ある猫について その四
どれ程の時間が過ぎただろう。
処置室からビニールのカーテンを開けてマスクをした初老の小柄な男性獣医らしき人が疲れた面持ちを湛えたまま、私の前に立った。
互いにひどく険しい面持ちのまま、荒い呼吸で立ち尽くしていた。
何か言わなくては。けれども、上手く言葉が出てこない。
そんな私に、医師は重たい口を開いた。
取り敢えず安心して下さい。大丈夫です。
その一言は私の心身の緊迫を瓦解させ得るに充分すぎた。
ところで、と獣医師は続ける。
野良の猫ですか。
相当に衰弱しています。詳しいことは採血と採尿とレントゲンの結果を待たねば申し上げられませんが、きついかも知れません。今は抗生物質と抗炎症剤と栄養剤と鎮静剤を投与して、眠っています。
あなたはどうなさりたいですか?
私は、狼狽えながら今までのコンとの経緯をたどたどしく説明した。
医師は冷静な眼差しで私の話を聞き終えた後、静かに口を開いた。
これからどうしますか?この猫を飼いますか?それとも安楽死という方法も有ります。健康体なら、保護施設から里親を探すという手も有るのですが、重い持病持ちではなかなか難しいと思われます。この後、仮に回復したとしても、この猫に野生で生きていくのは難しかろうと、思います。土手に戻しても、多分生き永らえられません。飼うとなれば、時間も出費も、それなりの覚悟をして頂く必要があります。一時の感傷で決断されれば、お互いに不幸になるだけです。今日はこちらに入院させます。明日の午後には検査結果も揃うと思われます。また明日、よく考えてこちらにいらして下さい。では。
俯く私にクルリと背を向けて、次の方、お待たせしました。どうぞ。
足早に診察室に戻っていった。
先程の上品そうな母と娘が私に軽く会釈をして、おとなしい犬をそっと抱き、診察室に入ってゆく。
取り敢えずの安堵とこれからの事に呆然とした私は、心地よいクラシックの音楽が流れる中に一人取り残されてしまったのだった。
戻ってきた看護師に連絡先の住所と電話番号とメールアドレスを教えて、そそくさと病院を後にした。
表に出て、看板に描かれたかわいらしい犬猫がニコニコ笑って跳ね回っているイラストを見ていると、ふっと涙が溢れてきて止まらなかった。
涙で滲んだ視界に、九時から二十時まで、という営業時間の案内が目に止まり、微かな安堵を覚えた。
そうだ。仕事があるのである。しかし早めに抜ければ十九時前後にはここまで来られる筈だ。
取り敢えず、今日は帰ろう。そして早く寝よう。私まで、弱っている訳にはいかぬのだ。
外はすっかり暗くなり、所々明滅を繰り返す街灯は長い道を果てなく照らしている。土手から秋の虫達の鳴く声が切なく響き続けていた。
私はただ俯いてああでもないこうでもないと、とりとめなく考えながら帰路をとぼとぼ歩き続けた。
これは悪い夢なのではなかろうか。本当はコンはとうに誰かに拾われて、穏やかな暮らしを過ごしているのではないか。
私のコンに対する不安が見せている夢なのではなかろうか。
家までの距離が、随分遠く思われた。
どうか元気になって欲しい。けれども、私にいきなり猫が飼えるものだろうか。自分で言うのも何だが、私は無類の無精者である。いい加減な人間なのである。妻子も彼女も親しい友すら持たず、親の残したあばら家でその日その日を生きてきた。愛情など持ち合わせてはいない、毎度毎度その場しのぎの悪どくずるい無気力な人間なのである。
いっその事に、このまま眠るがごとく天国に行ったほうが余程コンにとっても幸せなのではなかろうか。
しかし、それもむごいことであるような気もする。
コンはやっと私を頼ってよろめきながらすがってきたのだ。
あたふた狼狽えながら家に着き、夢などではないのだ、自身にそう言い聞かせながらも、さてさて、どうする。ため息が止まらなかった。
曖昧なまどろみのうちに翌朝が来てしまった。
よく眠れぬままに目が覚めて、黎明の空を窓越しにぼんやりと眺めていた。やはり事態に変化はない。長い夢ではなかろうかという臆病な願望は今ここに断ち切られたのだった。
昨日病院に教えたメールアドレスに病院から連絡が来たのである。
コンはまだ眠っているらしい。衰弱の峠は越しつつあるが、まだ予断を許さぬ状態であるそうだ。
何があってもいいように、私は珍しく車で出勤した。仕事中も、心配が渦を巻いていて何一つ手に着かず、気が付けば机で呆然としていた。
黄昏の果て、常よりかなり早く帰路に着いた。
気が付けば、沿道のホームセンターのペットコーナーに立っていた。
ペット用品のすぐそばに、ショーケースに入れられた子犬や子猫がたくさん売られていた。
どの子も皆、何万円と書かれた値札の下で、不思議な位に愛想よくニコニコ微笑んでいる。
私は彼等を直視しないように敢えて背を向けて、猫用のトイレと砂やら餌と水を入れるかわいらしいピンクのお椀やらを従業員の言うままにかごに入れて黙々と会計を済ませた。
すでに覚悟は決まっていた。
病院の入り口をおそるおそる、まるで討ち入りのような険しい顔をして、どうもと言いながらゆっくりと入っていった。
目の前には昨日とはうって変わった優しい面持ちの獣医師がいた。
やぁ、昨日の。もう来ないのかと思っていましたよ。
白髪頭で朗らかに笑ってそう言うと、急に厳粛な顔付きに戻り、手招きをして私を診察室に招き入れたのだった。
余り、よくないのでしょうか?
私は勧められた椅子に座る前に、診察室の入り口に立ち竦んだまま、獣医師に問わざるを得なかった。
獣医師は私の問いに無言で椅子を勧めるのみだった。
おそるおそる椅子に腰掛けた私を待っていたかのように、獣医師は口を開いた。
検査の結果ですが、正直よくありません。猫にはよくみられる事ですが、腎臓の数値がかなり悪い。その影響もあって心臓も弱っている。肝臓の数値もかなり高い。感染症にもかかっています。
つまり、駄目だということなのでしょうか?
今すぐとは言いませんが、平均的な寿命より長生き出来るとは言えないと思います。
それでも、飼う覚悟はおありですか?
私は二度、確かに頷いた。
獣医師は静かに微笑した。
それから、大変だった。
獣医師は与える餌の種類や量の制限から生活の細々した注意点を口頭で説明しながら手元のメモに書き連ねて、絶対に覚えて下さいと私に渡してきた。
特に与えてはいけないたべもの、飲ませる薬の種類とその用法。
そして、落ち着くまでもう少し入院させます、また連絡を差し上げますので、迎えに来てあげて下さい。
あ、それから。もう名前は決めていますか?カルテの都合もあるのでね。
しばし躊躇った後、コンです、コンといいます。
私は恥ずかしくも言ってしまった。
黙って聞いていた獣医師は軽く頷いて、コン、ね。いい名前じゃあないですか。と言ってカルテにサラサラッと名前を書き込んだ。
では。
獣医師は最後に、週に一度は必ず診察を受けて下さいね。それだけは必ず守って下さい。
そう言って診察室から立ち去った。
看護師に案内されて、ゲージに入っているコンの姿を見た。
前足に点滴の管をを挿されたままじっと目を閉じて丸くなっている。
確かに生きている、そのサインのように横たわったお腹が呼吸に合わせてゆっくりと上下していた。
薬が効いてきたのだろうか、心なしか昨日よりも毛並みが穏やかに柔らかくなっているような気がした。
私はせっかく寝ているコンが目を覚まさぬように、そっとその場を後にした。
落ち着かない日々が約一週間も続いた。
私は家を掃除して、猫のトイレはここ、ごはんと水はここ、窓際には外を眺めるためのタワー状の遊具を置いた。安心してくれるだろうか、馴染めるだろうか、ほうきとちり取りを持ちながら、新たなか弱き生き物を迎え入れる重圧と緊迫感と得たいの知れぬ興奮に浮き足立っていた。
やがて、動物病院からメールが届いた。
数値は大分下がって安定してきました。餌も良く食べています。
今日明日辺り如何でしょうか?コンさんも寂しがって夜は鳴いています。
私は職場で一人安堵の苦笑を絶やせなかった。
コンは見た感じではすっかり元気を取り戻していた。




