運命
走っていった櫻子を、追いかけようとした。
だが、櫻子が上って行った階段の上から、どろりとした黒い液体が流れ落ちて来た。
流れ落ち、這い上り、床も、壁も、天井も黒く染めながらこちらへ向かって来る。
これは……穢れ、だ。
本能がそう訴える。
触れてはならない。近寄ってはならない。
九字を切ったが、古森医院の黒い霧の時のように霧散はせず、表面だけがたぷん、と揺れる。
ノーダメージだ。
廊下を逃げようとすると、向こうから佐東さんと環奈がニヤニヤと笑いながら、黒い液体を飛び散らせこちらへと向かってきた。
どうすればいい? どうすればいいの?
『琴蔵、そもそもお経なんていうのはね、本当は、それ自体にはそんなに力があるものじゃないの。どんな宗派のお経でも、祝詞でも、聖書の朗読でも、一番の効果は、唱える人の心を落ち着けて、精神統一できるってことなのよ』
修行中、慎二が言っていた言葉を思い出す。
『そして、信じること。自分の力を。神の、仏のご加護を。そうすれば、怖いものなんてもう何も無いわ。人生、気合と根性よ!!』
気合と根性、そして、信じること。気合、根性、信心。
半眼になり、唯一覚えた般若心経を唱える。
途中、度忘れしてしまった箇所もあったが、心が落ち着いてきた。
後は、気合、気合、気合、気合、気を放つのだ。「ダァァァァーーーーッ!」
叫んでみると、一瞬、佐東と環奈の姿が歪み、黒い液体はぷるるん、と震えた。
だが、それだけだ。
「ダメじゃん!」
いや、一瞬怯んで動きが止まったような気もするから、何もしないよりはマシなのか?
「ぶるぁぁぁぁっ!」「ガルルルル」「フォーッ!」「ぽえぽえ~」
あらゆる叫びを試してみた結果、とりあえずへその下、丹田に力を込めて大声を出すと、一瞬だけ奴らの動きを止める事ができるという事が判明した。
そして、長い叫びでは無く、吸い込んだ息を「ハッ!」と一気に吐き出すような、短い発声のほうが効果があるようだ。
だが、これは……恥ずかしい。かなり恥ずかしい。
これだけ騒いでいるのに、教師の一人も出てこないという事は、恐らく他の人に聞こえてはいないのだろうが、確信は持てない。もし聞こえていたとしたらかなり恥ずかしい。
いや、恥ずかしがっている場合じゃ無い事はわかっている。
だが、これじゃあまるで中二病……そう、まるで貴史のようだ。
そうだ、貴史はどうしているのだろう? と、玄関のほうに目をやると、霊がこちらに集中しているのを良い事に、琴子達を犠牲にして反対側の階段へと走っていく所だった。
「ちょ……ありえないんですけど!」
怒りが募るとパワーも増すようで、今まではちょっと怯んだだけで徐々に距離を詰めてきていた黒い液体や、佐東や環奈が、わずかながら後退した。
そこに、和人が入れてきた合いの手、いや、逆合いの手と言うべきか? が、怒りに拍車をかける。
「あっのっころ~は♪」「ハッ!」「ふったっりと~も♪」「ハッ!」「あっのっころ~は♪」「ハッ!」「ふったっりと~も♪」「ハッ!」
琴子が気を発するタイミングに合わせ、歌のようなものを歌っている。
意味が分からない上に、ずっと同じ部分の繰り返しなのだ。
2階へ上がると、穢れは廊下には無く、階段のみに集中している。
今なら逃げられる。逃げるか、それとも……。
いや、今逃げても、いずれは琴子も命を狙われる事になるだろう。
それならば今、決着をつけてしまったほうが……。
「琴子さん、どっち?」
足を止め、悩んでいる琴子に、和人が問いかける。
「……上」
「よしきたっ!」
琴子を軽々と抱え上げ、和人が階段を駆け上がる。
黒い液体を踏みつけ、数多の霊体をすり抜けて、だ。
「え? ちょ、うぎゃ~~っ!」
悲鳴を上げる琴子にかまわず、和人は駆け上がる。
「僕は見えてないからへい、痛っ! 平気。痛っ! いたたたたたっ! 琴子さんは目を瞑ってて!」
そうは言われても、琴子は目標を視認していなければ何もできない。
和人の足元、ほんの数センチ先へ「ハッ!」と気を放つが、表面に波紋ができるだけだ。
和人の上履きの白い布が、鮮血に染まっていく。
和人が一歩前へ進む度に、ぐちょ、と音がして、上履きの隙間から血があふれ出てくる。
無力感と恐怖で涙が溢れ、結局何もできなくなり顔を両手で覆った。
「助けて!」という声に目を開けると、既に屋上に到着していて、不自然に切り取られたようなフェンスに向かい、貴史が走っている所だった。
あぁ、お姫様を助けるのはやはり王子様なんだなぁ、と、現実感を伴わない思考が過る。
王子が跪き、お姫様の手を取り、引き上げようとしている。
突然、強風が吹き、何かが陽の光できらりと反射した。
琴子の、まとめられていない後ろの髪が風に巻き上げられ、何が起きたのかはっきりと見る事はできなかった。
風の音と、何かが割れる音。そしてかすかに、ゴトリ、という重い音が聞こえただけだった。
風が止んでから再び、何かが軋む音が聞こえ、琴子は前方に放り出される。
後ろからかなり大きな音と振動が伝わってきたが、前方から目を離すことはできなかった。
王子様の首から上が、無かった。
切り口からは、その鼓動に合わせ、血がびゅくびゅくと溢れ出ている。
何が起きたのだろう。あれは何だろう。
キンキンと、頭に響く悲鳴。
うるさい。
立ち上がり、ソレに向かって歩く。
視線を逸らさず、瞬きもせずに。
ソレは、しばらくぴくぴくと痙攣を繰り返し、姿勢を変えずに下へと落ちていった。
頭に突き刺すような悲鳴も、ソレと共に遠のいていく。
何だこれは。何だこれは。何なんだ。
運命のはずだった。
たとえ今は他の女に心を奪われていても、最終的には自分の元へと来てくれると思っていた。
それなのに……。
運命の人。
絶対的運命。
そう思っていたのに。
運命なんて、存在しないのだろうか。
――――いや、一つだけ、確かな運命がある。
琴子は知っている。イヤという程、知っている。
人はいつか、必ず死ぬ。
それだけは誰もが逃れようのない運命だ。
真紅の線を引き転がっている、王子様の首を見つめる。
見開かれた、くっきりとした二重の大きな目から、涙が一筋こぼれ落ちた。
指を伸ばし、その涙をぬぐい、瞼をそっと閉じさせる。
「もう、いいよね」
ポケットから、慎二に貰った銅剣を取り出し、布を解く。
「こいつら、消してもいいよね、慎ちゃん」




