第二話 最強兵器の常識教育は、国家反逆より難しい
国家反逆者になって、最初にされたことは逮捕でも銃撃でもない。
平手打ちだった。
装甲列車へ乗り込んだ直後、乾いた音が車内に響く。
「……痛いな」
「当然です。痛みを与えるために叩きましたので」
目の前に立っているのは、軍服姿の女だった。
濃紺の長髪を高い位置でまとめ、銀縁眼鏡の奥から翠色の瞳で俺を睨んでいる。
帝国軍大尉、リーゼ・ハルトマン。
七年間にわたり俺の副官を務めてきた、極めて優秀で融通の利かない女だ。
彼女は皺一つない軍服姿で俺へ敬礼した。
「お帰りなさいませ、少将閣下」
「ただいま。ところで、なぜ処刑を免れた直後に味方から殴られるんだ?」
「私に黙って処刑されようとしたからです」
「知らせたら止めただろ」
「当然です」
リーゼは眼鏡の位置を直した。
「私なら、もっと安全かつ効率的な国家反逆計画を立案しました」
「反逆そのものは止めないのか……」
「帝国軍人としては、断固として止めるべきでしょう」
「なら止めろよ」
「ですが、カイル様がノアを見捨てるはずがありませんので」
リーゼが俺を階級ではなく名前で呼んだ。
怒っている証拠だ。
どうやら相当ご立腹らしい。
「心配をかけたな」
「謝罪は結構です。反省してください」
「善処する」
「反省する気のない者が使う言葉です」
「なら検討する」
「悪化しました」
リーゼが深く息を吐く。
眼鏡の奥の目元が、僅かに赤い。
寝不足のせいだろう。
昨夜は反逆の準備で忙しかったはずだ。まさか泣いていたわけでもあるまい。
そう判断した瞬間、白い影が俺の前へ出た。
ノアだ。
「対象による、マスターへの攻撃を確認しました」
無表情でリーゼを見つめている。
その青灰色の瞳には、敵意も怒りもない。
ただ、排除すべき障害物を観察するような冷たさだけがあった。
「ノア、待て」
「脅威度を測定します」
「測らなくていい」
「対象は武装しています」
リーゼの腰には、自動拳銃と細身の軍刀がある。
「マスターの頬に損傷を確認。敵性行動と判断します」
「平手打ちされただけだ」
「治療が必要ですか?」
「必要ない」
「では、報復のみ実行します」
「もっと必要ない」
リーゼがノアを見つめる。
「あなたが第零号――いえ、ノアですね」
「はい」
「初めまして。リーゼ・ハルトマン大尉です。これより、あなたの保護と教育を担当します」
「必要ありません」
「なぜですか?」
「マスターを攻撃しました」
「彼の健康と人格を守るために必要な処置です」
ノアが俺を見る。
「マスターの人格に異常がありますか?」
「否定しにくい質問をするな」
「安心してください。私が七年間矯正を試みていますが、成果はありません」
「おい、リーゼ」
「では、排除しても改善しない可能性が高いと判断します」
「ノアも納得するな」
二人の視線がぶつかる。
片や帝国軍きっての生真面目な女性士官。
片や、気に入らない相手を国ごと消せる少女。
相性は最悪に見えた。
俺の胃が痛くなる。
前世でも部下同士の人間関係には苦労したものだが、少なくとも片方が世界を滅ぼせる兵器という事例はなかった。
「リーゼ」
「何でしょう」
「念のため聞くが、ノアをどうするつもりだ」
「まずは治療します」
リーゼが即答した。
「その足と首を放置するつもりですか?」
ノアはまだ裸足だった。
発進施設で傷ついた足裏から、うっすらと血が滲んでいる。首輪の下に刻まれていた傷も、軍服の襟から覗いていた。
地下施設からここまで急いでいたとはいえ、気づかなかったわけではない。
気づいていて、逃げることを優先した。
「ノア、こちらへ」
「断ります」
「治療が必要です」
「行動に支障はありません」
「支障がなければ、傷ついていても構わないのですか?」
「はい」
「そうですか」
リーゼが微笑んだ。
笑顔なのに、妙な威圧感がある。
「では命令です。座りなさい」
「あなたに命令権はありません」
「あります。私はカイル様の健康管理責任者です。カイル様はあなたの怪我を心配しています。その原因を排除する権限が、私にはあります」
ノアが俺を見る。
「事実ですか?」
「まあ、概ね」
「承知しました」
ノアは素直に座席へ腰を下ろした。
今の理屈で納得するのか。
リーゼは救急箱を取り出し、ノアの前へ膝をつく。濡らした布で足を拭き、傷へ消毒液を塗った。
「痛ければ言ってください」
「問題ありません」
「問題の有無は聞いていません。痛いかを聞いています」
どこかで聞いたようなやり取りだ。
ノアも気づいたのか、こちらを見た。
「……少し、痛いです」
「よく言えました」
リーゼはノアの足へ包帯を巻き、用意していた革靴を履かせる。
大きさはぴったりだった。
「なぜノアの足の寸法を知っている?」
「軍の身体検査記録を参照しました」
「いつの間に盗んだ」
「軍事機密です」
「使い方が違うだろ」
「あなたにだけは言われたくありません」
リーゼは続いてノアの首を手当てした。
傷に触れる指は丁寧だった。
「これで大丈夫です。ですが、しばらく首元へ負担をかけないように」
「感謝します、リーゼ大尉」
「どういたしまして」
「しかし、マスターへ加えた攻撃については保留とします」
「忘れてはくれないのですね」
「必要であれば、同等の損傷を与えます」
「平手打ち一回分で済むなら、甘んじて受けましょう」
「対象の消滅も選択できます」
「同等ではありません!」
少なくとも、会話は成立している。
仲良くなれるかもしれない。
たぶん。
装甲列車は地下線を抜け、帝都郊外へ延びる貨物路線を走っていた。
窓の外には煉瓦造りの工場が並び、無数の煙突から吐き出された煤煙が空を覆っている。
帝都の警報は、もう遠い。
追っ手が来るまで時間はないが、腹が減ってはまともな作戦も立てられない。
「食事にしましょう」
リーゼが言った。
机の上に、パン、燻製肉、温かいスープが並べられる。
どれも軍用の携帯食にしては上等だ。
「随分と豪華だな」
「国家反逆初日の記念です」
「そんな記念日があってたまるか」
「死刑囚最後の食事も兼ねています」
「処刑は中止になったぞ」
「今後一切処刑されないと、なぜ言い切れるのですか?」
「朝食が喉を通らなくなることを言うな」
向かいの席へ座ったノアは、机上の食事をじっと見つめていた。
食べようとしない。
「ノア。食べないのか?」
「許可を待っています」
「何の?」
「食事の許可です」
「……許可しなければ食べないのか?」
「はい」
「腹が減っていても?」
「任務に影響が出るまでは、問題ありません」
「これからは許可を待つな。腹が減ったら食べろ」
「承知しました」
ノアはパンへ手を伸ばしかけ、止めた。
今度はスープを見る。
それから燻製肉を見る。
再びパンへ視線を戻す。
手は動かない。
「どうした?」
「選択してください」
「自分で好きなものを選べ」
「好きの判定方法が分かりません」
リーゼが僅かに目を伏せる。
俺も、すぐに言葉が出なかった。
十七年間。
ノアは兵器として生きてきた。
戦場へ出るときも、眠るときも、食事をするときも、命令がなければ何一つ選べなかった。
自由を与えれば喜ぶと思っていた。
だが、自由とは選択肢を知っている人間にしか扱えないものらしい。
「なら全部食べてみろ」
俺はパンを半分に割り、片方をノアへ渡した。
「好きかどうかは、そのあと決めればいい」
「承知しました」
ノアはパンを一口かじる。
咀嚼し、飲み込む。
「どうだ?」
「栄養摂取に適しています」
「味を聞いてる」
「味覚に異常はありません」
「そうじゃなくてだな……」
「ノア」
リーゼが小さな包みを取り出した。
包装紙を開くと、中には琥珀色の菓子が入っている。
「これはキャラメルです。食べてみてください」
「非常食ですか?」
「似たようなものです」
「違うだろ。明らかに菓子だ」
「糖分は脳の働きを助けます。作戦行動に必要です」
「なぜ俺へ言い訳する」
「言い訳ではありません」
リーゼが目を逸らす。
ノアはキャラメルを受け取った。
「包装されたまま食べるのですか?」
「紙は外してください」
「以前、マスターから受領した際は説明がありませんでした」
「お前、まさか包み紙ごと食べたのか?」
「直前で異物と判断しました」
「危なかったな」
「現在も保管しています」
「なぜ?」
「マスターから初めて与えられた物品だからです」
リーゼがこちらを見る。
何とも言えない冷たい視線だった。
「なんだ」
「いいえ。説明不足で少女に紙を食べさせかけた男を見ているだけです」
「食べてはいない」
「論点はそこではありません」
ノアは丁寧に包装紙を剥がし、キャラメルを口へ入れた。
無表情のまま、ゆっくり咀嚼する。
その動きが止まった。
「どうした?」
「異常が発生しました」
ノアが胸へ手を置く。
「どこか痛むのか?」
「いいえ。もう一つ、摂取したいです」
「それが『好き』という感情です」
リーゼが微笑む。
「これを、好きと呼ぶのですか」
「ええ」
ノアは空になった包装紙を見る。
折り畳み、軍服の胸元へ大切そうにしまった。
「リーゼ大尉」
「何でしょう」
「もう一つ、ください」
「もちろんです」
リーゼが鞄へ手を伸ばす。
その瞬間、鞄の口から茶色い何かが覗いた。
丸い耳。
黒い硝子の目。
「リーゼ」
「何でしょう」
「今、鞄の中に熊がいなかったか?」
「いません」
「いや、いたぞ」
「敵による認識撹乱です」
「共和国は随分と限定的な攻撃をするんだな」
「熊ではありません。携帯用の安眠補助装備です」
「つまり、ぬいぐるみだろ」
「違います」
「では、確認します」
ノアが鞄へ手を伸ばす。
リーゼは素早く鞄を抱きしめた。
「軍事機密です!」
「リーゼ大尉の心拍数上昇を確認しました」
「確認しなくて結構です」
「鞄の内部に危険物がある可能性があります」
「ありません!」
「では、熊ですか?」
「熊ではありません!」
そこまで否定すると、鞄の中から茶色い子熊の頭が転がり出た。
沈黙。
ノアと俺は、机の上に現れた子熊を見る。
次にリーゼを見る。
リーゼの頬が赤くなった。
「……見なかったことにしてください」
「無理がある」
「命令です」
「今の俺は無職だ。お前も軍籍を捨てた。命令系統は存在しない」
「では、お願いします。忘れてください」
「善処する」
「絶対に他言しないでください」
ノアが子熊を見つめる。
「これは、何の兵器ですか?」
「ぬいぐるみです」
リーゼが諦めたように答えた。
「何のために使用しますか?」
「抱いて眠ると、安心できます」
「リーゼ大尉は、これを抱いて眠るのですか?」
「……時々です」
「毎日だろ」
「カイル様」
「なんだ」
「列車から落としますよ」
今度は階級どころか閣下さえ消えた。
本気で怒っているらしい。
ノアは子熊を手に取り、不思議そうに抱きしめた。
「安心とは、どのように発生しますか?」
「すぐには分からなくても構いません」
リーゼの声が柔らかくなる。
「眠れないときは、それを抱いてみてください」
「リーゼ大尉の重要装備では?」
「重要ではありません」
「毎晩抱いているのに?」
「カイル様は黙っていてください」
「返却期限は?」
「次に会ったときで結構です」
ノアが顔を上げた。
「次も、会うのですか?」
「同じ列車にいますから、明日も会います」
「明日」
「ええ。明後日も、その次の日も。少なくとも私たちが捕まらない限りは」
ノアは腕の中の子熊へ視線を落とした。
「では、明日返します」
「気に入ったなら、もっと持っていても構いません」
「いいえ」
ノアの指が、ぬいぐるみの柔らかな毛を撫でる。
「明日も会うために、明日返します」
リーゼが目を細めた。
「分かりました。明日、必ず返してください」
「はい」
そのやり取りを見届けたところで、急激な眠気が襲ってきた。
考えてみれば、二日近くまともに眠っていない。
「俺は少し寝る」
「賛成です」
リーゼが即答する。
「後方車両に寝台を用意しています。最低でも三時間は休んでください」
「一時間でいい」
「三時間です」
「二時間」
「四時間に増やしますよ」
「交渉になってないだろ」
「睡眠に関して、あなたに決定権はありません」
ノアが立ち上がる。
「私も同行します」
「俺は寝るだけだぞ」
「就寝中は無防備です。護衛が必要です」
「車内まで敵は来ない」
「リーゼ大尉が攻撃する可能性があります」
「もう叩きません!」
「信用する根拠がありません」
仕方なく、ノアを連れて後方車両へ移動する。
狭い個室には簡素な寝台が一つと、小さな机が置かれていた。
俺は軍服の上着を脱ぎ、寝台へ横になる。
ノアは枕元に立った。
「そこで何をしている」
「護衛です」
「見られていると眠れない」
「では、目を閉じます」
ノアが目を閉じる。
「そういう問題じゃない」
「距離を取りますか?」
「とりあえず、座れ」
「承知しました」
ノアは寝台へ腰掛けた。
俺の隣に。
「なぜそこへ座る」
「立っていると眠りにくいとのことでしたので」
「椅子があるだろ」
「対象との距離が離れます」
「敵はいない」
「マスターの心停止、呼吸停止、悪夢、寝台からの落下に対処する必要があります」
「寝るだけで、なぜそこまで危険を想定するんだ」
「マスターは過去に四回、執務室で倒れています」
「リーゼと同じことを言うな」
「リーゼ大尉の記録と、私の記録は一致しています」
ノアは俺の手首に指を当てた。
「脈拍を確認します」
「確認しなくていい」
「生命維持に必要です」
「眠れない」
「では、私も横になります」
ノアが子熊を抱いたまま、俺の隣へ身体を横たえようとする。
「待て」
「接触すれば、より正確に脈拍と体温を測定できます」
「駄目だ」
「なぜですか」
「なぜと言われても……」
扉が勢いよく開いた。
「何をしているのですか!」
リーゼが立っている。
「護衛です」
「なぜ寝台へ入ろうとしているのです!」
「マスターの生体情報を測定するためです」
「手首で十分でしょう!」
「マスターが拒否しました」
「だからといって添い寝する必要はありません!」
「より効率的です」
「非効率で結構です!」
「お前ら、喧嘩なら外でやってくれ……」
俺が目元を覆った、そのときだった。
列車内の伝声管から、連絡将校の声が響く。
『前方に異常! 旧第三信号所より先、帝国軍が線路を封鎖しています!』
眠気が吹き飛んだ。
「到着が早いな」
起き上がり、軍服の上着を羽織る。
リーゼの表情も、副官のものへ戻っていた。
「規模は?」
『軽戦車四両、装甲車八両、歩兵およそ二百! 線路上へ障害物を設置しています!』
「迂回路は?」
「ありません」
リーゼが答える。
「この先は峡谷です。左右は切り立った崖。装甲列車を止めれば包囲されます」
「消しますか?」
ノアが尋ねる。
「駄目だ」
「では、戦車のみ消します」
「それも駄目だ」
「線路を含む山を消せば、迂回路を作成できます」
「規模を大きくするな」
「難しい状況です」
「お前にとってはな」
俺は先頭車両の作戦室へ向かった。
机に地図を広げる。
旧第三信号所。
帝都西部と工業都市を結ぶ貨物路線の中継点で、平時は一個小隊が管理するだけの小さな施設だ。
そこへ二百人規模の部隊が配置された。
俺たちの進路を読まれたわけではない。
帝都から伸びる主要鉄道を、手当たり次第に封鎖しているのだろう。
「突破しますか?」
リーゼが尋ねる。
「この装甲列車なら、戦車四両程度は排除できます」
「駄目だ。撃てばこちらにも被害が出る」
「では、ノアに戦車だけを――」
「それも駄目だ」
「選択肢がなくなりましたが」
「戦う以外の選択肢がある」
俺は机上の通信機を操作し、帝国軍の暗号周波数へ合わせた。
「旧第三信号所を封鎖しているのは、帝国軍第六鉄道警備隊だ。指揮官はベッカー中佐」
「ご存じなのですか?」
「酒に弱く、賭け事に強い。妻には頭が上がらない。昇進のためなら上官へ靴を贈る男だ」
「軍歴を聞いたつもりだったのですが」
「人間を動かすのに必要なのは、軍歴より欲望だ」
「それで、どう動かすのですか?」
「奴は命令違反を恐れる。そして、自分より階級が低い人間を信用しない」
通信機を二つ使う。
一つは帝国軍中央司令部。
もう一つは、第六鉄道警備隊の上位部隊を装う周波数へ合わせた。
「まず中央司令部名義で、『第零号強奪犯は民間貨物列車へ乗り換えた』と通達する」
「我々は装甲列車に乗っています」
「だから、目の前の列車は囮だと思わせる」
「しかし、彼らは直接確認するでしょう」
「確認できない理由を与えればいい」
別の通信機から、低い男の声を流す。
俺の部下が、上級将校を装っている。
『第六鉄道警備隊へ通達! 現在そちらへ接近中の装甲列車には、帝国軍情報局の特務部隊が搭乗している! 極秘任務につき、検問を禁ずる!』
すぐに信号所から返信が届いた。
『こちら第六鉄道警備隊! そのような命令は受けていない! 中央司令部からは、すべての列車を停止させろとの命令が出ている!』
「予想どおりだな」
「正反対の命令を与えただけでは、我々を止める方が安全では?」
「普通はな」
今度は中央司令部を装った周波数から送る。
『緊急通達。共和国軍工作員が、帝国軍将校を装い偽命令を発している。情報局所属を名乗る者が現れた場合、拘束せよ』
リーゼが眉を寄せる。
「私たちが拘束されるだけでは?」
「このあとが本命だ」
三つ目の通信。
相手は、第六鉄道警備隊の隣に駐屯する憲兵隊。
『第六鉄道警備隊のベッカー中佐に共和国との内通疑惑あり。身柄を確保せよ』
リーゼが理解した。
「検問部隊と憲兵隊を対立させるのですね」
「ベッカー中佐は保身が強い。自分を拘束しに来た憲兵を、共和国の工作員だと判断する」
遠方から砲声が響いた。
峡谷の向こうで、黒煙が上がる。
『報告! 第六鉄道警備隊が憲兵隊と交戦を開始! 線路上の部隊が移動しています!』
「思ったより早かったな」
「帝国軍同士で戦わせたのですか?」
ノアが地図を見下ろしている。
「直接戦闘は起きないと予測していた。互いに銃を向けて口論している間に通り抜ける予定だったんだが」
「発砲音が聞こえます」
「人間というのは、想定以上に血の気が多いらしい」
リーゼが冷たい視線を向けてくる。
「他人事のように言わないでください」
「死者が出ないよう、どちらの部隊にも空砲を支給してある」
「いつの間に?」
「三日前」
「なぜ三日前から、ここで味方同士が撃ち合うと予想できたのですか」
「撃ち合う場所はここでなくてもよかった。俺の逃亡経路候補すべてに、同じ細工をしてある」
「候補はいくつです?」
「十二」
リーゼが額を押さえた。
「やはり私に相談してください。あなたの計画は規模が大きすぎます」
「相談したら止めただろ」
「もっと大規模にしました」
「お前も大概だな」
装甲列車が峡谷へ入る。
線路上に置かれていた障害物は、戦車が移動するため脇へ退けられていた。
左右では帝国軍兵士と憲兵が互いに銃を向け、怒鳴り合っている。時折銃声が響くが、空砲なので怪我人はいない。
俺たちの装甲列車が横を通り過ぎても、誰もこちらを止めようとしなかった。
「無血突破だ」
「味方同士の信頼は壊滅しましたが」
「命は残った」
「そういう問題でしょうか」
「そういう問題だ」
峡谷を抜ければ、帝国西部の廃鉱地帯。
そこから先には、軍の支配が届かない辺境が広がっている。
帝都からの脱出は成功した。
俺はようやく息を吐いた。
「これで少し眠れるな」
「はい。今度こそ三時間、休んでいただきます」
「二時間で十分だ」
「四時間に増やします」
「なぜ増えるんだ」
リーゼと言い合いながら、作戦室を出ようとした。
ノアが俺の軍服の裾をつかんでいる。
「どうした?」
「マスター」
ノアは峡谷の上を見ていた。
切り立った崖。
その頂上に、朝日を背負った小さな影がある。
人だ。
「伏せて」
ノアの声と銃声が重なった。
次の瞬間、俺の身体が床へ倒される。
弾丸が右肩のすぐ上を通り過ぎ、背後の鋼板へ突き刺さった。
「狙撃!」
リーゼが俺の腕を引き、机の陰へ隠す。
二発目。
鋼鉄の壁が甲高い音を立てた。
「閣下、怪我は!?」
「ない」
「狙撃地点は?」
「北側の崖。距離は約八百」
あの位置から、走行中の列車内にいる俺を狙った。
偶然ではない。
優秀な狙撃手だ。
「ノア!」
俺が呼ぶ。
しかし、ノアは窓の前に立ったままだった。
青灰色の瞳が、崖の上を見つめている。
「ノア、何もするな!」
「マスターの生命を脅かしました」
「俺は無事だ。放っておけ!」
「再度、攻撃する可能性があります」
「列車が峡谷を抜ければ狙えなくなる。殺す必要はない!」
三発目の銃声。
弾丸が窓枠を貫き、俺の頬を掠めた。
薄く皮膚が切れ、血が流れる。
ノアがそれを見た。
彼女の瞳から、僅かに光が消えた。
「ノア」
「敵性行動を確認」
「待て」
「マスターの損傷を確認」
「命令だ。殺すな」
ノアが俺を見る。
初めて、俺の命令と彼女自身の判断が衝突した。
その迷いは、一秒にも満たなかった。
「止まって」
小さな声だった。
崖の上で、狙撃手の身体が揺れる。
手にしていた長銃が落ちた。
男は胸を押さえ、その場に崩れ落ちる。
二度と動かなかった。
心臓を止めた。
ノアが、一人の人間を殺した。
戦闘でも、自分の身を守るためでもない。
俺の頬へ、小さな傷をつけたから。
「ノア」
「はい」
「殺すなと言っただろ」
「聞きました」
「なら、なぜ殺した」
ノアは俺の前へ戻ってくる。
俺の頬へ手を伸ばし、流れていた血を指先で拭った。
「対象の生存と、マスターの生存を比較しました」
「……それで?」
「比較する必要がありませんでした」
罪悪感はなかった。
命令へ背いた恐怖も、人を殺した動揺もない。
ただ、俺が生きていることにだけ安堵している。
「私は、間違えましたか?」
ノアが尋ねる。
その声音は、いつもと変わらない。
だが、俺の軍服をつかむ指には、強い力がこもっていた。
俺が怒ることを恐れている。
いや。
俺に捨てられることを、恐れているのか。
「……ここでは答えを出せない」
「処罰を受けますか?」
「受けない」
「では、任務を継続します」
「ただし、次からは俺に確認しろ」
「確認中に、マスターが死亡する可能性があります」
「それでもだ」
ノアは数秒黙った。
「努力します」
「そこは承知しましたじゃないんだな」
「遵守できる保証がありません」
正直すぎる回答だった。
俺は怒ることも、褒めることもできない。
人を殺してはいけない。
そんな当たり前の倫理を、ノアは教えられていない。
帝国は彼女へ、より効率的に人を殺す方法だけを教えた。
敵を殺せと命じ続けてきた少女へ、今日から殺すなと言ったところで、すぐに理解できるはずがない。
これはノアだけの罪ではない。
「リーゼ」
「狙撃手の身元を確認させます」
「頼む」
連絡将校が数名の兵を連れ、崖へ向かった。
列車を止めることはできない。彼らには小型軌道車で追いついてもらう。
およそ二十分後。
通信機から、困惑した声が届いた。
『こちら捜索班。狙撃手を発見しました』
「所属は?」
『不明です。帝国軍の軍服を着用していますが、階級章も部隊章もありません』
「装備は?」
『長距離狙撃銃と、携帯用通信機です。ただし、どちらも帝国軍の正式装備ではありません』
リーゼが地図へ視線を落とす。
「共和国の工作員でしょうか」
「共和国軍に、八百メートルから走行中の列車を撃ち抜ける狙撃手はいない」
「傭兵という可能性は?」
「ある。顔を確認してくれ」
『すでに確認しています。二十代後半の男性。黒髪、左目に火傷の痕。首筋に蛇の刺青があります』
その特徴を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
知らない。
『アイゼン・クロニクル』に、そんな人物は登場しなかった。
物語の主要人物も、帝国軍の隠し部隊も、共和国の暗殺者も、俺はほぼすべて把握している。
だが、該当する人間はいない。
「所持品は?」
『金属製の認識票が一枚。ただし、文字が読めません』
「形状を教えろ」
『黒い円盤です。表面に、数字のようなものが刻まれています』
「数字は?」
雑音が混じる。
『――十三です』
十三。
ゲームには存在しない狙撃手。
所属不明の装備。
そして、見覚えのない黒い認識票。
俺がノアを救ったことで、歴史が変わったのか。
それとも最初から、この世界には俺の知らない何かが潜んでいたのか。
「マスター」
ノアが俺を見上げる。
「どうしましたか?」
「いや」
俺は窓の外へ目を向けた。
装甲列車は峡谷を抜け、荒涼とした廃鉱地帯を走っている。
ここから先は、地図にもほとんど記されていない土地だ。
原作ゲームでは、カイルが訪れることのなかった場所。
シナリオから外れた世界。
「少し、予定が変わっただけだ」
「変更後の予定を教えてください」
「まず飯を食って、寝る」
「その後は?」
「俺を撃った連中が何者なのか、調べる」
ノアは小さく頷いた。
「全員、消しますか?」
「消さない」
「難しい任務です」
「慣れてくれ」
ノアの頭へ手を置く。
彼女は拒まなかった。
だが、俺の頬に残る傷から、目を逸らそうともしない。
この少女に、人間としての生き方を教える。
簡単に言ったものだ。
一国を敵に回すより、よほど難しいかもしれない。
そして、もう一つ。
俺は前世の知識によって、この世界の未来を知っている。
そのつもりだった。
だが、崖の上にいた狙撃手を、俺は知らない。
ノアが本来の運命から外れた今、これから何が起きるのかも分からない。
この世界はもう――。




