ある猫について その三
不安に狼狽えながら走る私の顔を、コンはじっと見ていた。
疲れたよ。もういいよ…。コンは力なく一声鳴いて目を細め、半ば諦めたかのような力無い顔で私の腕にぐったりと、か弱く小さく収まっていた。
バカいえ。よくはないぞ。コン。諦めちゃ駄目だ。
運動不足のメタボな私は、あっという間に息苦しくなり、それでも走り続ける事を止められなかった。
やがて小走りになり、早足になり、秋だというのに遠慮なく吹き出てくる大粒の汗に私の全身は最早ずぶ濡れになっていた。
なん十年ぶりか。こんなに必死に走ったのは。
ひたすら無心でコンの薄い温もりを胸に感じながら前進し続けるしかなかった。
やがて橋が遠く見えてきた頃、大きな犬を連れたご婦人が、よいしょとため息を吐きながら眼前の土手をゆっくりと登ってきた。
あの、はい、思わず声をかけながら、老いたそのご婦人の背後に有難い後光が差しているように思われた。これだけの犬を連れているのだ。この辺りの動物病院を知らぬ訳などない。
コンは助かるかもしれない。
焦りながら、しどろもどろになりながら私はそのご婦人に事情を説明して、どこかこの近くに、動物病院がありませんか。尋ねながら、思考についてこれぬ声がひどく遅くまだるっこしく、焦燥感に破裂しそうであった。
一切を尋ねるより早く、ご婦人は自身がさっき登ってきた土手の下を指差して、ほら、あそこにあります。早く。
そう言って、シワっぽい指をピンと伸ばして幾度も指差した。
その指先を辿った先には、確かに動物病院があった。犬や猫のイラストが看板に描かれているのだ。間違いなかろう。
有難うございます。
叫ぶように御礼を言うやいなや私はカッと目をむき、危うい土手を一目散にかけ降り出していた。
動物病院まで一気呵成に走り、荒い呼吸のままにガンと激しくドアを開けた。
病院の中には静かで穏やかな音楽が流れていた。
待合室には上品そうな母と娘が、やはり上品そうな小型犬を優しく膝の上で抱き抱えていた。
受付にいた白い服の女性は書類から顔を上げて、色の濃い口紅の塗りたくられた口元をだらしなく弛緩させている。
柔らかな夕方のひとときを危うく壊すかの様に、唐突に現れた場違いに荒くれた中年男に向けられた視線は、人も動物もひどく怯えきっていた。
あの、あの、猫を診て貰いたいのですが。よくわからないのですが、具合がとても悪いみたいなのです。
唖然としていた受付の女は、さっと正気を取り戻して受付のカウンターから飛び出すと、私の懐からそっとコンを掬い取り、一言、これはひどい、と呟いた。
やはりプロである。
さっと診察室に向かい、先生、急患です、と鋭く叫び、コンを抱いたまま処置室と書かれた部屋へと一目散に駆け込んでいった。
私の腕から看護師に引き取られる際に、コンは少ししがみついて抵抗した。
虚ろな瞳を私に向けて、無言で不安に泣いていたのがはっきりと伝わってきたのだった。
それから私は、ただ待合室に息を切らしながら立ち尽くしていた。
医者らしき声と受付の看護師らしき声とが激しく行き交い、私にはどうにも為す術がなかった。
ふと見ると、窓際のソファーに母娘と小型犬が緊張に固くなった面持ちで私を見ていた。
荒い呼吸のまま、すいません、順番だったのに。
それだけを精一杯に伝えると、いえいえ、そんな、私達は定期検診ですから、そんな、猫さん無事だと良いですね。
お母さんが小声で返事をしてくれた。
本当に、すみません。
私は阿呆のように、同じ言葉を繰返して、受付のカウンター前に立ち尽くしていた。




