5輪目
彼女は、唯一、持ってきてもらうことが可能だったそれに、ゆっくりと指先を滑らせた。
かさりとした感触が、慣れ親しんだものでほっとする。
水分を失ってなお、色鮮やかなそれ。
私の思い。
私の想い。
それを象徴するかのように、色褪せない。
彼は、覚えているだろうか。
*****
「…もし、そうだとして…、マクミール公爵は関係ないだろう」
ジルベスタの言葉に、ラシューケはわからないのかと言わんばかりの表情を向けてきた。
「関係ない? 殿下、本気でそれを仰られているのですか? もし、エヴァンジェリン嬢に何一つ瑕疵がないとして、何故彼女がそのような行動にとったのか、想像できませんか? 彼女にそのような命令をできる存在を、想像出来ませぬか? エヴァンジェリン嬢が何かしらの理由でそう動き、婚約破棄されたとして、それをかの家が許すと本気でお思いなのですか? 今までの忠誠を裏切るのかと激高するならまだしも? それにエヴァンジェリン嬢がかの令嬢にされたことはこれからもありえるものばかりです。当たり前でしょう! 妃になるためにどれほどの時間をかけ、勉学に励んできたとお思いですか? それを愛という言葉で無にされるのです。逆らうことができないのだとしても、国のために必死になっていた彼女が我欲を優先すると? 彼女のすることは殿下…ひいては国のためだと我々だって知っているというのに? もし、エヴァンジェリン嬢のしたことに音をあげているようであれば、殿下のお選びになられたご令嬢はこの先やっていけないでしょう」
「許容範囲だと貴様は言うつもりか!? ラシューケ、貴様はマリアンヌがどのような目に遭ったか知らないからそう言えるのだ!!」
「ですが結果、誰かしら駆け付けたがゆえに彼女は無事で、殿下がご存じなのでしょう?」
「っ―――」
確かに、ラシューケの言うことは間違っていない。マリアンヌが危ない目に遭う直前に、誰かが助けに入っているのだ。そしてその一部始終をジルベスタに報告している。そして不思議なくらい、犯行を行ったものはエヴァンジェリンに繋がったのだ。
今にして思えば、どう見ても仕組まれたものなのに。
「きっと、公爵は調べることでしょう。なぜ、娘がそのような行動をとったのかを。そして気づかれるのでしょう。王家の、明るみになっては困る真実を」
そうさせないために、どうするのか。
自分を愛する彼女が、どうするのか。
「う、そだ」
「殿下」
「うそだ!!」
ジルベスタの喉から絶叫が走る。
「ではラシューケ公爵、お前が言いたいのはなんだ!? 陛下が、父がっ、愛人の子を娘にしたいためにエヴァに働きかけたと!?」
「…」
「そして面倒ごとを起こしそうな公爵家を陥れたと!?」
「…殿下」
「そんな、そんな恐ろしいことが実際に起こったと、そう言いたいのか!?」
ジルベスタの吐き捨てるような言葉に、ラシューケは落ち着いた声音で話す。
「…殿下、マクミール家の献身は我ら貴族であれば誰もが知っていることです。だからこそ、おかしいと思ったのです。全てが真実であるかどうかはわかりませんが、もしこれが本当であれば、貴族の大半は王家への不信を示すでしょう。いくら忠義を誓っても、裏切られると知ってしまったのであれば」
それは当然だ。だからこそ、王家は貴族への忠義や献身に応えなくてはならない。そして王家は、その権力を我が物にしてはならない。
それを、両親は破ったのだとすれば。もし権力を、そんなことのために使用したのだとすれば。それでずっと支えてくれていた貴族を、消したのだとすれば。
そのために、人ひとりの人生を壊したのだとすれば。
「…エヴァ、に…会わなくては…」
ジルベスタは譫言のように言った。そうだ、会わなくてはならない。会わないまま、終わってはならない。
ふらふらと足元の覚束ないジルベスタを、ラシューケは可哀相なものを見る目で見送っていた。
「エヴァンジェリン・マクミール」
「…殿下」
そこは石でできた牢屋だからなのか、暗く冷たい場所だった。幾人の嘆きを聞き続けたのか、壁や至るところに叫びや涙が浸み込んでいるようにジルベスタは思えた。正直に言えば、このようなところには少しも居たくなかった。
しかしそんな場所に在っても、彼女は静かに格子から見える外を見上げていた。
「エヴァ…」
「如何、されましたか、殿下」
エヴァンジェリンは、何時もと変わらぬ様子でジルベスタに聞く。表情と声音だけを見れば、いっそ穏やかにすら見えてしまうのはなぜだろうか。
―――少なくとも、処刑を待つ人間の顔には見えなかった。
「―――エヴァ、君は、知っていたのか…?」
ジルベスタが喘ぐようにして、ようやくその一言を口にする。しかし、エヴァンジェリンは口元に笑みを湛えたまま答えない。
「エヴァ!! 君は、知っていたのか…!?」
「何を、でございますか?」
澄んだ泉のような声音に、ジルベスタ驚いてエヴァンジェリンをまっすぐに見た。そこには、怒鳴ったジルベスタを前にしても変わらず微笑みを浮かべるエヴァンジェリンの姿がある。
「な、にを…? 私が本物ではないこと、マリアンヌが、本物であることだ!!」
「本物…ですか」
ジルベスタはすぐさまエヴァンジェリンが知っていることに気づいた。伊達に長年の付き合いをしていない。
だからこそ、その反応に苛立ちを感じた。
「答えろ!! エヴァンジェリン!!」
「―――何も、知りませんわ?」
「っ…嘘を、嘘を吐かないでくれ…!! もし、もし本当だとすれば、王家は、王家は…無罪の人々を断罪したんだ…!!」
ジルベスタには信じられなかった。自分の家族が処刑されたというのに、どうして彼女は平然としていられるのだろうか。どうして、知っているのに知らないというのだろうか。
血反吐を吐くように叫ぶジルベスタに、エヴァンジェリンは不思議そうな顔をした。
そして。
「…殿下が仰りたいのは、殿下は本物ではなく、あの小娘が本物で、私やマクミールが無罪、ということでしょうか?」
「っ…そうだ」
確認するように言われるそれに、ジルベスタの心臓は痛む。それが事実だとすれば、王家は国を、民を、すべてを欺き、そして裏切っているのだ。
しかしエヴァンジェリンは美しい笑みを浮かべ、言い放った。
「いいえ、殿下。そのような事実、ござませんわ」
「な、に…」
「殿下は正しく陛下の御子であり、ローガルデ嬢に嫉妬した私は彼女を害そうと画策いたしました。マクミールも、献身を捧げる裏側で不正を行い、その甘い蜜を啜っていたのです」
「エヴァ!! 本当のことを言ってくれ!!」
嘘だと、わかる。
それくらい、彼女を見てきたのだから。
「殿下にそのような戯言を吹き込んだのは誰でしょう…。ラシューケ公爵あたりでしょうか」
「っ」
「殿下、真実を見極めてくださいませ。吹き込まれる全てが真実ではございませんわ」
「エヴァっ!! 頼むから、本当のことを話してくれ!! ずっと一緒だったろう…!?」
ジルベスタが縋るように言うと、エヴァンジェリンは少しだけ困ったように眉を下げ、そして微笑んだ。幼いころのあの日のように。
「―――もし、それが真実だとして。でも誰も救われないとは思われませんか、殿下」
「な、にを言っているんだ…」
「殿下、ラシューケ公爵はそれを疑われているようですが、彼の仰ることは真実ではございませんわ」
「君はっ!! 処刑されてもいいというのか!!」
ジルベスタは堪えきれずに冷たい牢の格子を掴む。
なぜ、なぜエヴァンジェリンは頑なに認めようとしないのだろうか。
「―――殿下、私たちは、共に国を支えようと誓いましたわね。…では少しお考え下さい。もし、それが真実だとして、国がどうなるのか、考えられましたか?」
「…」
ジルベスタは愕然とした。それは当たりまえだ。そんなことが少しでも民にばれようものなら、国がどうなるのか想像に難くない。少なくとも、現王家は文字通りなくなるだろう。
「殿下。私たちは、とても長いこと一緒に机を並べましたわね。国のためにと。殿下であれば、私は安心し国を任せられますわ。道を間違えてしまいましたこと…深く、深くお詫びいたします」
そう言ってエヴァンジェリンは頭を深く下げた。
それは、エヴァンジェリンが自分と共に国を支えることがないのだと、ジルベスタは理解してしまった。そして、そうしてしまったのは自分たちであると。
ジルベスタの目から、涙がこぼれた。




