ある猫について その五
やはり病院の暮らしは不安だったのだろう。怖かったのだろう。
コンは迎えに来た私を見つけるなり大きく目を見開き、堰を切ったかのように聞いた事のない甲高いテンションの声で絶え間なく鳴き喚く。私を見つめたままバタバタと慌ただしく、狭いカゴの中でそれこそ全身全霊で己の興奮を表していた。
余りの激しい興奮を目の当たりにした私は戸惑いと嬉しさが内心に入り交じり、コンを持ち帰る為に買ってきたケージを持つ手が動揺に震えていた。
病院で薬と食事の指導を受け、有り難く随分手心を加えてもらって、それでもまだ結構な額の会計を済ませて車で家へと向かう。私にとってはいつものつまらぬあばら家に過ぎぬが、コンにとってはここが新たな、そして多分終生の住み処となるのだ。
助手席に置いたケージの中で未だ興奮覚めやらぬ鳴き声を発するコンは、果たして無事に新たな生活、その全てを緩やかにでも受け入れてくれるのだろうか。
獣医師の言葉が脳裏に繰り返される。
これがスタートですよ。
これから幸せな時間と共に大変なこともたくさん有ると思います。でも、あなたならきっと大丈夫です。我々も全力でサポートさせていただきますから。
とにかく、何かあったらすぐに連絡して下さいね。
そう言って、すっと右手を出してきた。
お世話になりました。これからも、宜しくお願いします。
私も右手を出し、いささか険しい面持ちで決意を持って獣医師と握手を交わしたのだった。
車内は静かだった。ラジオのニュースが景色と共に淡々と流れてゆく。
いつしか灯りも点いてない我が家がひどくよそよそしく、もうすぐそこまで見えていた。
ただいま、と誰もいない玄関で呟いて灯りを点けた。上がりがまちにケージを置く。そっとふたを開けてみる。
出てきた。
顔を出し、クンクンと何かを確かめるように鼻を鳴らしながらソロリソロリと茶色いきつね色の四本足の小柄な猫が出てきた。
新しい場所がやはり不安で仕方がないのだろう。しきりに匂いを嗅いでいる。
ここあそこと、随分念入りに、玄関さきから風呂やトイレに通じる廊下や居間の辺りをチェックしていた。
ややあって振り返り、玄関に突っ立ったままの私に特大の笑顔を見せて、楽しげに一声鳴いた。
私は深く安堵した。
コンは賢い猫だったのだろうか?
それとも猫とはみんなこんなものなのだろうか?
コンは玄関から居間へ歩を進め、再びクンクンとひとしきり匂いを嗅ぎ回り、それきりすっかり落ち着き寛いでしまった。
トイレもご飯と水の場所もほとんどすぐに覚えて、粗相の不始末なぞはついぞしなかった。
誰かが身辺に居るというのは時に煩わしくとも嬉しいものである。
私の身辺には常にコンがいた。
帰り際、窓際のキャットタワーを見上げると、そこにはきっとコンの姿があった。
私と目が合うと、笑ってキャットタワーから飛び降りる。
ただいま、と言いながら玄関を開けると、そこにはもうコンがいた。
私の足元にすりすりとまとわり着いて、一緒に居間まで来るのだ。
私は苦笑しつつも、ひどく安らかな心地であった。
着替えて、コンと私の食事の支度をととのえて、居間で並んで座って夕飯を食べるのだ。
コンは毎食医者から指示された病気の猫向けのカリカリした粒と缶詰を三分の一程を混ぜ合わせた質素な食事である。
コンは先に食べ終わると、口回りを前足で丁寧に拭い、それから決まってあぐらをかいた私の足に乗っかってゴロゴロ寛ぎだす。
私はテレビを見ながら飯を食ったり酒を飲んだり、コンの柔らかい背中を撫でてみたりして毎日の夜の一時を今までにない安らぎの中で静かに過ごしていた。
夜も更けて、私は灯りを消して、寝床に潜り込む。
きっとコンのシルエットが闇に薄く浮かび上がり、やがて私の脇の隙間に潜り込んでくる。
朝になり、ふと横を見ると、枕に眠りこけたコンの間の抜けた顔がある。
熟睡しているコンを起こさぬようそっと布団を抜け出して、顔を洗い一人と一匹の朝食の支度である。
やがて起きてきたコンと共に朝食をとり、やはり玄関まで見送りに来るコンの頭を軽く撫でて私は出かける。
窓際で見上げると、やはりキャットタワーの上にコンの姿があり、いつも微笑んでいたのだった。
生き物同士である。時として些細な事からケンカに発展した日もあった。
噛み付かれたり、引っ掛かれたりもよくあった。それでも翌日になれば互いにけろりと忘れて微笑んでいた。
静かな、けれども果てなく満たされた日々が季節の移ろいのうちに緩やかに、しかし確かな勢いで流れていった。




