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第六話 追放された軍師は、少女を守るために軍隊を作る

 首輪は、外したはずだった。


 それなのに、ノアは喉を押さえていた。


『第零号。待機姿勢へ移行』


 箱の中から声が響く。


 ノアの膝が折れた。


 俺の腕の中で、細い身体が不自然に背筋を伸ばす。両手が膝へ揃えられ、顔が正面へ向いた。


 地下施設で何度も見た姿勢だった。


「ノア!」


「……命令を、拒否します」


 唇だけが動いた。


 身体は動かない。


 青い服の襟元に、黒い線が浮かんでいた。首の傷から鎖骨へ、皮膚の下を這うように伸びていく。


『音声出力を制限』


 ノアの声が途切れた。


 俺の外套をつかもうとした指が、膝の上で震える。


「オスカー! 人を下げろ! リーゼ、箱だ!」


 リーゼの拳銃が二度鳴った。


 蓋が割れる。


 中にあったのは、黒い金属の輪だった。


 首輪と同じ材質。内側には細かな文字が刻まれ、中央で硝子の管が明滅している。


 弾丸は外殻に弾かれていた。


「破損を確認できません!」


 俺はノアを抱き上げた。


 箱から離れる。


 一歩、二歩。


 搬入口の角を曲がり、厚い石壁の裏へ入った瞬間、ノアが息を吐いた。


「……マスター」


 指が俺の袖に食い込む。


 声が戻った。


「そのまま壁の陰にいろ。リーゼ、距離と遮蔽物が効く!」


 ノアを彼女に預け、足元の工具を拾う。


 工兵が荷台の修理に使っていた、大きな鉄槌だ。


『回収補助者の接近を確認』


「人違いだ」


 俺は箱を蹴り倒した。


 輪が床へ転がる。


 明滅している硝子の管へ、鉄槌を振り下ろした。


 一度。


 硬い音がした。


 二度。


 管に亀裂が走る。


『妨害行為を――』


 三度目で、声が潰れた。


 黒い光が消える。


 残ったのは、割れた硝子と、耳障りな静寂だった。


「ノア」


 振り返る。


 リーゼに支えられたノアが、ゆっくりと自分の手を開いていた。


 握る。開く。


 それを二度繰り返してから、こちらを見る。


「動きます」


「そうか」


「マスター。手から出血しています」


 言われて初めて、手のひらの痛みに気づいた。


 鉄槌を握り直したときに、皮が剥けたらしい。


「大したことじゃない」


「痛みますか」


「……少しな」


 ノアが頷く。


 俺が彼女に教えた答え方だった。


「では、処置が必要です」


 その声は、まだ震えていた。


 それでも俺の手を取ろうとする。


 俺は鉄槌を置き、空いた手を差し出した。


「お前も一緒だ」


「はい」


 搬入口の向こうには、食堂の灯りが見えた。


 ほんの数分前まで、あそこでパンを食べていた。


 明日の約束をしていた。


 たった一つの箱が、それを奪いかけた。


◇


 その夜、司令室の机へ、装置の残骸を並べた。


 ノアは医務室で休ませている。


 彼女が眠ったことをリーゼから聞くまで、俺は椅子に座れなかった。


「帝国兵器技術院、第十三研究局」


 シャルロッテが、煤けた金属片の文字を読み上げる。


「この刻印は、見覚えがありますわ。昔、精密部品を納めたことがあります」


「《十三》は、そこの番号か」


「少なくとも、この装置は。狙撃手との関係は、まだ調べる必要があります」


 自分たちの作戦室と同じ数字が、急にひどく不快なものに見えた。


 俺は残骸から目を離す。


「何を納めた」


「圧力計と調整弁。注文書では、医療設備の部品になっていました」


「便利な言葉だな」


「ええ。だから、今回は納品先まで追います」


 シャルロッテの声に、いつもの甘さはなかった。


「荷札を偽造した手口も調べます。私の商会で首輪を届けられると思われては、困りますので」


 オスカーが金属片を睨んだ。


「この輪があれば、あの娘を操れるのか」


「何でも命令できるわけじゃない」


 俺は、ノアが医務室で話したことを伝えた。


 訓練を受ける前。


 俺の指揮下へ入るより、ずっと前。


 研究施設で検査を受けるとき、彼女はいつも同じ姿勢を取らされていた。


 動かない。声を出さない。抵抗しない。


 そのための術式が、神の心臓を埋め込まれた身体に残っている。


「首輪は命令と罰を与える装置だった。こっちは、身体に刻んだ手順を強制的に呼び出す。……あいつの説明では、そういうことらしい」


「消せないのですか」


 リーゼが尋ねた。


「心臓につながっている。下手に壊せば、ノア自身が死ぬかもしれない」


 知っているゲームの攻略には、こんな話はなかった。


 敵ユニットの解説に書かれていたのは、射程と威力と弱点だけだ。


 その力を持たされた人間が、どうやって黙らされていたか。


 そんな項目は、どこにもない。


「今回の装置は壊した。だが、同じものをまた持ってこられれば、ノアは戦えなくなる」


 部屋が静かになった。


 オスカーが、しばらくして口を開く。


「なら、俺たちが戦うしかないな」


 俺は顔を上げた。


「簡単に言うな」


「難しく言えば、砲が直るのか?」


「……いや」


「あの娘には門を支えてもらった。今度はこちらの番だろう」


 リーゼが新しい紙を広げた。


「稼働可能な砲塔と、必要な部品を洗い直します」


「買えるものは、こちらで探しましょう」


 シャルロッテが続ける。


「ただし、軍用品は食料より高くつきますわよ」


「分かってる」


「分かっていらっしゃる顔には見えませんけれど」


「今、理解する努力をしてる」


 俺は地図を机の中央へ引き寄せた。


 ノアを要塞の外へ逃がす案もある。


 だが、行く先々で同じ装置を差し向けられれば、いつか捕まる。八百人を連れて、冬の国境を逃げ続けることもできない。


 この岩山と、ここに集まった人間を使って、追っ手を退ける。


 そのために必要なものを、一つずつ揃える。


「目標を決める」


 三人がこちらを見た。


「ノアが戦えなくても、ノアを守れる要塞にする」


 リーゼのペンが動いた。


 俺は、砲台の印へ指を置いた。


◇


 最初の一週間で、できないことが山ほど分かった。


「西側第一砲塔は?」


「旋回します」


「射撃は」


「砲尾が閉まりません」


「第二砲塔」


「砲尾は閉まります」


「射撃は」


「駐退機から油が漏れます」


「二人で一門になれないか?」


「工兵が、今それを試しております」


 リーゼは淡々と答えた。


 俺は額を押さえた。


 先日の戦いでは、砲口を向けるだけでよかった。


 今度は撃つ。


 発射した衝撃に砲架が耐え、次の弾を装填できなければ、武器にはならない。


 ゲームの修復ボタンが、心底恋しかった。


 中庭では、オスカーが兵士たちを並ばせている。


 その列は、途中で何度も途切れた。


 咳き込む者。座り込む者。小銃を持ったまま、立っていることすら難しい者。


 半年の飢えは、数日の食事では埋まらない。


「走らせるな。まず食わせろ」


 オスカーが下士官へ命じる。


「だが、大佐。本人が訓練を希望して――」


「倒れる練習なら、もう十分やった。医務室へ連れていけ」


 兵士が悔しそうに唇を噛む。


 オスカーは、その肩へ手を置いた。


「持ち場は残しておく。戻ってこい」


 俺は訓練の予定表から、長距離走の項目を消した。


 守備に必要なのは、まず持ち場へ着くことだ。


 遮蔽物を使って移動し、弾を運び、命令を聞き違えずに伝える。


 それを、食事と休息の間に繰り返した。


 ノアは三日目から、短い時間だけ坑道へ通い始めた。


 採掘の手伝いと、約束していた勉強だ。


 付き添って行くと、彼女は新しい支柱を指さした。


「こちらが柱です。上が梁。斜めのものは筋交いです」


「なるほど」


「マスターが壊そうとしたものは、柱です」


「そこは忘れてもいいぞ」


「危険ですので、覚えてください」


 後ろで工兵が頷いた。


 味方がいない。


 ノアは、手に持った小さな帳面を開いた。


 図の横に、几帳面な字が並んでいる。


 兵器の型式でも、標的の座標でもなかった。


 木材の名前。


 坑道で働く人間の名前。


 休憩時間。


「記憶できるのに、書くんだな」


「見せると、間違いを教えてもらえます」


「そうか」


 ノアが帳面を閉じた。


 坑道の奥で金属が鳴る。


 彼女の肩が、僅かに跳ねた。


 それを見た工兵が、槌を下ろす。


「すまん。次は声をかける」


「……お願いします」


 ノアは自分から答えた。


 俺は何も言わなかった。


 ただ、その隣を一緒に歩いた。


◇


 八日目、シャルロッテから情報が届いた。


 帝都東方の工廠が、重量貨物用の貨車を六両、借り上げている。


 搬出元は兵器技術院。


 行き先は帝国西部軍の集結地。


 さらに、護衛部隊の糧食が追加発注されていた。


「大型の装置ですか」


 リーゼが地図へ印をつける。


「恐らくな。箱一つで連れ戻せなかったから、今度は力ずくで来る」


「到着まで、どの程度でしょう」


「積み込みと移送、部隊の集結を考えれば、十日以上はかかる。ただし、先遣隊は別だ。見張りは減らすな」


 前回の不正作戦に関わった西部軍の将校たちは、査問と責任の押しつけ合いで身動きが取れなくなっていた。


 シャルロッテが届けた別の報告には、中央から新たな指揮官を送るとある。


 名前はまだ分からない。


 俺は要塞周辺の地形を見た。


 重いものを運ぶなら、通れる道は限られる。


 それを止める場所も。


「北の道路を測り直す。橋だけじゃない。路肩の地盤までだ」


「地雷を埋めますか」


「まず、どこに何が来るかを決める。掘るのはそれからだ」


 俺は赤い鉛筆で、道の一部を囲んだ。


 その日の午後、最初の砲が撃てた。


 轟音が岩山へ響き、標的にした無人の斜面から土煙が上がる。


 砲兵たちが駆け寄り、砲尾と砲架を調べる。


 俺は、誰も何も言わない時間がひどく長く感じた。


 やがて、煤まみれの工兵が片手を上げた。


「異常なし!」


 歓声が上がった。


 オスカーが砲身を軽く叩く。


「ようやく口を利いたな」


「今までは顔で仕事をしてたからな」


「お前と同じだ」


「俺は頭を使ってる」


「なら、次の弾代も考えておけ」


 試射用の砲弾は、あと二発しかなかった。


 喜ぶ時間にも、予算が必要だった。


◇


 二週目の終わりには、二両目の戦車が動いた。


 三両目は完全に部品取りへ回された。


 その車体に、整備兵が白墨で礼を書いていた。


 お疲れさま、と。


 復帰した戦車は中庭を半周し、蒸気を噴いて止まった。


「故障か?」


「運転手が感動して、弁を閉め忘れました!」


「機械より先に人間を整備しろ!」


 オスカーの怒声に、見物していた子供たちが笑う。


 その横を、ノアが白い前掛け姿で歩いていた。


 腕に抱えているのは、籠だった。


「何を運んでる」


「パンです」


「厨房も手伝うようになったのか」


「はい。今日は、成形を担当しました」


 籠の中を覗く。


 丸いパンの隣に、妙に角張った塊があった。


「これは?」


「装甲列車です」


「随分と防御力が高そうだな」


「焼いたら、砲塔が落ちました」


「それは重大な欠陥だ」


「味に影響はないと聞きました」


 一つ受け取って齧る。


 硬い。


 しかし、ちゃんとパンだった。


「うまい」


 ノアが俺の口元を見る。


「本当ですか」


「ああ」


「では、次も作ります」


 その答えは、少しだけ早かった。


 厨房の入口から、配給係の老兵が顔を出す。


「ノア! 自分の分、また置いていったろう!」


 ノアが足を止めた。


「マスターの分を――」


「お前さんの分は、お前さんが食え。少将のは別に取ってある」


「……はい」


 籠を抱え直し、戻っていく。


 途中で子供に呼び止められ、パンを見せていた。


 俺はその背中を見送った。


 ノアに話しかける人間が増えた。


 俺がいなくても交わされる会話がある。


 そのことが嬉しくて、ほんの少しだけ落ち着かなかった。


「寂しいのですか」


 背後からリーゼの声がした。


「違う。成長を確認してる」


「なるほど。では、こちらもご確認ください」


 請求書が差し出される。


 砲弾。車軸。鋼材。薬品。


 俺はパンを飲み込んだ。


「こっちの成長は止められないか」


「閣下のご注文です」


◇


 装置の調査は、思うように進まなかった。


 壊した中枢は動かず、刻まれた文字も大半が読めない。


 分かったのは、ノアの身体へ届く干渉が、距離と厚い岩盤で弱まること。


 普通の無線を妨害する装置では、防げないこと。


 それだけだった。


 ノアを使って確かめるつもりはなかったが、彼女の方から、短時間なら協力すると申し出た。


 止める合図を決め、医師をつけた。


 残骸のうち、まだ微かな反応を返す金属片を使って、遮蔽物の差だけを調べた。


 三度目にノアが「やめてください」と言った。


 俺は、その日の調査を終わらせた。


 完全な防御は作れない。


 だから、攻撃されても時間を稼げる場所を作った。


 岩山の奥の旧弾薬庫。


 空にして、換気を直し、寝台と水を運び込む。出入口は二つ確保した。


「扉は、中から開きますか」


 部屋を見たノアが尋ねた。


「開く。鍵もお前が持て」


 俺は鍵を渡した。


 彼女は自分で扉を閉め、また開けた。


 それを確かめてから、部屋の奥へ歩いた。


 寝台の隣には、小さな棚がある。


 ノアはそこへ、押し花を挟んだ帳面を置いた。


「ここで、待てばよいのですね」


「必要になったらな。ずっと入っている必要はない」


「マスターは?」


「指揮所にいる。内線もつなぐ」


 ノアが振り返った。


「必ず、応答してください」


「ああ」


 俺はその約束を、作戦書の余白へ書いた。


 覚えているだけでは、足りない気がした。


◇


 箱を壊してから、二十一日目。


 帝国軍の旗が、北の丘へ現れた。


 歩兵約千五百。


 戦車十二両。


 そして、兵器技術院の紋章をつけた大型牽引車が三両。


 偵察から戻った兵士が、地図へ位置を書き込む。


「中央の車両は、砲塔がありません。代わりに、輪のようなものを積んでいます」


 俺は報告を聞き、頷いた。


 ここまでは予想の範囲だ。


 ただし、次に告げられた名前で、指が止まった。


「指揮官は、アーク・グランツ准将です」


 リーゼが俺を見る。


 俺は地図から顔を上げなかった。


「そうか」


 しばらくして、白旗を掲げた軍用車が正門へ近づいた。


 乗っていたのは、アークと二人の護衛。


 そして、灰色の外套を着た細身の男だった。


 面会には応じる。


 場所は正門脇の旧検問所。外の部隊は動かさない。護衛の銃は入口で預かる。


 こちらの条件に、アークは全て従った。


 部屋へ入るなり、彼は俺の手を見た。


 鉄槌で剥けた皮の跡が、まだ薄く残っている。


「また怪我をしたのか」


「今度は労働災害だ」


「お前に工具を持たせるべきではなかったな」


「何で全員同じことを言うんだ」


 アークは笑わなかった。


 俺も、それ以上は続けなかった。


 彼の隣へ、灰色の外套の男が座る。


「兵器技術院、回収主任のヴァイスです」


 男は俺を見ず、部屋の隅へ目を向けた。


 そこには誰もいない。


「第零号は?」


「別の場所にいる」


「交渉の対象を隠されては、話が進みません」


「先に俺と話せ」


 アークが、封書を机へ置いた。


 皇太子の印璽が押されている。


「第零号の返還と、武装解除を求める。応じれば、要塞住民の処罰は行わない。懲罰部隊の待遇も見直す。お前たちについては、死刑を免除する」


「随分と譲ったな」


「譲らせた」


 アークの目の下には、深い隈があった。


 三週間、こいつも眠っていなかったのだろう。


「ノアはどうなる」


「専門施設へ移送し、封印を安定させる。少なくとも、皇太子殿下の戦場へ直接送らせることはしない」


「誰が保証する」


「私が移送に立ち会う」


 俺は、布に包んでおいた金属片を机へ置いた。


 十三の刻印。


 アークの隣で、ヴァイスの指が止まる。


「これも、封印を安定させる道具か」


 俺は箱のことを話した。


 ノアの膝が折れたこと。


 声を奪われたこと。


 自分の手さえ動かせなくなったこと。


 アークは黙って聞いた。


 最後まで聞いてから、ヴァイスへ顔を向ける。


「説明を」


「緊急時の安全措置です。暴走時に行動を停止させる機能が、正常に作動したのでしょう」


「あいつはパンを食べていた」


 俺は言った。


「子供と、明日の話をしていた。それが暴走か?」


 ヴァイスは、初めて俺を見た。


「日常生活の模倣と、安全性には関係がありません」


 俺は机の下で、拳を握った。


 アークが、先に口を開いた。


「その装置の使用命令は、私に報告されていない」


「技術院の管轄です」


「この交渉と移送の責任者は私だ」


 二人の視線がぶつかる。


 俺はアークへ言った。


「お前が作った条件を、こいつらが守ると思うか」


「……確認する」


 アークは立ち上がらずに答えた。


「移送方法と処遇を、文書で出させる。それまでは、引き渡しを実施しない」


「准将」


 ヴァイスが低い声を出す。


「ご自分の任務をお忘れなく」


「忘れていない。だから確認すると言っている」


 入口の扉が、小さく鳴った。


 リーゼが開ける。


 その後ろに、ノアが立っていた。


 青い服。白い髪留め。


 厨房で使う前掛けは、もう外している。


「ノア。待っていていいと言っただろ」


「私の話ですので」


 彼女は部屋へ入った。


 俺の背後へ隠れず、隣に立つ。


 ヴァイスを見た瞬間、指先が震えた。


 それでも、目を逸らさなかった。


「お久しぶりです、第零号」


 ヴァイスが言う。


「随分と、不要な習慣が増えたようですね」


 ノアは答えない。


 俺を見る。


「私が戻れば、皆さんは安全になりますか」


 俺は一度、アークへ目を向けた。


 こいつは約束を守ろうとする。


 それでも、守れるとは限らない。


「保証はできない」


 ノアの指が、自分の袖をつかんだ。


「それより、お前は戻りたいのか」


 外から、槌の音が聞こえた。


 最後まで残った土嚢の補強をしている。


 昼食を知らせる鐘は、まだ鳴らない。


 ノアは長い時間をかけて、息を吸った。


「戻りたく、ありません」


 ヴァイスが眉を動かす。


「その判断は、お前には――」


「今、ノアが話してる」


 俺が遮ると、部屋が静かになった。


 ノアは、もう一度口を開いた。


「明日は、私がパンを焼く番です」


 アークが彼女を見た。


「まだ、一人ではうまく作れません。ですが、教えてもらえる約束です」


 袖をつかむ指に、力がこもる。


「私は、ここにいたいです」


 俺は頷いた。


「分かった」


 机の上の封書を、アークへ押し戻す。


「返還には応じない」


「カイル」


「お前の返事は、お前が決めろ。俺たちの返事は、これだ」


 アークは、差し戻された封書を見つめた。


 その横で、ヴァイスが懐中時計を閉じた。


「交渉による回収は、不可能と判断します」


 細い金属音がした。


 時計の蓋の内側で、小さな灯りが点く。


 リーゼが即座に男の手首を押さえた。


「動かないでください」


「無駄です。合図は届きました」


 遠くで、低い汽笛が鳴った。


 一度。


 二度。


 通常の部隊信号とは、違う音だった。


 アークが立ち上がる。


「誰が作動を許可した!」


「皇太子殿下です。交渉不成立時の回収権限は、技術院へ移ります」


「私は、まだ交渉を打ち切っていない!」


 窓の外で、丘の上の輪が起き上がった。


 巨大な黒い円環。


 牽引車から伸びた管が脈打ち、その内側に光が集まっていく。


 ノアが俺の腕をつかんだ。


「マスター。同じです」


「分かってる。リーゼ、地下へ」


 リーゼがヴァイスの身柄を守備兵へ引き渡し、ノアの肩を支える。


 扉の向こうには、避難誘導の兵士が待っていた。


 鐘が鳴る。


 廊下を走る足音。


 誰も正門へ集まっては来ない。


 三週間、繰り返したとおりに動いている。


「全部隊、停止! 技術院車両を前進させるな!」


 アークが、検問所の軍用回線へ怒鳴った。


 返ってきたのは、切迫した声だった。


『護衛歩兵は停止しています! 回収車両、独自に前進! 技術院警備隊が道路を占拠しました!』


 ヴァイスは守備兵に腕を取られたまま、俺を見る。


「第零号を外へ出せば、ここを壊す必要はありません」


 俺は答えず、内線の送話器を取った。


「オスカー」


『聞こえている』


「第一段階。避難を優先。回収車両の位置を、観測所から回せ」


『もう回している。砲も装填済みだ』


 机の端で、別の呼び出し鈴が鳴った。


 旧弾薬庫からだった。


 切り替える。


「ノア」


『……聞こえますか』


「聞こえる」


 小さく、息を吐く音がした。


『扉を、閉めました』


「そうか。そっちは任せる」


『はい』


 俺は回線をつないだまま、アークを見た。


「お前の兵士を、道路から下げろ」


「何をするつもりだ」


「止める」


「相手は、ノアを封じるための部隊だぞ」


「ああ」


 壁に掛けた地図へ目を向ける。


 二門の砲。


 二両の戦車。


 十分に回復して持ち場につけた守備兵、百八十六名。


 第十三作戦室。


 荷を運ぶ人間。負傷者を迎える人間。避難所で子供の名前を確かめる人間。


 全員の仕事が、そこに書いてある。


「だから、俺たちが戦う」


 観測所から距離の報告が入る。


 黒い円環を載せた車両が、三週間前にはただの道だった場所へ近づいていた。


 俺は送話器を握り直した。


「全員、聞け」


 返答を待つ。


 砲台から。車庫から。地下から。


 一つずつ、声が届く。


「作戦目標は、敵回収装置の破壊。撤退する敵は追うな。持ち場を失ったら、次の防衛線へ戻れ」


 最後に、地下の回線へ目を向けた。


「明日の朝飯は、全員で食うぞ」


 オスカーが笑った。


『了解だ』


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