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第五話 追放された軍師は、八百人分の食卓を買う

 帝国軍には勝った。


 朝食には負けた。


 その事実を受け入れるため、俺は空の皿をしばらく見つめていた。


「閣下。皿から食料は発生しません」


「知ってる。可能性を探っていただけだ」


「では、現実をご覧ください」


 リーゼが皿の上へ帳簿を置いた。


 食べられないものが増えた。


 グラウエン要塞、旧司令室。


 窓には板が打ちつけられ、暖炉には火がない。机の脚は一本短く、古い教範を挟んでどうにか水平を保っていた。


 帝国西部を揺るがす反乱拠点の中枢としては、なかなか慎ましい。


「食料六日分。石炭四日分。薬品は、必要量の一割にも届きません」


「金は」


 リーゼが小袋を逆さにした。


 銀貨が二枚。銅貨が十三枚。


 最後に、軍服の釦が一つ転がった。


「釦は誰のだ」


「閣下の財布に入っていました」


「予備だ」


「現金の予備をお持ちいただきたかったです」


 向かいに座るオスカーが腕を組んだ。


「俺たちの蓄えは、先月の薬代で尽きた。売れる装備も売っている」


「残ってる戦車は?」


「一両は走る。二両は、走る一両の部品だ」


「仲のいい三兄弟だな」


「売れば次の襲撃で死ぬぞ」


 分かっている。


 人を守るには壁がいる。壁を守るには兵士がいる。兵士を生かすには飯がいる。


 そして俺は昨日、その最後の部分を引き受けた。


「周辺の村は」


「どこも冬越しで精いっぱいだ。買いつけに行っても、余剰などない」


「帝国の倉庫にはあります」


 隣からノアが口を挟んだ。


 両手で小さな皿を持っている。黒パンが半分載っていた。


「倉庫を襲う話は後だ。それ、どうした」


「朝食です」


「食べてこいと言っただろ」


「半分食べました」


 皿が俺の前へ置かれる。


「残りは、マスターの分です」


「お前の取り分を減らすな」


「減らしていません。分けました」


 ノアは言い切ったあと、少しだけ首を傾けた。


「あの子に、そう教わりました」


 俺はパンを見る。


 切り口は不揃いだった。半分にしようと、何度か手で確かめた跡がある。


「……そうか。ありがとう」


「はい」


 噛みしめると、硬いパンからかすかに麦の味がした。


 六日後にも、これを分け合えるようにする。


 まずは、そこからだ。


「オスカー。地下の採掘区画へ案内してくれ」


 オスカーの眉が動いた。


「採掘区画?」


「北側の排水坑。その奥だ」


「あそこは封鎖されている。掘っても石しか出ん」


「石が欲しいんだよ」


 俺は最後のひとかけを口へ放り込んだ。


「高く売れるやつがな」


◇


 地下の空気は、地上より温かかった。


 そして、ひどく湿っていた。


 天井から水滴が落ち、錆びた線路の間に細い流れを作っている。壁には、煤に覆われた古い番号札が残っていた。


 第三採掘坑。


 ゲームでは、要塞を修復してから開放される資源区画だ。


 俺がこの拠点を選んだ理由の一つでもある。


 ただし画面の中なら、資金を払って一日待てばよかった。


 現実の入口には、家ほどもある岩が詰まっていた。


「三年前の崩落だ」


 オスカーが言う。


「何度か撤去を試みたが、奥から可燃性のガスが出た。爆薬は使えん。人力で掘るだけの食料もなかった」


 同行した工兵が、安全灯を低く掲げた。


「まず通風を戻す必要があります。上の換気坑が生きていれば、ですが」


「そこは頼む。坑内へ人を入れるのは、空気を確かめてからだ」


「承知しました」


 俺は岩の隙間へ灯りを向けた。


 黒い断面の中に、青く光る粒がある。


 爪ほどの欠片を拾い、指で泥を拭った。


 黒晶炭。


 古代の地層から、ごくまれに産出する特殊な燃料鉱だ。


 専用炉で燃やせば、同じ重量の石炭よりはるかに長く、高い火力を保つ。燃料の重さが航続距離を左右する飛行艦にとっては、金よりありがたい。


「見たことがあるぞ」


 オスカーが欠片を覗き込む。


「昔の記録に、炉が焼きついたとあった」


「普通の暖炉に放り込めばな。使うには専用の設備がいる」


「つまり、今夜の暖房にはならんのか」


「今夜の暖房を買える」


 リーゼが眼鏡を押し上げた。


「買い手を見つけられれば、ですね」


「中立都市の商会へ連絡してくれ。鑑定人と、食料を扱う責任者が欲しい。見本は今日中に出す」


「心当たりはございます。ただ、安い相手ではありません」


「高く買ってくれるなら大歓迎だ」


「高く売る方がお得意です」


「商人として隙がないな」


 リーゼが引き返す。


 俺は工兵たちと、崩れた天井の位置を確かめた。


 岩を一つ抜けば、その上が落ちる。先に支柱を入れるにも、隙間が狭すぎた。


「マスター」


 ノアが外套の裾を引く。


「この岩は、必要なものですか」


「いや。だが全部消すと、天井まで崩れるかもしれない」


「上を止めて、手前から取り除けます」


 青灰色の瞳が、坑道の奥を見ていた。


「門より軽いです」


「昨日、あれだけ無理をしたばかりだぞ」


「腕の痛みはありません。疲れたら休みます」


 答えが早かった。


 俺に止められる理由を、先に考えていたらしい。


「私は、やりたいです」


「……そうか」


「ここは、私の家ですから」


 俺はノアを見た。


 彼女はもう、次の命令を待つ顔をしていなかった。


 申し出を、俺がどう受け取るか待っていた。


「分かった。手伝ってくれ」


「はい」


「支柱を入れる間だけ支える。工兵と交代しながらだ。一人で終わらせようとするなよ」


「マスターにも適用されますか」


 背後でオスカーが咳払いした。


「当然だな」


「……もちろんだ」


「では、任せてください」


 ノアが岩へ手を伸ばす。


 工兵が白墨で示した部分だけが、音もなく消えた。


 ぽっかりと開いた隙間に、全員が息を呑む。


「上は止めています」


 ノアが告げると、工兵が我に返った。


「支柱、運べ! そこの横木もだ!」


 兵士たちが動き出す。


 誰かが材木を担ぎ、誰かが水を汲み、誰かが岩屑を手押し車へ積んだ。


 ノアの隣へ、さっきまで離れて立っていた若い兵士が近づく。


「ここを留めるまで、頼めるか」


「可能です」


「助かる」


 ノアが一度、俺を振り向いた。


 俺は頷くだけにした。


 昼過ぎ、風が坑道を通り抜けた。


 空気を調べ終えた工兵が、先へ進んでもいいと合図する。


 灯りの向こうに、黒い鉱脈が現れた。


 濡れた岩肌が、星を閉じ込めたように青く瞬いている。


「……こいつを、俺たちはずっと踏んで暮らしていたのか」


 オスカーが呟く。


「今日から掘ればいい」


 俺はつるはしを受け取った。


 最初の一撃は、見事に跳ね返された。


 手が痺れる。


「閣下」


 工兵が気まずそうに言った。


「そこ、鉱脈じゃなくて支柱です」


「……指揮に専念する」


「それがよろしいかと」


◇


 翌日の昼、中立都市の商人がやってきた。


 小型の蒸気自動車を先頭に、荷馬車が三台。


 旗には剣も鷲も描かれていない。


 金色の天秤。


 クライン商会の紋章だった。


「お招きいただき、光栄ですわ」


 降りてきたのは、蜂蜜色の髪を背へ流した女性だった。


 深緑の外套に、泥一つない手袋。翡翠色の瞳が、修理途中の門から積み上げられた土嚢までを順に見ていく。


 最後に、俺の擦り切れた軍服で止まった。


「シャルロッテ・クラインと申します。会長を務めております」


「会長自らとは、随分と暇なんだな」


「処刑された少将が、廃坑から黒晶炭を売りに出したんですもの。部下に任せては、損をしそうでしょう?」


「俺の評判は」


「よく存じております。お代をいただけるかについては、これから」


 隣でリーゼの眉が動いた。


 シャルロッテはそれにも笑みを向ける。


「ハルトマン大尉。お変わりありませんわね」


「そちらも。前回、冬服の納入価格を吊り上げられたことは覚えております」


「納期は守りましたでしょう?」


「それでなければ、今回は呼んでおりません」


 なるほど。


 好かれてはいないが、信用はされているらしい。


 後ろの荷馬車から、商会の男が木箱を降ろした。


 小麦粉。乾燥豆。塩。


 見張りの兵士が、喉を鳴らした。


「先に食料を持ってきたのか」


「鑑定の結果がよければ、その場でお渡しできるように。商談が早く進みますわ」


 彼女は柔らかく笑う。


 腹を空かせた客の前へ、先に料理を並べる。


 なかなか性格のいい商人だった。


◇


 鑑定人は、坑口から持ち帰った試料と、昨日掘り出した鉱石の山を交互に確かめた。


 小さな試験炉の計器を読み、手帳へ数字を書き込む。


 シャルロッテの耳元で何か囁いた。


 彼女の笑顔は変わらなかった。


 ただ、手袋を外した。


 商売を始めるらしい。


「たいへん良い品です。現在の在庫と、鉱山の採掘権をまとめてお譲りいただけるなら、要塞全員の食料一か月分をご用意いたします」


 オスカーが身を乗り出す。


 俺は机の下で、彼の靴を踏んだ。


 踏み返された。


 痛い。


「期間は」


「採掘権のことでしたら、無期限ですわ」


「一か月の飯で、山を一つ買うのか」


「山を買うのではありません。両国に狙われた鉱山へ、人と設備を送る危険を引き受けるのです」


 シャルロッテが窓の外を示す。


「橋は傷み、線路は途切れ、採掘量も安定していない。明日には帝国軍が戻るかもしれない。地中の宝に値札をつけるのは簡単ですけれど、運び出して初めてお金になります」


「随分と値引きしたな」


「危険を取り除いていただければ、値段も変わります」


 筋は通っている。


 だから厄介だ。


 ただ欲深いだけの相手なら、嘘でも脅しでも使えた。


 この女は、俺たちが何に困っているのかを正確に見ている。


「ノアを働かせ続ける前提で、採掘量を計算するなよ」


「そのような条件は提示しておりませんわ」


「念のためだ」


「では、こちらも念のため。交渉が不調でも、商人を消さないでくださいませ」


 ノアが顔を上げた。


「現在、その予定はありません」


「安心いたしました」


「価格には不満があります」


「俺より交渉がうまいかもしれんな」


 リーゼが机へ一枚の紙を置いた。


 昨日の夕方、採掘の見本と一緒に送った照会への返答だった。


「自由都市の燃料取引所からです。試料の鑑定を条件に、三社が買い取りを希望しています」


 シャルロッテが紙へ視線を落とす。


「こちらは工廠の代理店。こちらは共和国の飛行船会社ですわね」


「詳しいな」


「二社は、うちのお客様ですもの」


 俺は少しだけ黙った。


 リーゼも黙った。


 シャルロッテだけが楽しそうだった。


「価格を比べるのは結構です。でも、納入場所をご覧ください」


 細い指が、紙の末尾を叩く。


 自由都市中央貨物駅にて引き渡し。


「そこまで運べます?」


「今は無理だ」


「でしたら、お話を戻しましょう」


「いや。ここからが本題だ」


 俺は地図を広げた。


 要塞から南へ延びる細い線を、指でなぞる。


「旧搬出線。地下の貨物線から、南の積み替え場へ抜ける支線だ。今朝、工兵に調べさせた。落石を片づければ、軽い貨車なら通る」


「南の積み替え場……」


 シャルロッテの視線が動く。


 帝国軍の検問。


 国境の関所。


 そして、そこから外れた古い道。


「そこまでを俺たちが直す。積み替え場から先は、お前の馬車を使う」


「輸送をご依頼になるの?」


「それだけじゃない。六か月間、出荷分の半分を優先して買える権利を売る。値段は自由都市の相場から運賃と、合意した手数料を引く」


「残りの半分は?」


「他の商会にも売る。お前の馬車が止まっただけで、全員が飢えるのは困る」


 彼女が初めて、笑みを薄くした。


「独占はさせない、と」


「商売を続けたいんだ。今日の飯だけで終わらせる気はない」


 俺は買い取り希望の紙を、彼女の方へ押した。


「買い手はいる。売り物もある。お前なら、その間をつないで儲けられる」


「……私が断れば?」


「今日掘った分を、別の運送屋に運ばせる。最初の一回は赤字でもいい。六日後までに豆を買えれば、その先の交渉はできる」


 できるかもしれない、というのが正確なところだ。


 別の商会を呼び、条件を詰める時間は少ない。運送屋が来なければ、装甲列車をばらしてでも馬車を作ることになる。


 シャルロッテは、おそらくそこまで分かっていた。


 それでも、無期限の採掘権を一か月の食料で買えるとは、もう思っていない。


「ご希望の対価を」


「全員の食料三か月分。医薬品と普通の石炭。それから採掘道具、線路の補修材。分納でいいが、最初の便は明後日までだ」


「随分なお値段ですこと」


「いい石なんだろ」


「ええ。ですが、まだ掘っていない石に全額は払えません」


 シャルロッテがペンを取った。


「権利の代金として、一か月分。残り二か月分は、初期出荷の代金から差し引く前払い。道具はお貸しします。故障時の負担も決めましょう」


「薬は別枠にしろ。子供の熱は採掘を待ってくれない」


「必要な品目を。数量を見てからです」


 リーゼが、待っていたとばかりに別の紙を差し出した。


 シャルロッテが目を通す。


「……鎮痛剤が少ないですわね」


「優先順位をつけました」


「採掘をするのでしょう。怪我人が寝込めば、私の回収が遅れます。こちらは追加します」


 リーゼが一瞬、彼女の顔を見た。


「おいくらで」


「仕入れ値で結構」


「運賃は」


「今回の荷に入ります」


 俺は椅子へ背を預けた。


「最初から、その話ができればよかったんだがな」


「最初から、山を手放さない方だと分かっていれば」


「試したのか」


「売ってくだされば買いましたわ」


 嘘ではないのだろう。


 俺はこの女を、少し気に入った。


 絶対に財布は預けないが。


◇


 契約書は三枚になった。


 採掘権は要塞に残す。出荷を優先する代わりに、商会は定期便を出す。鉱石も食料も、その場で双方が量と品質を確かめる。


 生産量の約束は、オスカーが工兵と相談して決めた。


 ノアが毎日魔法を使うことは、どこにも書かなかった。


「署名を」


 シャルロッテがペンを差し出す。


 俺は、署名欄の肩書きを見た。


「グラウエン自治領代表?」


「帝国軍少将では、ありませんでしょう?」


「ただの要塞の管理人でいい」


「八百人以上の食料を買う管理人。ご立派ですわね」


「嫌味か」


「信用の確認です」


 彼女は笑ったまま、ペンを離さなかった。


「逃げないでくださいませ。あなたの名前で、私は馬車を出すんですから」


 俺は彼女を見る。


 それから、ペンを受け取った。


「逃げるときは、全員連れていく」


「では、馬車代も用意しておきます。もちろん、別料金で」


 署名を終えると、シャルロッテは部下へ窓越しに手を上げた。


 中庭の荷馬車から、小麦粉の袋が降ろされていく。


 試験出荷の鉱石と引き換えに、今ある食料を受け取る。


 それだけのことだった。


 なのに、袋を担いだ老兵が、何度も中身を確かめていた。


 豆を一粒つまみ、指先で転がす。


 それから帽子を脱いで、目元を拭った。


「……商談成立ですわ」


 シャルロッテが静かに言う。


 俺は頷いた。


「ああ」


 腹が鳴った。


 たいへん締まらない音だった。


「祝いの席には、少し早かったかしら」


 シャルロッテが鞄から、小さな缶を取り出した。


 蓋を開くと、バターの匂いが広がった。


 焼き色のついた菓子が、薄紙の上に並んでいる。


 リーゼの視線が止まった。


「こちらは贈り物です。請求書には載せませんわ」


「先に言ってくれると助かる」


「では、一枚」


 リーゼが手を伸ばしかけて、止めた。


 俺が見ていることに気づいたらしい。


「……長時間の交渉で、糖分を消耗しましたので」


「俺は何も言ってないぞ」


「マスター」


 ノアが缶の中を数えている。


「二十四枚あります」


「そうだな」


「子供全員には足りません」


 リーゼの手が、そっと引っ込んだ。


 シャルロッテはノアを見た。


「何人いるのかしら」


「まだ正確には確認していません」


「では、確認して教えてくださる? 次の便で、小さいものを人数分持ってきましょう」


「対価は」


「そうですわね」


 シャルロッテが、わざと考える素振りをした。


「おいしかったら、次もクライン商会を使ってくださいませ」


 ノアは真剣な顔で頷いた。


「マスターへ提案します」


「俺の知らないところで取引先を増やすなよ」


「まだ提案の段階です」


「正確に覚えてるな……」


 結局、缶は厨房で預かることになった。


 今日の子供たちの食事に、砕いて少しずつ添えるらしい。


 リーゼは蓋が閉まるまで、たいへん立派な姿勢を保っていた。


◇


 二日後、南の積み替え場へ最初の定期便が着いた。


 支線の修理はまだ途中だ。


 貨車を軽くして、何度も往復させる。動く戦車は牽引役へ回され、元戦車兵たちが文句を言いながら荷を積んだ。


 その文句にも、どこか張りがあった。


 小麦粉。麦粒。豆。干し肉。塩漬けの野菜。


 医務室には包帯と薬が届き、炉には普通の石炭がくべられた。


 借り物のつるはしを見た兵士が、刃先を撫でて笑った。


 難民の中にいた元坑夫たちが、採掘の相談へ加わる。


 掘る者。選り分ける者。運ぶ者。食事を作る者。


 要塞の名簿に、階級以外の仕事が書き込まれていった。


 俺はその日の夕方、食堂へ呼ばれた。


 大鍋の中で、麦と豆が煮えている。


 肉は薄く、小さく切られていた。それでも、湯気には今までなかった匂いがあった。


「今日は全員分ある」


 配給係の老兵が、俺の皿へたっぷりとよそった。


「お前さんの分もな」


「助かる。国の威信が守られた」


「おかわりは一杯までだ」


「国の威信には上限があるらしい」


 卓へ座ると、ノアが向かいにいた。


 花をくれた少女と、その弟も一緒だった。


「お姉ちゃん、石をパンにしたんだって!」


 少女が嬉しそうに言う。


「正確ではありません。石を掘り、商人へ渡し、小麦粉を受け取りました」


「すごいね」


「パンを作ったのは厨房の人です」


「みんなすごいね」


 ノアは少し黙った。


 それから、自分の皿を見た。


「……はい」


 俺は匙を取る。


 温かい。


 たったそれだけで、肩の力が抜けた。


 ノアがパンを二つに割りかけ、手を止める。


 俺の皿を確かめたのだ。


「今日は、ありますね」


「ああ。お前も全部食べろ」


「はい」


 彼女は頷き、ひとかけを口へ運んだ。


 今度は、俺へ渡すために残さなかった。


 食堂の入口で、シャルロッテがその様子を見ていた。


 荷の検収に、また自分でついてきたらしい。


「いいお買い物でした?」


「今のところはな」


「次の出荷も、期待しております」


「飯の最中に働かせるな」


「働いていただかないと、次のお食事が買えませんもの」


 リーゼが、シャルロッテへ席を勧めた。


 その手には、小さな焼き菓子が一つあった。


「子供の分ではないだろうな」


「検品用です」


「私が差し上げましたの。担当者にも味を知っていただかなくては」


 シャルロッテが助け船を出す。


 リーゼが無言で頷いた。


 商会と補給担当の関係は、順調に改善しているらしい。


 ノアが俺を見た。


「マスター」


「何だ」


「明日も、坑道へ行きたいです」


「何か頼まれたのか」


「いいえ。支柱の名前を教えてもらう約束をしました」


「そうか」


「マスターにも教えます」


「なぜだ」


「また壊すと困ります」


 オスカーが吹き出した。


 子供たちが笑い、リーゼまで口元を隠した。


 俺は黙ってスープを飲んだ。


 戦場で築いた威厳が、支柱一本に負けていた。


◇


 食事が終わるころ、シャルロッテの部下が入口に現れた。


 彼女へ短く耳打ちする。


 翡翠色の瞳から、笑みが消えた。


「カイル様。荷について、少々」


 俺は匙を置いた。


 南の搬入口には、まだ未検収の木箱が並んでいた。


 商会の荷から離して、小さな箱が一つ置かれている。


 周囲をオスカーの兵士が囲んでいた。


「積み替え場で紛れ込んだものです。うちの荷札をつけていますが、帳簿にありません。封蝋も偽物です」


 シャルロッテが言う。


「中身は」


「開けておりません。検品係が気づいて、運搬を止めました」


 箱の宛名を見て、俺は足を止めた。


 カイルでも、グラウエン要塞でもない。


 帝国戦略級人型兵器・第零号。


「全員、離れろ」


 兵士たちを下がらせる。


 俺の後ろで、ノアが息を吸った。


「マスター」


「近づくな」


「その中に――」


 箱の内側で、何かが鳴った。


 金属を爪で弾くような、細い音。


 ノアの手が、自分の首へ伸びる。


 もうないはずの首輪を、押さえようとしていた。


『第零号を確認』


 誰の声でもなかった。


 通信機は置いていない。


 それでも、その声は箱の中から聞こえた。


『神体回収計画――第二段階へ移行』


 箱の継ぎ目から、黒い光が漏れる。


 荷札の裏側に、焼けるように数字が浮かんだ。


 十三。


 俺はノアの肩を引き寄せた。


 彼女は箱を見つめたまま、小さく呟いた。


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