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第三話 最強兵器は、普通の女の子になりたい

 帝国全土から命を狙われる国家反逆者にも、休息は必要だ。


 そのため俺たちは、帝都から西へ百八十キロ離れた廃鉱へ装甲列車を隠した。


 第十三作戦室の部下たちには、列車の修理と黒い認識票の調査を任せる。


 俺たちを狙った正体不明の狙撃手。


 そいつが持っていた《十三》の認識票は気になる。


 だが、今すぐ答えが出る問題ではない。


 俺が優先すべきことは、昨夜からまともに眠っていない身体を休めること。


 そして――。


「ノア。俺たちは今から、町へ入る」


「制圧しますか?」


「買い物だ」


「物資調達作戦ですね」


「だいたい合っているが、作戦ではない」


 装甲列車を離れた俺たちは、徒歩で辺境の町へ向かっていた。


 ノアは相変わらず白い軍服姿だ。


 首輪は外れているが、白い服と銀色の長髪はあまりにも目立つ。遠目にも、軍の重要人物だと分かるだろう。


 一方のリーゼも、皺一つない帝国軍服を着ている。


 腰には自動拳銃と軍刀。


 俺も軍服姿なので、どう見ても脱走兵の集団だ。


「まず着替えが必要ですね」


 リーゼが歩きながら言った。


「軍服のまま町へ入れば、三十分以内に通報されます」


「なら、どうする」


「町外れの農家から洗濯物を盗みます」


「それは犯罪だぞ」


「国家反逆者が何を今さら」


「それとこれとは別だ。民間人からは盗まない」


「では、買い取ります。幸い、軍資金は用意してあります」


「さすが副官だな」


「元副官です」


「昨日は少将閣下と呼んでいただろ」


「あなたに仕えているのではありません。監視しているのです」


「都合よく立場を変えるな」


 リーゼが無視して歩みを速める。


 ノアは俺の三歩後ろを歩いていた。


 首輪が外れても、この距離は変わらない。


 軍施設にいた頃、ノアは常に俺の三歩後ろに控えていた。


 護衛対象の視界を妨げず、襲撃があれば即座に割って入れる距離なのだという。


「ノア」


「はい」


「隣を歩け」


「背後からの襲撃に対処できません」


「ここに敵はいない」


「確認できていない敵が存在する可能性があります」


「俺は隣を歩いてほしい」


 ノアが足を止めた。


「命令ですか?」


「いや。俺の希望だ」


「希望」


 ノアはその言葉を反芻し、少しだけ歩調を速めた。


 それでも隣ではなく、一歩後ろ。


 これが今のノアにできる精一杯らしい。


 やがて小麦畑の中に、一軒の農家が見えてきた。


 リーゼが家主と交渉し、金貨一枚で三人分の古着を譲ってもらう。


 納屋を借りて着替えた結果、俺は焦げ茶色の上着に白いシャツ、使い古された革靴という、どこにでもいる旅商人の姿になった。


 リーゼは紺色のワンピースに肩掛け。


 軍服を脱いでも背筋が伸びきっているため、裕福な商家の令嬢にしか見えない。


 問題はノアだった。


 譲ってもらった灰色のワンピースは丈が合わず、袖も擦り切れている。


 軍服よりは目立たないが、病的に白い肌と銀髪までは隠せない。


「髪を染めますか?」


 リーゼがノアの髪へ触れる。


「駄目だ」


「なぜです?」


「綺麗だから勿体ない」


 答えた瞬間、二人が俺を見た。


「何だ」


「いいえ」


 リーゼが何とも言えない顔をする。


 ノアは自分の髪を一房つまんだ。


「マスターは、私の髪を好ましく感じますか?」


「ああ」


「承知しました。では、変更を拒否します」


「今、自分で拒否したな」


「はい」


「上出来だ」


 ノアの頭へ手を伸ばしかける。


 すると、ノアの方から僅かに頭を寄せてきた。


 撫でろということだろうか。


 軽く銀髪へ触れる。


 ノアは相変わらず無表情だったが、俺との距離は一歩から半歩へ縮まった。


「お二人とも、そろそろよろしいですか?」


 リーゼが冷たい声で言った。


「何を怒っている」


「怒っていません。町へ入るための設定を説明します」


「設定?」


「我々は、戦争によって財産を失った行商人の一家です。カイル様は兄、ノアは妹。そして私は――」


 リーゼが一瞬だけ言葉を止める。


「あなたの妻です」


「そうか」


「……反応が薄くありませんか?」


「偽装だろ」


「もちろんです。何を期待しているのですか」


「何も言ってないだろ」


 ノアがリーゼを見る。


「リーゼ大尉は、マスターの妻になるのですか?」


「町へ滞在する間だけです」


「妻とは、どのような役割ですか?」


「生活を共にし、家事や生計を分担する相手です」


「私は三年間、マスターの生活を補助しました」


「正式な手続きを経て成立する関係です」


「手続きが必要なのですか?」


「必要です」


「どこで行えますか?」


「なぜ聞くのです!」


 リーゼの声が裏返った。


 ノアは真剣だ。


「私も妻になれば、マスターと同じ寝台で護衛できますか?」


「できません!」


「なぜリーゼ大尉には可能なのですか?」


「可能とは言っていません!」


「ちなみに部屋は別に取るぞ」


 俺が口を挟む。


 リーゼが勢いよく振り向いた。


「当然です!」


「なら、そんなに怒るな」


「怒っていません!」


「声が大きいです、奥様」


「あなたは黙ってください、旦那様!」


 近くにいた農家の老人が、微笑ましそうに俺たちを見ていた。


 偽装する前から夫婦喧嘩に見えているらしい。


 複雑な気分だった。


◇


 辺境の町《ベルン》は、人口二千人ほどの小さな町だった。


 石畳の中央通りを挟み、赤い屋根の家々が並んでいる。


 帝都のように空を覆う煤煙はない。


 軍用車両も歩哨も見当たらず、荷車を引く馬と、買い物籠を持った住民が道を行き交っている。


 パン屋から甘い匂いが漂い、広場では子供たちが走り回っていた。


 戦争中とは思えない、穏やかな町だ。


「敵兵、十一名を確認しました」


 ノアが囁く。


「どこにいる」


「あちらです」


 ノアが広場を指す。


 木の枝を剣に見立てて遊ぶ子供たちがいた。


「共和国兵を模した装備を持っています」


「あれは遊びだ」


「敵兵ではないのですか?」


「違う」


「では、排除は不要ですか?」


「当然だ」


 ノアは子供たちを見つめる。


 一人が木の枝を振り回し、「帝国を守れ!」と叫んでいた。


「マスター」


「何だ」


「あれに意味はありますか?」


「楽しいんだろ」


「戦闘が、ですか?」


「本当に殺し合うわけじゃない。自分が英雄になったつもりで遊んでいるんだ」


「理解できません」


「無理に理解しなくていい。そのうち分かる」


「私も実行する必要がありますか?」


「お前がやったら遊びにならない」


 町の掲示板には、俺たちの手配書はまだ貼られていなかった。


 帝都から遠く離れた辺境だ。情報が届くまで、もう少しかかるらしい。


「最初に洋服店へ向かいます」


 リーゼが言う。


「宿を確保するのが先では?」


「ノアをその格好で歩かせ続けるのですか?」


「それもそうだな」


「あと、カイル様の服も選び直します」


「これは目立たなくていいだろ」


「サイズが合っていません。袖が短すぎます」


「着られれば何でもいい」


「私の夫役が、みすぼらしい格好をしていると困ります」


「設定に入り込んでるな」


「黙ってついてきてください」


 連れていかれた洋服店は、町の規模にしては大きかった。


 店の奥にいた中年の女性が俺たちを迎える。


「あら、旅の方? 可愛らしい妹さんねえ」


 ノアが俺を見る。


「私を指していますか?」


「他にいないだろ」


「可愛いという評価を受けました」


「そうだな」


「正確ですか?」


「正確だ」


 ノアが店主へ向き直る。


「評価に相違はありません」


「ノア。それは自分で言うことじゃない」


「マスターが正確だと判断しました」


 店主が愉快そうに笑った。


「仲のいい兄妹だこと」


「仲がよい」


 ノアが小さく呟く。


 その言葉を確かめるように。


 リーゼが数着の服を選び、ノアを試着室へ押し込んだ。


 最初に着たのは、白いブラウスと紺色のスカート。


 軍服に近い色合いのためか、ノアも抵抗なく着ている。


「悪くありませんね」


「そうだな」


「機動性に問題はありません」


 次は黒いクラシカルドレス。


 銀髪と白い肌によく映え、いかにも人形めいた印象になる。


「似合っています」


 リーゼが満足そうに頷く。


「戦闘時に裾が干渉します」


「戦闘する前提で選ばないでください」


 三着目は、胸元に大きなリボンのついた桃色の服だった。


 ノアが試着室から出てくる。


「……子供っぽいな」


「似合っていますよ」


「マスターの評価が低下しました」


「顔色を読むな」


「では、着替えます」


 ノアがすぐに試着室へ戻る。


「せっかく可愛かったのに」


 リーゼが残念そうに言う。


「あいつが気に入ることが一番だろ」


「自分で好みを決められないから、私たちが手伝っているのです」


「そうだったな」


 最後にノアが着てきたのは、淡い水色のワンピースだった。


 飾りの少ない、素朴な服だ。


 細い腰の位置で白いリボンを結び、膝下まである裾が歩くたびに揺れる。


 それまでの服と違い、兵器にも人形にも見えない。


 普通の、十七歳の少女だった。


「マスター」


「何だ」


「評価を」


「……似合ってる」


「先ほどより回答が遅れました」


「見てたからな」


「三秒長く、私を見ていました」


「数えていたのか」


「はい。これにします」


 ノアが即答した。


「俺の好みじゃなく、お前の好みで選べ」


「マスターに好まれることは、私の好みには含まれませんか?」


 答えに詰まる。


 リーゼが眼鏡の位置を直し、さりげなくこちらから顔を逸らした。


 耳が赤い。


「それは……含まれるかもしれないが」


「ならば、私はこれを選びます」


「本当にいいのか?」


 ノアは自分のスカートをつまむ。


 水色の布が、小さく広がった。


「はい」


「なぜだ?」


「マスターが好んだからです」


「それ以外でだ」


 ノアはしばらく考える。


 鏡に映る自分を見る。


 銀髪と水色のワンピース。


 胸元へ手を当て、布の感触を確かめる。


「この色は、静かです」


「静か?」


「はい。空を見ているときと似ています」


 ノアが鏡を見たまま答えた。


「私は、この色を好ましく感じます」


「そうか」


 今度は自然に、その頭へ手を置いた。


「なら、それにしよう」


「はい」


 ノアの口元が僅かに動いた。


 笑ったように見えた。


 気のせいかもしれない。


 それでも構わなかった。


◇


 服を買ったあとは、町の食堂へ入った。


 昼時を少し過ぎていたため、客はまばらだ。


 窓際の席へ座り、俺は牛肉のシチューと焼きたてのパンを三人分注文した。


 料理が運ばれてくる。


 ノアが真っ先に、俺の皿へ手を伸ばした。


「待て」


「毒見します」


「同じ料理を頼んだだろ」


「マスターの皿だけに毒物が混入している可能性があります」


「俺たちは行商人一家という設定だ。誰も俺の正体を知らない」


「設定が失敗している可能性があります」


「私が確認しましょう」


 リーゼも俺の皿へ手を伸ばす。


 ノアがその手首をつかんだ。


「リーゼ大尉も、敵性対象である可能性があります」


「まだ警戒しているのですか?」


「マスターを攻撃した記録は消去されていません」


「あれは教育的指導です」


「身体的損傷を伴う指導を、攻撃と定義します」


「正論だな」


「あなたはどちらの味方なのですか?」


「俺のシチューを返してくれる方」


 ノアは俺のシチューを一口食べた。


 しばらく咀嚼し、頷く。


「毒物は検出されません」


「当たり前だ」


「味も良好です」


「なら、自分の分を食べろ」


 皿を取り戻す。


 ノアは自分の前に置かれたシチューを見た。


 スプーンですくい、慎重に口へ運ぶ。


「どうだ?」


「温かいです」


「味は?」


「先ほどと同じです」


「そうじゃなくて、好きか嫌いかだ」


 ノアがもう一口食べる。


「好きだと思います」


「思います?」


「キャラメルを摂取したときほど、強い再摂取欲求はありません」


「比較対象がキャラメルしかないのか」


「好きにも強度があるのですね」


「まあ、そうだな」


「では、これは中程度に好きです」


「そうか」


 ノアは黙々と食べ始める。


 表情は変わらないが、スプーンを運ぶ速度が少しだけ速くなっていた。


 嘘ではないらしい。


「ところでリーゼ」


「何でしょう」


「なぜ俺より、お前の皿の方が肉が多い」


「日頃の行いでは?」


「店主がそんなところまで知るはずないだろ」


「気のせいです」


「俺の皿から取ったな」


「証拠はありますか?」


「ノア」


「はい。リーゼ大尉が、マスターの注意が私へ向いている間に肉を二つ移動させました」


「なぜ報告するのですか!」


「マスターに味方すると、シチューが返却されると学習しました」


「妙なところで成長が早いな」


 リーゼから肉を一つ取り返す。


 国家を裏切った翌日に、シチューの肉を奪い合うことになるとは思わなかった。


 不思議なものだ。


 昨日までの俺は、帝国軍の少将だった。


 一言命じれば数万人の兵が動き、食事は黙っていても運ばれてきた。


 今は無職で、国中から命を狙われ、元副官から肉を盗まれている。


 それでも、肩の荷が下りた気がする。


 食事を終え、立ち上がろうとしたときだった。


 ノアが一点を見つめている。


 店の入口付近にある、小さな菓子の陳列棚。


 硝子の器に、キャラメルソースのかかったプリンが並んでいた。


「食べたいのか?」


「要求していません」


「食べたくないのか?」


「否定する根拠もありません」


「回りくどいな」


 店員を呼び、プリンを三つ注文する。


「マスター」


「何だ」


「私は要求していません」


「でも食べたいんだろ」


 ノアは陳列棚を見る。


 それから俺へ視線を戻した。


「……はい」


「なら次から、自分で言え」


「言えば、与えられますか?」


「可能な範囲ならな」


「不可能な場合は?」


「相談する」


「命令違反として処罰されませんか?」


「されない」


「廃棄されることも?」


「ない」


 ノアは黙り込んだ。


 やがて運ばれてきたプリンを見つめ、小さなスプーンを入れる。


 一口食べる。


 青灰色の瞳が、僅かに開いた。


「どうだ?」


「異常が発生しました」


「またか」


「キャラメルと同等の再摂取欲求を確認しました」


「つまり?」


「非常に好きです」


「そうか」


 ノアは二口目を食べようとして、手を止めた。


「マスター」


「何だ」


「次も、ありますか?」


 何を聞いているのか、一瞬分からなかった。


「次?」


「次に、食べたいと言える機会です」


 ノアの声は平坦だった。


 けれど、スプーンを持つ指が僅かに強張っている。


 彼女にとって「次」は、約束されているものではない。


 いつ戦場へ送られ、いつ壊れ、いつ廃棄されるか分からない人生だった。


「当然だ」


「いつでしょうか」


「明日でも明後日でもいい。食べたくなったら言え」


「明日」


「ああ」


「明日も、私は食事をしてよいのですか?」


「これから毎日だ」


 ノアの指から力が抜ける。


「承知しました」


 プリンを一口食べる。


「では、明日も要求します」


「毎日は金がかかるな」


「要求を撤回します」


「冗談だ。好きなだけ食え」


「マスター」


「何だ」


「冗談の判定が困難です」


「それは悪かった」


「今後は、発言前に冗談と宣言してください」


「そこまでして冗談を言いたくないな」


 向かいで、リーゼが自分のプリンを無言で食べている。


 先ほどまでの厳格な表情は消え、目元が明らかに緩んでいた。


「リーゼ」


「何でしょう」


「随分と幸せそうだな」


「通常の表情です」


「眼鏡が曇ってるぞ」


「湯気のせいです」


「プリンから湯気は出ないだろ」


 リーゼが無言でスプーンを置いた。


「カイル様」


「なんだ」


「私のプリンを半分差し上げますので、黙っていてください」


「口止め料が安いな」


「では差し上げません」


「冗談だ」


「発言前に申告してください」


「ノアの教育が早速悪い方向へ作用してるぞ」


◇


 食堂を出ると、広場は夕暮れに染まり始めていた。


 宿を探して歩いていると、一人の少女がノアの前で立ち止まった。


 年齢は五歳くらいだろう。


 栗色の髪を二つに結び、手には白い花を持っている。


 少女はノアの銀髪を見上げた。


「お姉ちゃん、髪きれい」


 ノアが俺を見る。


「可愛いに続き、二度目の肯定的評価です」


「いちいち報告しなくていい」


「正確ですか?」


「正確だ」


 少女が白い花を差し出した。


「これ、あげる」


 ノアは動かない。


「受領していいぞ」


「はい」


 花を受け取る。


 ノアはしばらくそれを眺め、懐から帝国金貨を取り出した。


「対価です」


「ノア!」


 慌ててその手を止める。


「なぜですか?」


「花一輪に金貨を払う奴がいるか」


「対価が過剰ですか?」


「そもそも、あの子は対価を求めていない」


「理解できません」


 少女が首を傾げる。


「お金、いらないよ」


「では、なぜ私にこれを?」


「お姉ちゃんがきれいだから!」


 少女はそれだけ言って笑った。


 ノアが黙り込む。


 戦場でどれほど多くの敵に囲まれても動じなかった少女が、花一輪を渡されただけで困り果てている。


「こういうときは、ありがとうと言うのです」


 リーゼが静かに教えた。


「ありがとう」


 ノアが少女へ告げる。


「うん!」


 少女は満足したように頷き、広場の向こうへ走っていった。


 ノアは白い花を見つめている。


「捨てるか?」


「いいえ」


 即答だった。


「保存します」


「花は枯れるぞ」


「止めれば、現在の状態を維持できます」


「花一輪に魔法を使うな」


「では、どうすればよいですか?」


「枯れるまで、大切にすればいい」


「失われると分かっていても?」


「失うから、大切にするんだろ」


 ノアには理解できないかもしれない。


 俺自身、うまく説明できた気もしない。


 それでもノアは、花をワンピースの胸元へ差した。


 水色の布に、白い花がよく映えた。


「どうですか?」


「似合ってる」


「ありがとうございます」


 今日二度目の礼。


 一度目より、ほんの少しだけ自然だった。


◇


 宿屋には二部屋しか空きがなかった。


 俺が一人部屋。


 リーゼとノアが二人部屋。


 偽装上は夫婦なのに、俺とリーゼが別室なのは不自然かもしれないが、同室にすれば別の問題が発生する。


 部屋へ入った俺は、久しぶりに身体を寝台へ投げ出した。


 柔らかい。


 帝国軍の宿舎より、よほど寝心地がいい。


 瞼を閉じる。


 狙撃手、《十三》の認識票、今後の逃亡経路、物資、部下たちの処遇。


 考えることはいくらでもあった。


 しかし今夜くらいは眠ってもいいだろう。


 意識を手放しかけたところで、廊下から小さな音が聞こえた。


 何かが壁へ擦れる音。


 しばらく待つ。


 また聞こえた。


「……何をしてる」


 扉を開ける。


 廊下の壁際に、ノアが座っていた。


 水色のワンピースのまま、膝の上に子熊のぬいぐるみを抱いている。


「護衛です」


「自分の部屋で寝ろ」


「壁を隔てると、マスターの心音を確認できません」


「確認しなくていい」


「確認できなければ、眠れません」


 ノアが俺を見上げる。


 昨日までなら、命令すれば部屋へ戻っただろう。


 だが俺は、自分で選べと言った。


 そしてノアは、ここにいることを選んだ。


「部屋へ入れ」


「よろしいのですか?」


「ああ。ただし、寝台へ潜り込むなよ」


「なぜですか?」


「説明が面倒だ」


「承知しました」


 部屋の隅から椅子を持ってきて、寝台の横へ置く。


「そこで寝ろ」


「座ったまま眠るのですか?」


「嫌なら隣の部屋へ戻れ」


「ここで眠ります」


 ノアは椅子へ座り、子熊を抱きしめた。


 目を閉じる。


 三分後。


 目を開く。


「眠れません」


「努力しろ」


「努力しています」


 五分後。


 ノアの頭が小さく揺れ始める。


 子熊を抱いたまま、身体がゆっくりと傾いた。


 椅子から落ちる直前で受け止める。


「危ないな」


 ノアは眠っていた。


 抱き上げても目を覚まさない。


 軽い。


 一国を滅ぼせる力を持っているとは思えないほど、細く、頼りない身体だ。


 寝台へ寝かせる。


 子熊を腕の中へ戻すと、ノアは無意識に抱きしめた。


「安心できたか?」


 答えはない。


 けれど、その寝顔は地下施設にいたときより穏やかだった。


 俺は椅子へ座り、机に肘をつく。


 今夜はここで寝るしかない。


 目を閉じたところで、再び扉が開いた。


「何をしているのですか」


 寝間着姿のリーゼが立っていた。


 長い髪を下ろし、眼鏡も外している。


 普段より随分と幼く見えた。


「静かにしろ。ノアが寝てる」


「それは見れば分かります。なぜあなたが椅子に?」


「寝台を取られた」


「隣の部屋へ運べばよいでしょう」


「せっかく眠ったんだ。起こしたくない」


 リーゼが寝台を見る。


 水色のワンピースを着たまま、子熊を抱いて眠るノア。


「……あなたは、そういうところだけ無駄に優しいですね」


「だけ、とは何だ」


「自覚がないなら結構です」


 リーゼが部屋へ入り、俺の肩へ毛布を掛けた。


「お前こそ、なぜ起きてる」


「ノアが部屋からいなくなったので、探していました」


「悪いな」


「あなたが謝ることではありません」


 リーゼはノアの胸元にある白い花を見た。


「今日は、楽しめたでしょうか」


「どうだろうな」


「少なくとも、プリンは楽しんでいました」


「明日も食べたいらしい」


「毎日食べさせてはいけません。栄養が偏ります」


「本人が好きなものを食べればいい」


「あなたがそうやって甘やかすので、私が管理する必要があるのです」


「元副官なのに?」


「訂正します。これからは、あなたとノアの生活管理責任者です」


「勝手に役職を増やすな」


「嫌なら、ご自分で食事と睡眠を管理してください」


「よろしく頼む」


「少しは抵抗してください」


 リーゼは呆れながら、机の向かいへ座った。


 そのまま鞄から書類を取り出す。


「何をしている」


「明日以降の物資と資金の確認です」


「今日は休め」


「あなたに言われたくありません」


「命令だ」


「元少将に命令権はありません」


「なら希望だ。休め」


 リーゼの手が止まる。


「……承知しました」


 書類を机へ置き、背もたれへ身体を預けた。


 しばらくすると、リーゼの呼吸も静かになる。


 俺も今度こそ眠ろうと、瞼を閉じた。


◇


 夜の途中。


 微かな衣擦れの音で目が覚めた。


 ノアが寝台の上で身体を起こしている。


 薄暗い部屋の中、子熊を抱いたまま、俺とリーゼを交互に見ていた。


「どうした」


「起こしましたか?」


「いや」


「申し訳ありません」


「謝らなくていい。怖い夢でも見たか?」


「夢は見ていません」


 ノアが子熊へ視線を落とす。


「マスター」


「何だ」


「今日、私は役に立ちませんでした」


「ああ」


 服を買い、シチューとプリンを食べ、花をもらった。


 敵兵を倒したわけでも、都市を消したわけでもない。


 兵器として評価するなら、何の成果もない一日だ。


「敵を殺していません」


「そうだな」


「命令も遂行していません」


「そうだな」


「私は、必要でしたか?」


 ノアが俺を見る。


 青灰色の瞳が、暗闇の中で微かに揺れている。


「必要だった」


「なぜですか?」


「お前と飯を食うためだ」


「それは、任務ですか?」


「違う」


「目的ですか?」


「それも違う。ただ、一緒に食いたかった」


 ノアには、それだけでは理解できないのだろう。


 兵器は、役に立つから保管される。


 命令を遂行できなくなれば廃棄される。


 彼女が知っている関係は、それだけだ。


「ノア」


「はい」


「今日みたいな日を過ごすために、俺はお前を連れ出した」


「役に立たなくても?」


「むしろ、役に立たない方がいい」


「理解できません」


「俺にとっては、最高の一日だった」


 ノアは黙り込んだ。


 胸元に挿した白い花へ触れる。


 次に水色のワンピースを見る。


 子熊のぬいぐるみを抱き直す。


「私も」


 小さな声だった。


「今日を、好ましく感じました」


「そうか」


「はい」


 ノアが寝台から下りる。


 俺の前まで来ると、軍服の裾をつかんだ。


「今日、死ななくてよかったです」


 その口元に、本当に微かな笑みが浮かんだ。


 戦略級人型兵器でも、神の心臓を宿す魔法使いでもない。


 ただの少女の笑顔だった。


「ああ」


 その銀髪を、ゆっくり撫でる。


「明日も生きろ」


「命令ですか?」


「いや」


「では、マスターの希望ですか?」


「それもあるが、お前自身の希望にしろ」


 ノアは少し考えた。


「はい」


 俺の軍服をつかむ指へ、僅かに力がこもる。


「明日も、生きたいです」


 世界を滅ぼせる少女が初めて望んだものは、復讐でも自由でもなかった。

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