追われて助けられて
「はっ、はっ……」
「待て! この泥棒小娘!」
ニーナは細い路地を逃げていた。息が切れ、心臓が締め付けられて悲鳴を上げている。けれど、足は止められない。先程角を右に曲がった時に、追手との距離がそうなかったのを確認していたのだ。空中へと逃げることも考えるが、追ってきていたのは、金翼の中年男性だった。筋力や体力では、走っても飛んでも敵わない。
(何で……こんな事になっちゃったんだろう)
――事の発端は、朝食を買おうと市場をうろついていた時の事だった。
昨夜手に入れた薬を服用し、自らの翼を抜けるような空と同じものにしたニーナは、生まれて初めて堂々と翼を見せて通りを歩いていた。あまりに心地よい気分だったので、翼を使わずに空を飛べてしまえるのではないかと思ったほどだ。
右も左も、世界のすべてが輝いて見えた。そんな光あふれる世界で、ひと際ニーナの目……いや、鼻を引いたのは露天に並べられた出来たてのパンの数々だ。朝食にふさわしい卵とハムを挟んだそれを見て、悩むことなくまっすぐに店に向かった。
ニーナは店に並べられていたパンを手に取り、「これください」と発しようとしたちょうどその時、隣に立っていた男に手を掴まれ泥棒と叫ばれたのだ。
もちろんニーナには盗む気などなかったので、三秒以上もの間自分の身に何が起きているのかを理解できなかった。マズイ状況だと認識出来た後はすぐに弁解を試みた。
慌てて手に持っていたパンを置き、自分は泥棒などではないと説明しようとした。だが、その様子が逆に怪しく映ったらしく誰も話を聞いてくれなかった。その後はニーナが逃げ出したのが先か、店員が目をつり上げて走りだしたのが先かといった状況になり…………今に至る。
ニーナは走りながら、ちらりと後ろを振り返った。できればもう追いかけてきていない事を祈って。……しかし、事態は悪い方向へと進んでいた。
(え……、一、二、三……って、嘘っ! 増えてるし!)
先程までは金翼の男性一人だったはずだ。けれど今ニーナの後ろに居るのは三人。いつの間にか増えていた。
その現実を見て心が折れかけたが、足だけは止めない。細い路地を抜けた先には大通りがある。そこに出れば、もしかしたら追手を撒けるかもしれない。追手が増えるリスクはあったが、もうニーナには可能性に賭ける以外に策がなかった。
路地を抜けるちょうどその時、目の前にスッと人が立ちはだかった。対応しきれなかったニーナはそのままその人にぶつかってしまい、その衝撃で、肩に掛けていた荷物がするりと落っこちた。
「……っ!」
顔をぶつけたが、さほど痛くない。
考える間もなく肩を掴まれ、ニーナは身をこわばらせた。
(しまった)
回り込まれていた。そう気づいたときには何もかも手遅れで、どこにも逃げ道はなかった。
「最低な奴だ」
頭上から降ってきた男の言葉に思わず顔を上げた。しかし視線が交わることはなく、視界に入ったのは滑らかな顎のラインだ。相手は、ニーナではなくニーナを追っていた男たちを見ていた。
几帳面に切りそろえられた、肩にかかるほどの濃紺の髪。それが顔に当たってややくすぐったかったが、ニーナにはそれどころではなかった。
「あ、貴方……」
「逃げんぞ」
ニーナの言葉はなかったことにされ、肩に置かれた手に力が込められた。
――その瞬間、妙な感覚が襲ってきた。くらり、と軽く脳が揺さぶられたような、そんな感覚。
(何、これ……)
生まれて初めての感覚に対応できず、固く目を瞑る。
「……おい。…………おい!」
「え?」
気が付くと、周りの景色が変わっていた。
狭苦しく並んでいた建物はなくなり、周囲は透きとおる青に静かに包まれていた。
体の側面に温かさに気付き、本能的に腕と翼に力を入れる。
「自分で飛べるんなら、もう大丈夫だな」
何が起こってこの状況になったのか整理する前に、男の声が聞こえてきた。
見ると、声の主であろう男が空と同色の――そして今のニーナとも同じ色の――翼を動かしている。
今まで地面に立っていたはずなのに、いつの間にかニーナは空を飛んでいた。何が何だか分からない事態ではあったが、この状況になる理由に、たった一つだけ心当たりがあった。空翼族の特技――瞬間移動である。
空色の翼を持つ種族は一瞬のうちに別の場所に移動できるのだと、ニーナも聞いたことがある。しかし聞いたことがあるというだけだ。元々少数しか存在しない空翼を、あの排他的なモンダ村でお目にかかれるはずもなく、その存在を自分の目で見るのは初めてなのだ。当然特技を見る機会もなかったので、どのようなものかは想像の範囲を出なかった。
一瞬感じためまいとありえない移動、目の前に居る空翼の青年。この状況から考えると、目の前を飛ぶ青年がニーナを連れてその特技を使った。そうとしか考えられない。
「…………あれ? お前、どこかで……」
ニーナの混乱をよそに、空翼の男は何かに気づいたようにそう言うと、ニーナの顔をジッと見つめた。そしてようやく自分が抱いていた違和感の正体にたどり着いたらしく、軽く目を見開いた。しかしそれ以上は何も言わない。
ニーナは彼に先んじて気づいていたので、苦笑いしか出てこない。
――互いに忘れることにしよう。昨夜そう言って別れた売人の男だったのだ。昨夜のやり取りはなかったことにしたはずなのだから、表面的には初対面という事になる。
気まずい雰囲気の中、ニーナは申し訳程度に頭を下げた。
「……どうも」
「……助けるんじゃなかった」
苦々しげに一言だけ残し、彼は姿を消した。その特殊能力のせいなのか、空翼族というのは突然現れ、そして突然消える種族らしい。
あっという間の出来事に、ニーナはしばし呆然としてしまった。そしてわずかな喧騒が耳に入り、ふと自分の立場を思い出す。
「いたぞ! あそこだ!」
「瞬間移動しやがったんだ」
敵意をたっぷり含んだ声はニーナの足下から聞こえた。
どうやらここは、先程の露天通りからほとんど離れていない空中だったらしい。
地上から何人かがニーナを追って飛び上がってきた。マントの下にあったその翼が露わになる。太陽の光を照り返し、荘厳な色を発している王者の色――金。それが複数追って来ていた。
(まずい! 早く逃げないと!)
その力強い発色と同様、金翼族は力のある者達だ。速さや力といった純粋な身体能力は炎翼族や緑翼族に引けを取るが、それでも七種族中三番目である。それになにより、数の力で圧倒しているのが金翼族だ。
人間のおよそ四割が金翼を有しているため、社会的に何かと都合がいい場面が多いのだ。そんな社会の状況が後押ししてか、自分達が一番実権を握っているという意識が強く、他の色を見下している節がある。
その上相手は全員男。少女であるニーナが喧嘩で勝てる相手じゃない。ニーナは急いで逃げ出した。
何故なのかは分からないが、ただ逃げているだけにも関わらず追手は増えるばかりだ。町にいる限り、関係ない人間すらも敵として自分を捕まえに動いてくるかもしれない。そんな考えが頭によぎる。
ニーナは町を出るためにひたすら人気のない方向へと飛び続けた。
「待てコラ!」
「……ッ!」
全力をもって逃げていたが、しかし思いのほかしつこく追いかけてきた男に捕まった。
「やっと捕まえたぞ。おら、来い!」
掴まれた腕を大きく振りなんとか逃れようとするが、相手の力が強まるばかりで一向に放れる様子がない。
(まったく歯が立たない)
よく見ればその男の来ている服は、街の警備隊のものだ。ニーナの全力でビクともしないのも頷ける。
「クズのくせに意外と力があるじゃないか」
まだまだ余裕だと言わんばかりの男の口調に、ニーナは半ば諦めかけていた。しかし。
「――そのセリフ、そっくりあんたにプレゼントしてあげるぅ」
「え……?」
ニーナのものでも、警備服の男のものでもない声が割り込んだ。
ニーナを掴んでいた男の手がバキッという耳障りな音とともに離れ、腕が軽くなる。見ると、男の腕は肘と手の間という不自然な位置で曲がっていた。
鈍い音が何発か続く。ニーナを捕まえていた男が別の男に殴られていたのだ。それも、一方的に。
突如現れニーナを救った男。その彼の容姿に、ニーナは少し驚かされた。
(また空色の翼)
彼の翼は珍しい空色。生まれてから昨日まで、一度も見たことがなかったのに、本日はなんと二度目である。
「ま、力があるといっても俺ほどじゃないけどね」
ひらひらと羽を舞い散らせながら、警備服の男は落ちていく。決着がついたらしい。
地面まではかなり距離がある。意識が残っていれば激突を避けるくらいに翼を動かせただろうが、様子を見る限りそれはなさそうだ。もう二度とニーナと会うことはないだろう。
「ほーら、そんな間の抜けた顔してないで、逃げるよ。すぐに追手が来るだろうから」
落ちて行く男を眺めていると、今の今まで戦っていたとは思えないほど緊張感のない声が聞こえた。
彼の顔には僅かな笑みが浮かんでいる。柔らかな雰囲気が溢れていて、やはり戦闘直後とは思えない。
「居たぞ! あそこだ!」
目で確認できるほどの距離で、数人の男がニーナを指差した。
「あららーん、お早い到着で」
どこか楽しそうにも聞こえる声色で男はそう言った。
とにかく逃げなければと身をこわばらせたニーナ。けれどニーナはそこから動くことができなくなってしまった。なぜなら柔和な笑みを浮かべる男に抱き締められていたからだ。
「あの……」
全力で抵抗して逃げるべきなのかもしれない。追手はもうすぐそこまで来ているのだ。なによりも、この目の前にいる男が敵でない保証もない。しかし先程助けてくれたこともまた事実で……。
敵意を感じなかった相手に拘束され、どうすればいいのか戸惑ってしまった。
「……十秒」
ニーナの耳元に口を寄せ、男は小さく言った。
「はい?」
「十秒だけ目を閉じて、俺に身をゆだねて。良い?」
優しい言い方だった。両親からしかそんな風に言われたことはない。
追手に捕まったらどうなるか分からないが、この男に付いて行ってもどうなるか分からない。分かっていることは一つ――。
(迷ってる時間は、ない)
追手は敵である。それだけは確かな事だった。
今は、この男を頼るほかない。ニーナはギュッと目を瞑った。
そんなニーナの様子を肯定と受け取った男は、ニーナを抱えたまま翼に力を集中させた。
「じゃ、行くよ」




