第一話 最初の商品代金(コスト)
「グルァッ!」
放たれた獣の一撃を、俺は紙一重でかわした。
警備員として長年培ってきた「不審者の挙動を読む」感覚が、異世界の魔物相手にも辛うじて機能している。だが、それも長くは持たない。
この体は、35歳。運動不足。そして、レベル1。
肺が焼けるように熱い。
俺は手に持った「尖った石」を強く握り直した。
目の前の『通販』画面には、相変わらず「残高不足」の文字。
この世界は、一歩も歩かせてくれない。
「……来るなら来いよ。お前を倒さない限り、俺の明日はねえんだ」
獣が再び跳躍した。
俺は逃げるのをやめた。回避ではなく、前への踏み込み。
警備の現場で叩き込まれた、最短距離での迎撃姿勢だ。
獣の牙が俺の肩をかすめ、熱い痛みが走る。
だが、その代償に俺は、獣の喉元へ全力で石を叩きつけた。
「ガハッ……ッ!」
鈍い感触。
何度も、何度も。
女に貢いだ金、奪われた時間、踏みにじられた自尊心。
そのすべてを怒りに変えて、俺は馬乗りになって石を振り下ろし続けた。
どれほどの時間が経っただろうか。
獣が光の粒子となって消え、その跡に小さな紫色の結晶が一つだけ転がっていた。
「……はぁ、はぁ……これが、魔石か」
拾い上げると、親指の先ほどの大きさしかない。
だが、それは俺にとって、このクソみたいな世界で初めて手に入れた「信用できる資産」だった。
俺は震える指で、ステータス画面を表示した。
まるで最新の8インチ高細密タブレットのような、クリアな視認性。
右上の残高カウンターが、カタカタと音を立てて更新される。
【所持魔石:1】
「……やっとだ。やっと1個だ……」
俺は食い入るように『通販:Lv.1』のカタログをスクロールした。
魔石1個。これだけで買えるものを探す。
• 天然水(500ml) ×1:1魔石
• 粗末な乾パン(1袋):1魔石
• お徳用割り箸(10膳):1魔石
• ……
「おい、嘘だろ。命を懸けて倒して、買えるのが水一本かよ」
あまりのレートの低さに眩暈がする。
だが、この渇いた喉を潤すには水を買うしかない。
俺が「天然水」の購入ボタンに指を伸ばそうとした、その時だった。
カタログの最下部。
普段なら読み飛ばしてしまうような、小さなシステム通知が目に留まった。
【通知:未振分けのリソースがあります】
その文字をタップした瞬間、俺の全身から血の気が引いた。
====================
【能力値アップグレード(Global Level up)】
・レベル1 → レベル2 への昇級
【必要魔石:1】
====================
「…………は?」
思わず声が漏れた。
レベル上げ。RPGの基本中の基本。
普通、魔物を倒せば勝手に「経験値」が入って上がるもんだろ?
だが、この世界のステータス画面は、冷徹な表計算ソフト(Excel)のように俺に突きつけてくる。
**「お前の肉体を強くしたければ、その魔石を支払え」**と。
「……っ、ふざけんなよ……!」
俺は、手の中にある唯一の魔石を見つめた。
今、この魔石で「水」を買わなければ、俺は数日以内に渇死するかもしれない。
だが、魔石を「レベルアップ」に注ぎ込まなければ、次に魔物と出会った時に生き残れる保証はない。
喉の渇きか。肉体の強度か。
異世界は、俺に甘い夢を見せる気なんてさらさらないらしい。
ここにあるのは、現代社会よりも遥かにシビアな、魔石による階級社会だ。
「ハハッ、最高じゃねえか。どこまでいっても金(魔石)かよ」
俺は、乾ききった唇を歪めて笑った。
女に貢いでいた頃は、金を払っても何も残らなかった。
だが今は違う。魔石を払えば、確実に力が手に入る。
俺は決めた。
水なんて、そこら辺のツタでも絞って飲んでやる。
俺の指が、【レベルアップ】のボタンを強く叩いた。
【魔石×1 を消費しました。レベルが 2 に上昇します】
瞬間、全身の細胞が沸騰するような熱波が駆け巡る。
「……よし。次は2匹だ」
絶海の無人島、深夜二時。
35歳のオッサンは、一円……いや、一魔石の無駄も許さない「効率厨」の修羅へと変貌を遂げようとしていた。




