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ある猫について  作者: 若葉
2/6

ある猫について その二

かつて、その土手に猫が居た。

最初は見てみぬ振りをしていた。おじさんたる私が路傍の猫に関心を示すのはいささかの羞恥心も含めてなかなか勇気の要る事である。

ちらと目をやり、こんな場所だもの、まぁ野良猫の一匹や二匹、居るだろうよ。別段珍しくもない。

その位に思っていた。


何故だろうか。やがて、猫達がやたらとなついてきたのである。

子猫が足にじゃれつき、後ろにはどれが母猫父猫だか知らぬが大きく成長した猫達が保護者の様に寛ぎながら、時に鋭い視線を私に注いでくるのであった。


私は猫に餌をやった事など無い。赤の他人である。

にもかかわらず、まるで近所の友達と遊ぼうとするかのように無邪気にキャッキャッとじゃれかかってくる子猫達に対して、私はやがて切ない愛着を抱かざるを得なかった。


幾度か猫に会う内に、私もそれを期待して歩くようになっていた。

たまに一匹も姿を見せない時には、外面は平静を装いつつも、隠しきれない狼狽に内心酷く動揺してしまうのだった。


初めて会った時から数ヶ月が過ぎた。

親猫や何匹かの子猫は誰かに拾われたのか、それとも悲しい出来事があったのか、途中で時々にふっと姿を消してしまった。

残った子猫等は私に少しずつ鋭い眼差しを見せ始め、かつてのように無邪気に容易く近付いてこなくなり、やがていっぱしの大人のようにすっかり大きく成長し、やはり一匹、また一匹と勇ましく群れから独立していった。


そんな中で、最後までうろうろしていた猫が居た。

すっと屹立した耳に、しっぽが長くふかふかしていて、あごから胸から腹、そしてしっぽまで内側というのか下側というのか、とにかく腹側は白く背中側の全身がきつねのようにこんがり茶色い臆病な猫であった。

もともと虚弱なのか、あんまり餌を得られていないのか、独立していった子猫達に比べて一回り以上小さくその体躯は見るからに弱々しかった。


私はその猫を密かに心のなかでのみ、コンと呼んでいた。きつねが本当にコンと鳴くのかどうかは知らぬが、痩せているせいか口元がどことなく尖っていて、その口元が茶色い毛並みと相まってどことなくきつねに似ていたからである。

我が事ながらネーミングセンスの無さにあきれ果てて、流石に声に出して呼んだ事は無かったが、姿を見せないと訳もなく不安を覚えて、心中でコンやいコンやいと繰り返していた。


ひょっこりと姿を表した時の安堵を思い出す。


コンは草むらからそっと顔を出し、周囲の気配をおそるおそる探る。

やがて私に気付いて、あっという顔をして、微笑むように目を細めながらじっと私の顔を見上げている。

私もついつい嬉しくて、コンを見つめて自身でも驚かざるを得ないくらいの優しい微笑をたたえていた。


コンはようやく安心したのだろうか、草むらから出てきて、私の足に絡み付くようにおでこから耳の付け根の辺りを擦り付けていわゆる臭い付けの挨拶をして交流を図ってくる。

私がその茶色い背中を軽く撫でてみると、柔らかな毛の生き生きとした温もりが指先からはっきりと伝わってくるのだった。

コンは私を見上げて忙しなく身を擦り寄せてきながら不安と安堵の混ざったような表情で微かにゴロゴロ喉を鳴らす。

時にはその場に寝転んで、気持ちよさげに顎を突きだし、撫でてほしいと催促をしてきた。

確かにその時、人と猫の生き物の垣根を越えた暖かな交流が存在していた。


その内に、遊歩道には人の往来がポツポツと出てきて、中には犬を連れて散歩する人も多く、臆病なコンはさっと身を固くして、さよならも言わず顔色を変えて草むらに走り去っていってしまうのだった。


私も充足と、大丈夫かな、という不安と、どこか満ち足りなさの入り交じる曖昧な余韻をもて余しながらコンの去っていった草むらをしばし見つめて、また一人きり散歩を続けるしかないのだった。歩きながら、仕方ないよな、元気で暮らせよ、という曖昧な祈りを、赤くきらめく川面に捧げていた。

道行く人々にはさぞかし変なおじさんだと奇異に思われていたに違いない。


夏も過ぎ去り、すっかり秋めいてきたな、というひんやりしたある週末の黄昏の事である。

土手の景色が様変わりしていた。

ぼうぼうに伸びていたすすきやら葦やらがきれいに刈り取られ、所々に点々とまとめられて山積みになっていた。

いつもの川がやたらと大きく見える。川の向こう側の街並みもやたらと鮮やかであった。

そういえば、市の公報だったか自治体の回覧板だったかに、河川事業云々と書いてあったような気がする。私はさして気にもせず読み流していた。実際に眼前の光景はさっぱりと見張らしも良くなり、これはいいなと私はのどかな心持ちで軽く歩いていた。


いつもの場所に、コンは居なかった。丸刈りになった土手をいくら見渡しても、コンの姿は見当たらなかった。


やけにひんやりと冷たい風が微かな不安と共に私を遠慮なく吹き抜けていった。

臆病者のコンは隠れる場所を失ってしまったのであった。

どこに行っただろう。その日は結局コンの姿は見当たらなかった。

次の週末もその次もコンは居なかった。


もう会えないのかも知れない。

隠れた住処を失って、どこか別の場所に安息の地を求めたか、それとももっと良くないトラブルに巻き込まれてしまったのだろうか。それとも運良く親切な人に拾われたのかも知れない。いや、そうだとよい。


私は散歩の度に最悪の事態を想像して暗澹(あんたん)たる心持ちにならざるを得なかった。


その週末も半ば諦めながら歩いていた。

時折視界の隅で茶色いものが動く度に、はっとして凝視する。

それは大抵、誰かの捨てたごみ袋や紙切れが風に揺れているだけだった。

幾度かの勘違いにやれやれと苦笑して、また何かが視界の隅でもぞもぞ動いているのが見えた。

またか、と思いつつ、気配のした方を見た。

小さく弱々しくうずくまっているコンがそこに居た。不安と疲労に染まりきった目で、じっと私を見つめていた。

互いに言葉もなく見つめあったまま、幾ばくかの時が風と共に流れていった。


コン…。

初めて声に出して呼んだ。虚ろな力無い目で、コンは私をただ見つめていた。

よく見るとあのふかふかしていた毛並みが、見る影もなくボロボロに毛羽立っている。目の回りも雨露と目やにでひどく汚れていた。

悲しみに胸が苦しく、私はコンをとても直視し続けられなかった。

私はただ秋風の中で立ち尽くしているしか能がなかった。



やがて微かな、けれども確かに私を呼ぶ短い声が聞こえた。

コンが、精一杯に振り絞って、私に呼び掛けていた。

放っては行けない。

私はコンの首根っこを無造作に掴み、自身の胸元へ一気に抱き上げた。

コンの体は見た目よりも更にすかすかに軽い。

その余りの軽さに激しい動揺を催し、私はただただ焦燥感を胸中に充満させざるを得なかった。

コンは私の腕の中で一切抗う事もなく、ただくたびれた荒い呼吸をしながら汚れた目をしばたいて不安に狼狽えながら私にしがみつき動こうとしなかった。


普通ではない。体のどこかがおかしいに違いない。


なんとかしなくては。

焦燥感に胸が苦しく、溺れそうな危うさを覚えながら、私はただ立ち尽くしていた。

そうだ。病院だ。

この辺りにも動物病院が必ずあるはずだ。

この調子では、助からないかも知れぬ。しかし、このままじっとしている訳にはいかぬ。

しかし、動物病院を探そうにも、携帯電話を家に置いたままなのだ。

タクシーを拾って。しかし財布も持っていないのだ。時間がない。

誰か、誰か、散歩中の携帯電話を持っている人はいないだろうか。

見渡す限りに人影はなく、私は遊歩道を走り出すしかなかった。

この近くにもあるはずだ。最悪、橋の向こうの商店街もある地域にまで行けば、駅の近くでもあり人間向けの大きな病院もある。動物病院の一つも必ずあるだろうという頼りない思いでいつもの橋を目指して走り続けた。


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