第四話 追放された軍師は、帝国に捨てられた要塞を奪う
その要塞は、地図の上では三年前に死んでいた。
帝国西部国境、グラウエン要塞。
黒灰色の岩山をくり抜いて築かれた巨大軍事拠点であり、最盛期には五千人の兵士と百両を超える戦車が配備されていた。
二重の城壁。
地下を走る軍用貨物線。
大型飛行艦を収容できる格納庫。
そして、正面から攻め落とすには三個師団が必要とまで言われた重砲陣地。
だが、帝国と共和国の国境線が変わったことで戦略的価値を失い、現在は放棄されている。
少なくとも、帝国の公式記録では。
「なるほど」
装甲列車の窓から、その威容を見上げる。
「ひどい有様だな」
外壁には砲撃の跡が残り、いくつもの砲塔が崩れ落ちている。
帝国旗は掲げられておらず、代わりに薄汚れた白い布が風に揺れていた。
降伏旗ではない。
遠くからでも、あそこに人がいると知らせるための目印だ。
「線路の状態も最悪です」
向かいの席に座るリーゼが報告書から顔を上げた。
「枕木の三割が腐食。第三橋梁は崩落寸前。蒸気供給設備も、少なくとも二年は整備されていないと思われます」
「使えるな」
「今の報告を聞いていましたか?」
「修理できる箇所が分かった」
「私は廃棄を進言したつもりです」
「前向きに考えろ。壁はまだ立ってる」
「壁以外が死んでおります」
「俺も三日前に死んだ。仲良くできそうだ」
リーゼが眼鏡の奥で目を細めた。
「グラウエン要塞に同情いたします」
随分な言い草だ。
隣を見ると、ノアが窓へ両手をつき、要塞を見上げていた。
青い町娘風の服。
本人が初めて自分で選んだものだ。
白い軍服よりも、こちらの方が似合っている。
「マスター」
「何だ」
「あれが、新しい住居でしょうか」
「交渉がうまくいけばな」
「失敗した場合は?」
「別の場所を探す」
「要塞の人間を消せば、空き家になります」
「交渉という言葉を辞書で引いてみろ」
「相手の意思を変化させ、合意を形成する行為です」
「合ってるな」
「消滅させれば、反対意見はなくなります」
「過程が致命的に間違ってる」
ノアが僅かに首を傾ける。
町で一日過ごした程度では、さすがに倫理観までは育たなかったらしい。
「ノア、確認しておくぞ。今日は誰も殺すな」
「マスターに危害を加えた場合は?」
「殺すな」
「リーゼ大尉に危害を加えた場合は?」
「同じだ」
「装甲列車に危害を加えた場合は?」
「物より人間の命を優先しろ」
「理解できません」
「正直でよろしい」
俺が頭を抱える横で、リーゼが報告書を閉じる。
「そもそも、受け入れてもらえるでしょうか」
「難しいだろうな」
グラウエン要塞には現在、およそ八百人が暮らしている。
帝国軍の懲罰部隊が三百人。
戦争で故郷を失った難民が五百人。
懲罰部隊といっても、凶悪犯を集めたものではない。
民間人を巻き込む命令を拒否した者。
上官の横領を告発した者。
共和国の子供を助けた者。
貴族将校を殴った者。
最後の一人に関しては詳細を聞く必要があるが、少なくとも帝国にとって都合の悪い軍人ばかりだ。
彼らは国境防衛という名目で、この死んだ要塞へ送られた。
補給は半年前から止まっている。
食料は、残り一週間。
帝国は彼らを処刑していない。
ただ、死ぬまで放置しただけだ。
「それでも、ここが必要だ」
装甲列車が減速する。
錆びついた正門の上に、人影が並んでいた。
兵士たちが小銃を構えている。
ざっと三十人。
全員、軍服は擦り切れ、頬が痩せこけていた。
だが、銃口は揺れていない。
「歓迎されているようには見えません」
「照れ屋なんだろう」
「射撃準備に入っています」
「帝国式の歓迎だ」
「実際に撃たれた場合は?」
「お前が避けろ」
「閣下の盾になることを想定しております」
「俺も避けるから問題ない」
「では、ノア様は?」
ノアが静かに答える。
「弾丸を止めます」
「完璧ですね」
「最初から俺はいらなかったな」
装甲列車が正門の五十メートル手前で停止した。
俺たち三人は列車を降りる。
冬の乾いた風が外套を揺らした。
正門の中央に、一人の大男が立っている。
短く刈った灰色の髪。
左の額から顎にかけて、深い傷跡が走っている。
擦り切れた帝国軍の外套を羽織り、腰には大口径の回転式拳銃。
かつて帝国西部軍の一個連隊を率いた男。
オスカー・ヴァルナー元大佐。
原作では名前しか登場しなかった人物だ。
グラウエン要塞で反乱を起こし、部下と難民を巻き込んで共和国軍に殲滅された反逆者。
ゲームの記録には、そう書かれていた。
だが今なら分かる。
あれもまた、帝国が用意した筋書きだったのだ。
「止まれ」
オスカーの低い声が響く。
「これ以上近づけば撃つ」
「久しぶりだな、ヴァルナー大佐」
「その呼び方をされる筋合いはない。俺は二年前に階級を剥奪された」
「偶然だな。俺も三日前に無職になった」
「処刑されたと聞いたぞ」
「最近の死刑は随分と自由らしい」
オスカーは笑わなかった。
相変わらず冗談の通じない男だ。
周囲の兵士たちが、俺たちの顔を確かめる。
やがて一人が驚きの声を上げた。
「本当にカイル少将だ……」
「隣の銀髪は、まさか第零号兵器か?」
「帝都から盗み出したって話は本当だったのか」
「こいつら、帝国全土で指名手配されてるぞ」
兵士たちの間に動揺が広がる。
小銃の照準が俺からノアへ移った。
直後、ノアが一歩前へ出る。
「全員の武器を破壊しますか?」
「やめろ」
「敵意を確認しました」
「怖がってるだけだ」
「恐怖と敵意の区別は困難です」
「だから話し合うんだよ」
俺は両手を上げた。
「見てのとおり、こちらに戦う意思はない」
「腰に拳銃を下げて言う台詞か」
「軍人にとって拳銃は装飾品だ」
「貴様の装飾品に殺された共和国将校は、両手の指では足りんはずだ」
「帝国軍人も混ざってる」
「自慢するな」
オスカーの表情が僅かに険しくなる。
しかし、彼は部下へ銃を下ろせとは命じなかった。
「帝国最強の軍師殿が、こんな墓場に何の用だ」
「家を探してる」
「ここには死人しかいない」
「俺も死んだことになっている。入居資格は十分だろ」
今度は、兵士の何人かが小さく笑った。
オスカーが睨むと、すぐに静かになる。
「帰れ。貴様らを置けば帝国軍に攻め込む口実を与える」
「俺が来なくても攻めてくる」
「何だと?」
「正確には、今夜だ」
オスカーの目が細くなった。
「根拠は」
「帝国西部軍第八砲兵連隊が、ここから四十キロ東に集結している。重砲十二門、戦車二十両、歩兵およそ二千」
城壁の上がざわついた。
「偵察隊からそのような報告はない」
「当然だ。連中は共和国軍の識別旗を用意している。東ではなく、北へ迂回しているはずだ」
「共和国軍に偽装して、この要塞を攻撃するというのか」
「そして、こう発表する。グラウエン要塞の懲罰兵団が共和国と内通し、交戦の末に全滅したとな」
「馬鹿馬鹿しい」
オスカーは吐き捨てた。
「帝国が、わざわざ我々を殺す理由がない」
「ある」
俺はリーゼへ目を向ける。
彼女が鞄から一枚の書類を取り出し、地面へ置いた。
風に飛ばされないよう、上に小石を載せる。
「西部軍兵站局による軍需物資の横流し。その証拠を、お前は持っているな」
オスカーの顔から、初めて表情が消えた。
「なぜ、それを知っている」
「横流しされた弾薬の製造番号と、辺境へ配備されたはずの戦車部品の取引記録。帝国議会へ送ろうとした告発書も含めてな」
この情報は原作にはなかった。
だが、俺たちを襲った狙撃手の所持品から、同じ軍需物資の製造番号が見つかった。
そして狙撃手が身につけていた、黒い認識票。
刻まれていた数字は《十三》。
リーゼが帝国軍の古い暗号表と照合した結果、その数字が西部軍兵站局の極秘会計簿にも記されていた。
まだ全容は分からない。
だが、俺たちを狙った何者かと、グラウエン要塞を消そうとしている連中はつながっている。
「お前たちは共和国軍に殺されたことになる。証拠は砲撃で焼失。西部軍の将校は横流しを続けられる」
「それを信じろと?」
「信じなくていい。日没まで待てば分かる」
「もし嘘だった場合は」
「俺たちは出ていく」
「本当だった場合は?」
「要塞をもらう」
城壁の上から、一斉に怒声が飛んだ。
「ふざけるな!」
「俺たちの要塞だぞ!」
「国家反逆者に渡せるか!」
「ここは帝国領だ!」
最後の言葉を聞き、俺は正門を見上げた。
「帝国はお前たちへ、半年も食料を送っていない」
声が止まる。
「石炭も、薬も、冬服もだ。病人が何人死んだ?」
「……黙れ」
「それでも、まだ帝国の土地だと言うのか」
「黙れ!」
オスカーの怒声が響いた。
腰の拳銃が抜かれ、銃口が俺の眉間へ向けられる。
瞬間。
ノアが俺の前へ出た。
「ノア」
「マスターの生命に対する明確な危険を確認しました」
「撃つつもりはない」
「なぜ分かるのでしょう」
「本当に撃つ奴は、抜く前に喋らない」
オスカーの指が引き金にかかる。
「試してみるか」
「やめておけ。ノアは俺より短気だ」
「命令があれば、この要塞ごと消去できます」
「そういうことを本人の前で言うな」
「威嚇は交渉を有利に進めます」
「誰に教わった」
「マスターです」
「教育方針を間違えた覚えはないぞ」
「二年前、共和国軍との停戦交渉において、『話を聞かないなら砲兵陣地ごと吹き飛ばす』と発言していました」
「よく覚えてるな……」
「マスターに関する記録は、すべて保存しています」
オスカーが、ほんの僅かに口元を緩めた。
やがて銃口を下ろす。
「相変わらず、女には頭が上がらんようだな」
「人聞きが悪い」
「事実です」
リーゼが即答した。
「リーゼ、お前はどっちの味方だ」
「閣下の副官ですので、事実関係は正確に記録します」
「今すぐその記録を燃やせ」
「写しを三部作成済みです」
「用意がいいな」
「お褒めにあずかり光栄です」
絶対に褒めていない。
オスカーは大きく息を吐くと、部下へ片手を上げた。
「正門を開けろ」
「大佐!」
「日没までだ。それまでは客人として扱う」
「信用するのですか」
「信用はしない」
重い音を立て、鋼鉄製の正門が開き始める。
「ただし、灰都で十万人を救った男の話だ。聞く価値くらいはある」
◇
グラウエン要塞の内部は、想像以上にひどい状態だった。
かつて戦車庫だった広間には、粗末な布で区切られた難民用の寝床が並んでいる。
暖房はなく、子供たちは毛布へ包まり、身を寄せ合っていた。
医務室にある薬品はほぼ空。
食堂で配られていたのは、豆が数粒浮かんだ薄いスープだけだった。
「これが今日の食事ですか」
ノアが鍋の中を覗き込む。
「ああ」
配給係の老兵が、申し訳なさそうに答えた。
「子供と病人を優先している。俺たち兵士は、夜に黒パンを半分だ」
「栄養が不足しています」
「分かっているさ」
「この状態では、二週間以内に複数名が死亡します」
「分かってると言ってるだろ!」
老兵が声を荒らげる。
ノアは動じなかった。
ただ、鍋を見つめている。
「不足している食料は、外部から奪うべきです」
「誰からだ」
「周辺の帝国軍施設を襲撃します」
「おい」
「死者を出さずに物資だけ奪えば、マスターの命令には違反しません」
間違ってはいない。
間違ってはいないのだが、日に日に応用力だけが伸びている気がする。
「それは最後の手段だ。まずは、今夜を生き延びる」
「承知しました」
そのとき、小さな手がノアの服を引いた。
七歳ほどの少女だった。
痩せた頬に煤がつき、栗色の髪は不揃いに切られている。
ノアが少女を見下ろす。
「何でしょう」
「お姉ちゃん、魔法使いなの?」
広間の空気が凍りついた。
ノアの正体を知る兵士たちが、一斉にこちらを見る。
「そうです」
「ノア」
「事実を回答しました」
嘘を教えるべきだったか。
いや、自由に生きろと言った相手へ、最初に嘘のつき方を教えるのも何か違う。
少女は怯えるどころか、瞳を輝かせた。
「じゃあ、お菓子を出せる?」
「不可能です」
「お花は?」
「条件によります」
「お日様は?」
「恒星の生成は、周辺地域へ壊滅的な被害を与えます」
「ノア。子供の夢を滅ぼすな」
「偽りを回答するべきでしたか?」
「せめて言い方を考えろ」
少女は会話の意味を理解していないらしく、楽しそうに笑った。
その手には、萎れかけた黄色い花が握られている。
昨日、町でもらったものと同じ種類だ。
「これ、あげる」
「なぜでしょう」
「お姉ちゃん、きれいだから」
ノアが動きを止めた。
少女から花を受け取る。
青灰色の瞳が、小さな花と少女の顔を交互に見る。
「私への対価として、何を要求しますか」
「たいか?」
「私に何をしてほしいのでしょう」
「何もいらないよ」
「理解できません」
「お友達になって」
ノアは答えなかった。
答え方が分からないのだろう。
少女は気にした様子もなく、母親の元へ走っていく。
ノアは手の中の花を見つめたまま、静かに尋ねた。
「マスター」
「何だ」
「友人とは、どのような任務でしょうか」
「任務じゃない。一緒にいたいと思う相手のことだ」
「マスターと同じですか」
「……少し違うと思う」
「では、リーゼ大尉と同じでしょうか」
「ノア様。私もその分類について詳しく伺いたいのですが」
「話をややこしくするな」
ノアはもう一度、少女の背中を見る。
「私は、あの子に危害を加えたくありません」
「そうか」
「これが友人でしょうか」
「最初としては、十分じゃないか」
「では、暫定的に友人と認定します」
随分と軍事的な友情だ。
それでも、昨日までのノアなら、見知らぬ子供を守ろうとは考えなかった。
変化は小さい。
だが、確かに前へ進んでいる。
「マスター」
「今度は何だ」
「友人を守るためであれば、敵を消してもよいですか」
「前言撤回。教育はまだ必要だな」
◇
日没の二時間前。
要塞の北方監視所から、報告が届いた。
「北東十五キロに大規模部隊を確認! 共和国軍の識別旗を掲げています!」
司令室に緊張が走る。
オスカーが机に広げられた地図へ手をついた。
「兵力は」
「歩兵約二千! 戦車二十! 牽引式重砲十二! 日没後には射程圏内へ入ります!」
俺が告げた数字と一致している。
オスカーはしばらく俯き、やがて俺を睨んだ。
「貴様の言ったとおりになったな」
「嬉しくはないがな」
「敵が帝国軍だという証拠は」
「進軍速度だ。共和国製の戦車なら、このぬかるみをあの速度では走れない。それに、重砲を牽引している蒸気車の排気間隔が帝国製と同じだ」
リーゼが偵察写真を机へ並べる。
「こちらの車両には、識別旗の下に帝国軍の部隊番号が残っています。偽装する時間が足りなかったのでしょう」
「本当に、帝国が俺たちを……」
若い兵士が呟く。
「大佐、カイルを差し出しましょう」
別の兵士が口を開いた。
「第零号兵器もです。帝国が欲しいのは、こいつらのはずだ。身柄を渡せば、我々は助かるかもしれない」
「馬鹿を言うな!」
「では、八百人で二千人と戦うのか! こちらの重砲は一門も動かない! 戦車も三両しか残っていないんだぞ!」
「この男を信じられるのですか!」
兵士たちの声が重なる。
責める気にはなれない。
彼らは半年も見捨てられ、今日まで飢えに耐えてきた。
差し出す人間が三人で済むなら、そう考えるのも当然だ。
ノアが俺の袖をつかむ。
「マスター」
「駄目だ」
「まだ何も言っていません」
「殺してもいいか、と聞くつもりだろ」
「違います」
ノアは兵士たちではなく、窓の外を見ていた。
中庭では、先ほどの少女が幼い弟を抱きしめている。
「敵部隊を消滅させれば、あの子を守れます」
「そうだな」
「命令してください」
「断る」
「なぜでしょう」
「攻めてくる兵士も、命令されて来ただけだ」
「彼らは友人ではありません」
「だから殺していいとはならない」
「理解できません」
「理解しなくていい。今は覚えておけ」
俺は地図の上へ、三つの駒を置いた。
「全員、生かして帰す」
司令室が静まり返った。
オスカーが低い声で尋ねる。
「八百人で、二千人を退けると?」
「こちらの戦力は二十七人だ」
「何?」
「お前たちには、戦ってもらわない」
「我々の要塞だぞ!」
「だからこそだ。ここにいる兵士が一発でも撃てば、帝国は反乱軍を鎮圧したという筋書きを完成させられる」
「では、どうする」
「グラウエン要塞に戦ってもらう」
俺は地図の地下部分を指で叩いた。
この要塞は、原作ゲームで中盤以降に獲得できる拠点の一つだった。
プレイヤーが修復すれば、帝国西部最大の防衛拠点になる。
その機能は、地上に並ぶ砲塔だけではない。
「旧式の自動迎撃装置が地下に残っている」
「馬鹿な。あれは二十年前に廃棄された」
「廃棄されたのは制御装置だけだ。砲塔と蒸気管は残っている」
「どうして知っている」
「昔、設計図を見た」
正確には、ゲームの攻略本で見た。
「だとしても、二時間で修理できるものではないぞ」
「普通ならな」
俺は窓の外に停めた装甲列車を指さした。
「グラウエンを目的地に決めた時点で、交換用の弁と制御装置は積ませてある。第十三作戦室の連中にも、車内で設計図を叩き込んだ」
「最初から、ここが襲われると知っていたのか」
「襲撃の日時までは知らなかった。だが、帝国が証拠ごとお前たちを消したがっていることは予想できた」
「もし襲撃がなければ、積んできた部品は無駄になっていたぞ」
「要塞の修理に使えばいい。どちらに転んでも無駄にはならん」
オスカーが呆れたように俺を見る。
「貴様は何の準備もせず、死んだ要塞を訪ねる男ではなかったな」
「ようやく思い出したか」
俺は地図へ視線を戻す。
「リーゼ。第十三作戦室を三班に分けろ。一班は地下機関部を再起動。二班は西側砲塔の照準を調整。三班は通信塔を使える状態へ戻せ」
「承知しました」
「オスカー。食用油と石炭、それから不要な毛布を集めろ」
「何に使う」
「朝食を作る」
「日没だぞ」
「では、夕食だ」
「冗談を言っている場合か!」
「誰が冗談だと言った」
俺は地図上に並べた駒を、一つずつ倒した。
「二千人へ、腹いっぱい偽情報を食わせる」
◇
日没。
帝国軍の重砲十二門が、グラウエン要塞へ砲口を向けた。
兵士たちは共和国軍の軍服を着ている。
だが、その動きは紛れもなく帝国式だった。
指揮車両の横で、一人の将校が懐中時計を確認する。
「砲撃開始まで、残り三分」
その声を、俺たちは地下通信室で盗み聞いていた。
「連中、帝国軍の暗号通信をそのまま使っております」
通信機を操作するリーゼが呆れたように言う。
「偽装する気はあるのか?」
「生存者を残す予定がないのでしょう」
「合理的だな」
「閣下が褒めると、不穏に聞こえます」
俺は通信卓の横に立ち、時刻を確認した。
「地下機関部は」
『第一班より司令室。蒸気圧、規定値の六割まで上昇!』
「十分だ。西側砲塔」
『照準調整完了! ただし砲弾は入っておりません!』
「必要ない」
『本当に撃たなくてよいのですか?』
「撃つな。砲口だけ向けろ」
通信を切る。
ノアが隣で、じっと俺を見つめていた。
「マスター」
「何だ」
「私の役割がありません」
「ある」
「敵の消滅でしょうか」
「違う」
「戦車の破壊」
「違う」
「指揮官だけを消します」
「選択肢を小さくすればいいわけじゃない」
俺は要塞正門を示す監視計を指さした。
「正門を守れ」
「あの門は、砲撃に耐えられません」
「だから、お前が支える」
「私が?」
「今日は壊すな。守れ」
ノアが瞬きをする。
「守る」
「ああ。お前にしかできない」
ほんの僅かに、その瞳が揺れた。
「承知しました」
ノアは踵を返し、通信室から駆け出した。
以前の彼女なら、敵を消す方が合理的だと繰り返しただろう。
今も納得はしていないはずだ。
それでも、俺の命令だけではなく、自分が友人と認定した少女を守るために走っている。
「砲撃開始まで、一分!」
敵軍の通信が響く。
「リーゼ」
「準備完了しております」
「始めろ」
要塞の地下で、無数の弁が開いた。
古びた蒸気管が震える。
兵士たちが水に浸した毛布で不要な排気口を塞ぎ、前方の弁だけを開放する。
外壁に設置された排気口から、大量の白煙が噴き出した。
食用油を混ぜた煙は重く、要塞前方の低地を一気に覆っていく。
同時に、死んでいたはずの西側砲塔が動き始めた。
一門。
二門。
三門。
錆びついた巨大砲が、白煙の向こうで帝国軍を捉える。
『敵要塞に動きあり!』
『砲塔が旋回しています!』
『馬鹿な、グラウエンの砲はすべて使用不能のはずだ!』
敵部隊に動揺が広がる。
実際には砲弾など一発も入っていない。
だが、暗闇と煙の中から巨大な砲口を向けられれば、確かめる余裕などない。
「偽命令を送れ」
「送信します」
リーゼが電鍵を叩いた。
帝国西部軍司令部の暗号形式を使った緊急命令。
――作戦中止。
――グラウエン要塞への攻撃計画が帝国議会に漏洩。
――軍需物資横流しに関与した全部隊は、直ちに原隊へ帰還せよ。
もちろん、偽物だ。
だが、敵部隊の将校たちは、自分たちが何を隠すために派遣されたのか知っている。
人は未知の嘘より、自分が恐れている嘘を信じる。
『司令部へ確認しろ!』
『通信がつながりません!』
「つながるわけがない」
敵軍の通信周波数には、第十三作戦室が妨害電波を流している。
そして、仕上げだ。
「公開回線へ切り替えろ」
「はい」
要塞上部の拡声器が起動する。
俺は送話器を手に取った。
『帝国西部軍第八砲兵連隊へ告ぐ』
敵軍の動きが止まる。
『諸君らの所属、氏名、現在位置はすべて記録した。また、グラウエン要塞襲撃に関する命令書と、西部軍兵站局による横領の証拠は帝国議会、軍法会議、帝都新聞社へ送付済みだ』
半分は本当だ。
証拠はある。
ただし、どこにも送っていない。
俺たちは指名手配中であり、帝都の新聞社へ手紙を出せる状況ではない。
『これより砲撃を開始した場合、諸君らも横領事件の共犯者として告発する』
俺は一度、言葉を切った。
『なお、撤退する者を追撃する意思はない。諸君らも、腐った上官の懐を守るために死ぬ必要はないだろう』
白煙の向こうで、敵部隊の陣形が崩れ始める。
『騙されるな!』
敵指揮官の怒声が通信へ割り込んだ。
『相手は国家反逆者だ! 砲撃を開始しろ!』
それでも、砲兵たちは動かなかった。
自分たちの砲口が、共和国ではなく帝国領へ向いている。
命令書には共和国軍への偽装が記されている。
ここで撃てば、もう知らなかったとは言えない。
『撃て! これは命令だ!』
一門の重砲が火を噴いた。
轟音。
砲弾が白煙を切り裂き、要塞正門へ飛来する。
鋼鉄の門が大きく歪んだ。
続けて二発目、三発目。
固定具が弾け、巨大な門が内側へ倒れ始める。
その向こうには、避難が遅れた難民たちがいた。
「お母さん!」
昼間の少女が叫ぶ。
数十トンの鋼鉄が、親子の頭上へ落ちる。
しかし。
「止まって」
静かな声が響いた。
門が空中で静止する。
その下に、青い服を着た銀髪の少女が立っていた。
両腕を上げ、巨大な鋼鉄の門へ直接触れている。
ノアなら、離れた場所からでも門を止められる。
だが、広範囲へ力を及ぼせば、周囲の人間や建物まで巻き込む危険がある。
封印を解除せず、倒れかけた門だけを確実に固定するには、対象へ触れて力の範囲を限定する必要があった。
細い足が石床へ沈む。
白い頬を汗が伝う。
それでも、ノアは退かなかった。
「お姉ちゃん……?」
少女の声を聞き、ノアが振り返る。
「避難してください」
「でも、お姉ちゃんが」
「問題ありません」
ノアの腕が僅かに震える。
神の心臓を持つ彼女でも、封印を解除せずにこれほど巨大な物体を止め続けるのは負担になる。
それでも、門を消そうとはしなかった。
誰も傷つけず、ただ支えている。
「私は、あなたを守っています」
少女は母親に抱かれながら、何度も頷いた。
「ありがとう、魔法使いのお姉ちゃん!」
ノアの瞳が、僅かに大きくなる。
やがて難民全員が退避したあと、彼女は倒れかけた門をゆっくりと元の位置へ戻した。
そのころには、帝国軍の砲撃は止まっていた。
命令を無視した一門以外、誰も撃たなかったのだ。
そして十分後。
帝国西部軍第八砲兵連隊は、グラウエン要塞から撤退を開始した。
死者、ゼロ。
負傷者、ゼロ。
消滅した国家、ゼロ。
ノアの教育としては、十分な戦果だった。
◇
夜明け。
オスカーとともに、崩れた城壁の上へ立つ。
撤退した帝国軍の姿は、もう見えない。
「なぜ、追撃しなかった」
オスカーが尋ねる。
「必要がないからだ」
「奴らは、また来るぞ」
「次は来られない。今回の作戦に参加した二千人全員が、自分たちの口を塞がれる可能性に気づいた。西部軍上層部は、まず味方の兵士を黙らせる必要がある」
「どこまで計算していた」
「食料がないこと以外は、大体」
「一番重要な問題を残したな」
「俺もそう思う」
背後では、リーゼが要塞内の在庫表を確認している。
彼女の顔が、紙を見るたびに険しくなっていた。
できれば、しばらくこちらへ来ないでほしい。
「カイル」
オスカーが俺の名を呼ぶ。
手には、古びた鋼鉄の鍵が握られている。
「俺たちを何に使うつもりだ」
「使わない」
「何?」
「お前たちは道具じゃない。残るか、出ていくか、自分で決めろ」
「では、なぜ救った」
「家を守るのに理由がいるか?」
オスカーが黙り込む。
俺は城壁の下を見渡した。
壊れた兵舎。
錆びた砲塔。
痩せた兵士たち。
身を寄せ合う難民。
帝国から捨てられ、地図から消され、死ぬことを待たされていた人々。
俺やノアと同じだ。
「俺は、この要塞を帝国にも共和国にも属さない場所にする」
「独立するというのか」
「国と呼べるほど立派なものじゃない」
「では、何だ」
「逃げ場所だ」
処刑される者。
兵器として使われる者。
命令に逆らった者。
国から見捨てられた者。
「どこにも居場所のない人間が、生きることを許される場所を作る」
「帝国が認めると思うか」
「認めさせる」
「共和国も敵に回すぞ」
「最初から両方に嫌われてる。今さら一つや二つ増えても変わらん」
オスカーが俺を見る。
その目には、まだ迷いが残っていた。
それでも最後には、手にしていた鍵を俺へ差し出した。
「グラウエン要塞の全権限を、貴様に預ける」
「いいのか?」
「勘違いするな。俺たちは貴様の部下ではない」
「分かってる」
「命令が気に入らなければ従わん」
「好きにしろ」
「無茶な作戦を立てたら殴る」
「それは困る」
「貴様は昔から、自分を戦力の数に入れんからな」
アークと同じことを言われた。
どうやら俺の周囲には、余計なところばかり似た軍人が集まるらしい。
「ただし」
オスカーが要塞を振り返る。
「ここにいる八百人を救えるというのなら、俺の命くらいは好きに使え」
「断る」
「なぜだ」
「今、人間を道具として使わないと言ったばかりだ」
「面倒な男だな」
「よく言われる」
鍵を受け取る。
冷たく、重い鍵だった。
こうして俺たちは、最初の拠点を手に入れた。
領土と呼ぶには狭すぎる。
軍隊と呼べる兵力もない。
食料も、石炭も、金もない。
だが、守るべき人間だけは八百人もいる。
前世の会社員時代を思い出す。
責任ばかり増えて給料は上がらない。
俺の人生は、世界が変わっても大して変わらないらしい。
「マスター」
振り返ると、ノアが立っていた。
手には、黄色い花を持っている。
「どうした」
「この場所は、私たちの家になったのでしょうか」
「一応はな」
「私も、ここで暮らしてよいですか」
「嫌になるまでは、好きにいろ」
「では、長期間を希望します」
「どのくらいだ」
ノアは少し考える。
それから、俺の軍服の裾をつかんだ。
「まだ決められません」
「そうか」
「ですが、明日もここにいたいです」
「好きにしろ」
「はい」
無表情な顔は変わらない。
けれど、裾をつかむ指からは、もう以前のような怯えを感じなかった。
「ノア様!」
下から少女の声がする。
「一緒に朝ご飯を食べよう!」
ノアが少女と俺を交互に見る。
「行ってこい」
「命令でしょうか」
「違う」
「では、私の意思で行きます」
ノアは俺の裾から手を離し、少女のもとへ歩いていった。
昨日までは、どこへ行くにも俺から離れなかった少女だ。
ほんの数メートル。
それでも、ノアが自分で選んで踏み出した一歩だった。
「閣下」
代わりに、恐ろしく冷たい声が背後から聞こえた。
振り向くと、リーゼが大量の書類を抱えている。
「食料は六日分です」
「昨日は一週間と言ってなかったか?」
「新たに二十七名増えましたので」
「なるほど」
「石炭は四日分。医薬品はほぼ皆無。地下水道の修理、兵舎の補強、線路の復旧にも人員と資金が必要です」
「なるほど」
「何か解決策はございますか」
「今考えてる」
「帝国最高の軍師ともあろう方が、随分と頼りない回答ですね」
「軍事作戦なら、敵の補給線を切れば終わるんだが」
「今回は、我々が補給される側です」
「国造りって、まず飯からなんだな……」
「国を造るおつもりだったのですか?」
リーゼの眼鏡が朝日を反射した。
「比喩だ」
「今、記録しました」
「消せ」
「写しを三部作成します」
「まだ書いてないだろ」
眼下では、八百人分の朝食を作る煙が上がっている。
薄い豆のスープと、硬い黒パン。
帝国最強の軍師が手に入れた最初の領土としては、随分と貧しい。
それでも、子供たちの笑い声が聞こえた。
ノアが少女から黒パンを受け取り、戸惑いながら同じ卓へ座る。
自分のために用意された食事を、誰かに命じられることなく口へ運ぶ。
それだけの光景を守るためなら、この壊れた要塞から始めるのも悪くない。
帝国にも、共和国にも居場所がないというのなら。
自分たちで作ればいい。
誰にも命令されず。
誰も兵器として扱われず。
明日も生きたいと願える場所を。
こうして、地図から消えたグラウエン要塞は蘇った。
後世において、帝国史上最大の反乱拠点と呼ばれる場所。
世界の秩序を根底から覆す、第三勢力の始まり。
もっとも、この日の俺たちにとって最大の問題は――。
「閣下。朝食はありません」
「なぜだ」
「八百人へ配り終えたところで、鍋が空になりました」
「俺の分は?」
「ございません」
「新しい国の指導者に対する扱いがひどくないか?」




