる。


「分かった。会談へ行く」


「最初からその予定です」


 起き上がろうとすると、ノアが俺の腕を押さえた。


「安静です」


「会談がある」


「寝台を運びます」


「やめろ。国家反逆者の威厳が死ぬ」


「すでに一度処刑されています。問題ありません」


「そういう問題か?」


◇


 午前九時。


 グラウエン要塞正門前には、一脚の長机が置かれていた。


 東側にアーク。


 西側に俺。


 背後にはノア、リーゼ、オスカー、シャルロッテ。


 周囲を、要塞の兵士と帝国軍が離れて囲んでいる。


 俺は自分の足で歩いてきた。


 ただし、ノアが左腕をつかみ、離そうとしない。


「一人で立てるぞ」


「知っています」


「なら離せ」


「嫌です」


「理由は」


「私が、支えたいからです」


 命令ではない。


 なら、俺に拒否する権利はあっても、拒否する理由はなかった。


 向かいに立つアークが、俺の肩を見る。


「ひどい顔だな」


「生まれつきだ」


「そういう意味ではない。負傷したと聞いた」


「帝国軍の歓迎が少し激しくてな」


「研究局の部隊だ」


「同じ帝国旗を使っていただろ」


 アークは反論しなかった。


 昨夜よりさらに疲れた顔をしている。


「第十三研究局回収部隊の指揮官ヴァイス、および所属兵六十一名を拘束した。帝都へ移送し、軍法会議へ送る」


「軍法会議まで生きていればいいな」


「私の部下が護送する」


「それなら安心だ」


「私を信用するのか」


「お前は融通が利かない。だから信用できる」


「褒められている気がしない」


「褒めてないからな」


 アークが小さく息を吐く。


「研究局は、皇太子殿下から与えられた回収命令を逸脱した。正規軍の指揮権を無視し、民間人を巻き込む兵器を無断で使用した。私はその事実を報告する」


「皇太子が知らなかったことにするのか」


「証明できる範囲を報告するだけだ」


「相変わらず真面目だな」


「お前ほど嘘が得意ではない」


「謙遜するな。帝都を出た日から随分うまくなった」


「何の話だ」


「こっちの話だ」


 俺はリーゼへ合図する。


 彼女が机の上へ書類を並べた。


「こちらの条件は三つだ」


「国家反逆者が帝国へ条件を出すのか」


「交渉相手がいるうちは、反逆者も国家と同じだ」


「言ってみろ」


「一つ。帝国軍はグラウエン要塞から二十キロ以上離れ、今後許可なく接近しない」


「認められない」


「二つ。要塞に暮らす者の身分を問わず、帝国は引き渡しを要求しない」


「それもだ」


「三つ。ノアを帝国の所有物と呼ばない」


 アークの視線が、俺の隣へ向く。


 ノアは黙って見返した。


「法的には、第零号は帝国軍の兵器だ」


「その兵器に負けたんじゃない。昨夜、ノアは一度も戦わなかった」


「分かっている」


「なら、人間一人を所有物として扱う法律の方を変えろ」


「私にそれを決める権限はない」


「俺にもない。だから、まずここだけで決める」


 俺は書類をアークの方へ押し出す。


 第十三研究局の実験記録。


 神体回収計画。


 西部軍の横領記録。


 そして、シャルロッテが用意した共同出資者一覧。


「条件を拒むなら、正規軍一千五百で要塞を攻めろ。だがその瞬間、これらの写しが帝国と共和国へ届く。帝国軍は研究局の人体実験を隠すため、中立商人の資産と八百人の難民を焼いたことになる」


「脅迫か」


「交渉だ」


「同じ意味に聞こえる」


「帝国語は難しいな」


 アークは長い時間、書類を見つめていた。


 それから、背後に並ぶ自分の兵士たちへ目を向ける。


 彼らも昨夜、研究局の命令に疑問を抱き、武器を下ろした者たちだ。


 ここで再び攻撃を命じれば、従う兵士はいるだろう。


 だが、全員ではない。


「帝国軍は本日正午をもって撤退する」


 アークが告げた。


「公式には、第十三研究局による違法作戦を停止し、事実確認のため帝都へ帰還する。グラウエン要塞については、国境紛争地域として調査終了まで軍事行動を凍結する」


「調査にはどのくらいかかる」


「書類の紛失が多ければ、数年かかるかもしれない」


「随分と間抜けな役所だ」


「まったくだ」


 第一と第二の条件は、これで事実上認められた。


「三つ目は」


「帝国法は、私一人では変えられない」


 アークがノアを見る。


「だが、私の報告書にはこう記す。帝国戦略級人型兵器・第零号は、昨夜の戦闘に参加しなかった」


「不十分だ」


「続きがある」


 アークは一度、言葉を切った。


「民間人ノアの身柄は、グラウエン要塞において確認できなかった」


 ノアが瞬きをする。


「私は、ここにいます」


「ノア」


「はい」


「今は黙っていてくれ」


「虚偽の報告になります」


「お前は正直だな……」


 アークの眉間へ皺が寄る。


「兵器としての第零号は存在しなかった。ここにいるのは、帝国軍の指揮権に属さない一人の民間人だ。ならば私の捜索対象ではない」


 ノアは少し考える。


「合理的です」


「納得するのか」


「マスターが、嘘は目的によって善悪が変わると教えました」


「カイル」


「俺を見るな」


 アークが頭を押さえる。


「お前に少女の教育を任せたのは、帝国最大の失策かもしれないな」


「同感だ」


「マスター。私は適切に成長しています」


「自己評価が高くなったな」


「成長でしょうか」


「たぶんな」


 アークが右手を差し出した。


「停戦は、調査が終わるまでだ」


「随分と長い停戦になりそうだ」


「次に会ったとき、命令があればお前を捕らえる」


「今度こそ撃てるのか?」


「撃つ」


「嘘が下手だな」


「そのとき確かめろ」


 手を握る。


 アークは肩の傷へ響かないよう、力を加減していた。


「カイル」


「何だ」


「全員を救うと言ったな」


「盗み聞きか?」


「捕虜から聞いた」


「そのつもりだ」


「第一号から第三号までが、ノアと同じだとは限らない」


「知ってる」


「すでに人間ではない可能性もある」


「それでもだ」


「お前は、いつも計算が甘い」


「だから、お前が計算しろ」


 アークの手が止まる。


「俺は帝国の外から救う。お前は中から、勝手に切り捨てられる人数を減らせ」


「命令するな。私はお前の部下ではない」


「知ってるよ」


「だが、覚えてはおく」


 手が離れる。


 アークは踵を返し、帝国軍のもとへ戻っていった。


 途中で一度も振り返らなかった。


 処刑の日と同じだ。


 ただし今度は、俺がその背中を見送った。


◇


 正午。


 帝国軍は、研究局の捕虜と破損した車両を連れて撤退した。


 最後の戦車が丘の向こうへ消えても、要塞の誰も歓声を上げなかった。


 帝国軍に所属していた者。


 帝国領に故郷を持つ者。


 共和国から逃れてきた者。


 立場は違っても、誰もが理解している。


 今日、軍隊が去ったからといって、明日も安全とは限らない。


 だから俺は、八百二十七人全員を中庭へ集めた。


 崩れた正門には、まだ砲撃の痕が残っている。


 演壇代わりに置かれた弾薬箱の上へ立つ。


 肩が痛む。


 ノアが隣に立ち、俺の外套をつかんでいた。


「話は簡単だ」


 集まった人々を見渡す。


「帝国軍は撤退した。だが、この要塞は帝国領ではなくなったわけじゃない。共和国も、俺たちの独立を認めていない。次に誰が攻めてくるかも分からない」


 不安が広がる。


「残れば、国家反逆者と呼ばれる。出ていくなら止めない。帝国へ帰りたい者には、アークが身分を保証する。共和国や中立都市へ向かう者には、クライン商会が道を用意する」


 シャルロッテが後方で片手を上げた。


「運賃はいただきますわ」


「そこは無料にしろ」


「検討いたします」


「今、決めろ」


 人々の間から、小さな笑いが起きる。


 俺は続けた。


「ここへ残ることを、命令はしない。俺のために戦う必要もない。自分で選べ」


 誰も動かなかった。


 最初に前へ出たのは、オスカーだった。


「一つ、聞く」


「何だ」


「残った俺たちを、貴様は何に使う」


 この要塞へ来た日と同じ問いだ。


「使わない」


 答えも同じだった。


「俺は、ここを逃げ場所にすると言った。処刑される者。命令に逆らった者。国に捨てられた者。兵器として扱われた者。どこにも居場所がない人間が、生きていい場所にする」


「それは国か」


「知らん。国造りは初めてだ」


「帝国最高の軍師ともあろう者が、頼りないな」


「前世でも係長止まりだった」


「何の話だ」


「こっちの話だ」


 オスカーは俺をしばらく見つめ、それから要塞の鍵を掲げた。


「ならば俺は残る。この家を、今度こそ誰にも捨てさせないために」


「俺もだ!」


 若い兵士が声を上げた。


「帝国へ戻っても、また命令に逆らうと思う!」


「それは自慢することじゃないぞ!」


「でも、ここなら怒られるだけで済む!」


「誰が怒ると思ってる」


「大佐です!」


「後で来い」


 今度は、はっきりと笑いが起きた。


 難民の母親が手を上げる。


「私たちも残ります。行く場所がありません。それに……子供が、ノア様と離れたくないと言うので」


「ノア様!」


 七歳の少女が人混みから飛び出し、ノアへ抱きついた。


 ノアの身体が固まる。


「一緒に住もう!」


「すでに居住しています」


「ずっとだよ!」


「ずっと、とはいつまででしょう」


「ずっとは、ずっと!」


 ノアが俺を見る。


「説明を求めます」


「俺にも分からん」


「不明確です」


「だから、自分で決めろ」


 ノアは抱きついた少女を見下ろす。


 小さな手には、萎れた黄色い花が握られていた。


 この要塞へ来た日、初めてノアへ贈られたものと同じ花。


「私は――」


 ノアがゆっくりと言う。


「明日も、ここにいたいです」


「明後日は?」


 少女が尋ねる。


「明後日も」


「その次は?」


「まだ、決められません」


 ノアは一度、俺を見る。


 そして自分で続きを選んだ。


「ですが、決められるまで、ここにいたいです」


「うん!」


 少女が笑う。


 ノアの口元が、ほんの僅かに動いた。


 笑ったのかもしれない。


 その日、要塞を出ることを選んだ者は、十一人だった。


 誰も責めなかった。


 残ることも、出ていくことも、自分で選べる。


 それが、この場所の最初の決まりになった。


◇


 夕方。


 旧司令室の机には、一枚の宣言書が置かれていた。


 題名は、《グラウエン自由領設立宣言》。


 どうやらリーゼは、帝国軍が撤退を決める前から草案を作っていたらしい。


「待て」


 俺は題名を指さした。


「いつの間に自由領になった」


「先ほどです」


 リーゼが答える。


「俺は逃げ場所を作ると言っただけだ」


「帝国にも共和国にも属さず、独自の規則と防衛戦力を持つ領域は、一般的に国家と呼ばれます」


「八百人しかいないぞ」


「八百十六人です」


「十一人出ていったからな」


「正確で結構です」


「褒められてる気がしない」


 宣言書には、三つの原則が記されていた。


 一つ。出自、身分、所属していた国家を理由に、保護を拒まない。


 一つ。人間を兵器、奴隷、その他の所有物として扱わない。


 一つ。この場所に残るか去るかは、本人の意思によって決める。


 どれも、これまで俺たちが守ってきたことだ。


「異論は?」


 オスカーが尋ねる。


「食料と石炭の備蓄量を明記すべきだ」


「建国宣言に在庫表を載せる国があるか」


「在庫がなくなれば、国もなくなる」


「正論だな」


「追記します」


「リーゼも乗るな」


 シャルロッテが宣言書を覗き込む。


「債務の返済義務も明記していただけます?」


「建国初日に借金を国是にするつもりはない」


「では、税関の設置を」


「気が早い」


「商機は速さが命ですわ」


「この国、軍師より商人に支配されるんじゃないか?」


「すでに副官にも支配されております」


「事実です」


「否定しろ、リーゼ」


 署名欄には、オスカー、リーゼ、第十三作戦室の代表者、兵士、難民、商人の名が並んでいく。


 最後に、俺へペンが渡された。


「なぜ俺が最後なんだ」


「代表者ですので」


「誰が決めた」


「住民投票です」


「いつやった」


「閣下が演説している間に」


「本人の許可は?」


「立候補者が一名でしたので省略しました」


「民主主義が泣いてるぞ」


「議事録は三部作成しております」


「泣くほど正式だな」


 諦めて、名前を書く。


 帝国軍少将でも、作戦参謀でもない。


 ただのカイルとして。


「ノア様も」


 リーゼがペンを差し出す。


 ノアは宣言書とペンを交互に見た。


「私にも、必要でしょうか」


「住民ですので」


「私は帝国の戸籍を持っていません」


「ここでは必要ありません」


「姓もありません」


「自分で決めてもいい。決めなくてもいい」


 俺が言うと、ノアはしばらく考えた。


「では、今はノアだけで十分です」


 ペンを取る。


 書かれた文字は、少し歪んでいた。


 第零号でも、《N.O.A.H.》でもない。


 誰かに与えられた兵器の識別名ではなく、彼女が自分で使うと決めた名前。


 ――ノア。


「書けました」


「上出来だ」


「次は、より綺麗に書きます」


「次?」


「明日、練習します」


「そうか」


 明日の予定が、また一つ増えた。


 宣言書へ最後の署名が記された瞬間、グラウエン要塞は地図の上に戻った。


 帝国領でも、共和国領でもない。


 どこにも居場所がなかった八百十六人のための、世界で最も小さな逃げ場所として。


◇


 それから三日後。


 帝国の新聞は、第十三研究局の独断を報じた。


 帝国政府は研究局との関係を否定し、皇太子は調査委員会の設置を宣言した。


 西部軍兵站局では三人の将校が逮捕され、五人が行方をくらませた。


 共和国の新聞は帝国の人体実験を非難しながら、自国内に第一号が存在するという記録には触れなかった。


 中立都市連盟は、グラウエン要塞周辺における商業活動の安全を求める声明を出した。


 どの国も、都合の悪い部分は隠している。


 それでも、俺たちは地図から消されずに済んだ。


 当面の時間は稼げる。


 第一号。


 第二号。


 第三号。


 四つの神体を集め、神を再構成しようとする第十三研究局。


 原作ゲームで二年後に起こる、古代神の復活。


 世界の破滅は、まだ何一つ解決していない。


 むしろ、俺の知らなかった問題が増えた。


 だが――。


「マスター。起きてください」


 声に目を開ける。


 夜明け前の司令室。


 机の上には、読みかけの報告書と周辺地図。


 どうやら、そのまま眠っていたらしい。


「今、何時だ」


「午前五時二十七分です」


 一瞬、帝都で迎えた――もう随分昔のように感じる処刑の日を思い出した。


 午前五時二十七分。


 あの日の俺には、死ぬまで三分しか残されていなかった。


「あと三分か」


「何がでしょう」


「夜明けだ」


 窓の外へ目を向ける。


 修理された煙突から、白い煙が上がっている。


 中庭では、兵士たちが朝の訓練を始めていた。


 線路では整備兵が装甲列車の車輪を調べている。


 食堂から、小麦の焼ける匂いが漂ってきた。


「今日は焦がしてないようだな」


「温度を十一度下げ、焼成時間を四分短縮しました」


「戦術報告みたいに言うな」


「改善結果です」


 ノアが皿を差し出す。


 今度のパンは、きれいな狐色だった。


 一つ取ろうとすると、彼女が皿を引く。


「何だ」


「先に薬を飲んでください」


「もう必要ない」


「医師は一週間と言いました」


「俺の身体だ」


「私の生存補助対象です」


「いつまで続くんだ、その任務」


 ノアは少し考えた。


「任務ではありません」


 以前とは違う答えだった。


「私が、そうしたいからです」


「そうか」


「迷惑でしょうか」


「いや」


 薬を受け取り、水で流し込む。


「悪くない」


 ノアがパンを差し出す。


 今度は自分の分も皿へ載せていた。


 二人で窓辺に立ち、食べる。


 まだ少し硬い。


 だが、焦げてはいない。


「マスター」


「何だ」


「今日は、何をしますか」


「山ほどある。水道の修理、畑の開墾、学校と医務室の整備。共和国にいる第一号の情報も集める」


「戦闘はありますか」


「ない方がいい」


「では、私は何をすればよいでしょう」


 帝都を出たばかりの頃なら、俺へ命令を求めていた。


 今のノアは、答えを待ちながらも、自分で考えようとしている。


「お前は、何がしたい」


 ノアは窓の外を見る。


 中庭では、黄色い花をくれた少女が手を振っている。


 その隣には、パン作りを待つ子供たち。


 机には、昨日練習した自分の名前。


 壁には、八百十六人で署名した自由領の宣言書。


「午前中は、子供たちとパンを焼きます」


「午後は?」


「文字を練習します」


「その後は」


「マスターと、第一号を助ける方法を考えます」


「忙しいな」


「はい」


 ノアはわずかに胸を張った。


「ですが、すべて私が選びました」


 朝日が山の向こうから昇る。


 銀白色の髪が、柔らかな光を受けて輝いた。


 夜明けとともに、俺は死ぬはずだった。


 帝国軍人としての俺は、確かにあの日死んだ。


 代わりに、一人の少女を盗み、二十七人の馬鹿を連れ、八百人を超える面倒を背負った。


 領土は壊れた要塞一つ。


 軍隊は寄せ集め。


 資金は借金。


 敵は帝国と共和国と、世界を滅ぼそうとする研究局。


 我ながら、割に合わない人生だ。


 それでも。


「ノア」


「はい」


「明日も、ここにいるか」


 ノアはもう、迷わなかった。


「はい」


 それから、言い直す。


「いいえ。命令への返答ではありません」


 青灰色の瞳が、まっすぐ俺を見る。


「私は、明日もここにいたいです」


「そうか」


 帝国にも、共和国にも居場所がないのなら。


 自分たちで作ればいい。


 誰にも命令されず。


 誰も兵器として扱われず。


 明日も生きたいと願える場所を。


 世界の結末をひっくり返すには、まだ時間がかかる。


 まずは、この小さな国を生かすところから始めよう。


 夜明けとともに――。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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