揺らぎ
大切な存在を失くして現実が辛すぎるので甘々回にしてみたけれども、書いててバカじゃねえのこいつら!と思ってしまったりして、いやでも脳内お花畑の時ってこんなんじゃなかったっけ違ったっけ???
マンション前で、琴子はやっと自分の足で地面を踏みしめた。
大変な事が起きているのは理解できている。
佐東が死に、環奈と長瀬、次いで田仲まで、琴子達が何も成果を出せないうちに死んでしまった。
なぜか、人の死に対してさほど動揺はしていなかった。
心に膜がかかっているように、遠い世界での出来事のように、心が動かなかった。
なのに、今は動揺しまくっている。
まともに和人の顔を見る事ができない。
27階に上がるまで、無言で自分の前髪を引っ張り続けた。
玄関ドアには、赤く、5本の線がいくつも描かれていた。
まるで、血まみれの指で引っ掻いたかのように。
だが、おかしな気配は感じない。
鍵を開け、中に入ると、リビングのソファーに貴史が座っていた。
無事な姿を見て安堵するが、その膝の上に、櫻子の頭が乗っている。
「どういう状況なわけ?」
貴史が人差し指を自分の唇に当て、小声で囁く。
「しー。泣きつかれて眠っちまったんだよ」
「ふぅん、人の家で、二人きりで、膝枕、ねぇ。お邪魔だったかしらね」
嫌みのつもりで言ったのだが、貴史は照れたように微笑んだ。
今までに見た事の無いような、優しい笑顔だった。
もう確認するまでも無い。
貴史の想い人は、櫻子なのだろう。
貴史を軽く睨んでから、慎二の仕事部屋に入り、祭壇に供えてある一升瓶を手に、玄関へと向かった。
「琴子さん、やけ酒? ダメだよ、お酒は20歳になってからね」
後ろからバカな事を言いながら付いてくる和人を無視し、洗面台の下からバケツと雑巾を取り出し、外に出る。
手袋をつけ、バケツに惜しげも無く日本酒を注ぎ、雑巾を浸してからドアの赤い汚れを拭いた。
一拭きしてから雑巾を畳み直そうと広げたが、拭いた箇所のドアの汚れは消えているのに、雑巾には汚れはついていない。
「琴子さんも、泣きたいなら僕の胸でも膝でも貸すよ?」
また変態がバカな事を言ってるので、それも無視。
何度か雑巾を酒で洗いながらドアを拭く。
ここを襲撃した悪霊は、背が高いのか、それとも宙に浮いていたのか、琴子の手の届かない、結構高い位置にまで汚れがついていた。
背伸びしても届きそうにない。
伸ばした右手の上に、和人の右手が重ねられる。
「貸して」
和人は琴子の手から雑巾を奪い取り、上のほうを拭き始める。
背中に和人の温もりを感じた。
泣きそうになる。
「なんでそんなに優しくするの? 私、タカが好きだって言ってんじゃん」
和人は一旦手を止める。
「下心があるから。脈ありだと思うから」
「脈なんか無いよ。私はタカが好きなの。カズの事なんて、ただの変態だとしか思ってないから」
また拭き掃除を始めながら、和人は溜息を吐く。
「さすがに……僕でも、それは傷つくかな。……よし、これできれいになった」
八つ当たりだ。
和人を傷つけてしまった。
自分が情けなくて涙が出てくる。
「ふぇ……」
「え? こ、琴子さん?」
「ふぇええぇぇ~~ん」
「えっと、どうしよう。もしかしてお酒の匂いで酔っぱらった?」
「えぐっえぐっ」
振り向いて、和人のTシャツで涙と鼻水を拭く。
和人は左手で琴子の背中を抱きしめて、琴子の頭の上に顎を乗せた。
「まいったねぇ、こりゃ。……だから僕にしときなって言ってるでしょ」
そうできたらどんなにいいだろうか。
いや、そうしたほうがいいんじゃないだろうか。
「どうして、そんなに優しいの?」
重ねて聞く。
「脈、あるよね。琴子さんは僕の事が嫌いじゃないし、チョロ……いや、恋愛経験が豊富じゃなさそうだから、ちょっと揺らいじゃったりしてない?」
脈、あるかもしれない。ちょっと揺らいじゃったりしてるかもしれない。
「僕は琴子さんを諦めるつもりは無いし、これからもずっと琴子さんだけに優しくするつもり。琴子さんを、運命の相手だと思ってるからね。タカの事忘れるまで、ちゃんと待ってるから」
運命の相手、という言葉に反応して顔を上げた琴子の額に、和人は軽くキスをした。
かなり、揺らいだ。
と同時に、ひらめいた。
「そうか。タカも私の事嫌ってないし、私がかわいく優しく接していれば、私に揺らぐ事がある……かも? 諦めずにいれば、あるいはそのうち……。よっしゃーっ! 気合入ったーっ! カズ、ありがとう!!」
「しまったぁぁぁぁ~~っ!」と叫んでいる和人を尻目に、急いで戻り、顔を洗った。
少しして、バケツを戻しに来た和人の姿が鏡に映る。
「そんなにすぐに洗わなくても……。傷付くなぁ」
意味がわからず首を傾げるが、すぐに思い出して額に手を当てる。
「や、ちが、これは、ちがいましゅ! 泣いちゃっちゃきゃら、目、腫れちゃっちゃらヤらちょ思って!」
和人は笑いながら頷いた。
「しょ、しょれより、田仲きゅんの事、櫻子にはまだ伝えないほうがいいよね?」
「……ユーマが、どうかしたの?」
鏡越し、和人の背後に立つ櫻子と、目が合った。
櫻子の隣には、貴史が心配そうに寄り添っている。
目を瞑り、深く息を吐きだし、観念して話そうと振り返った時、玄関ドアの開く音がした。




