3:事故なの? 事件なの?
私の住むヴァンダイク侯爵邸はコの字型の三階建てだった。
南向き正面玄関のある中央棟、その両端から直角に北側へ延びた西翼と東翼で中庭を囲む構造になっている。
全体がやや煤けた赤褐色の赤煉瓦で覆われ、中庭には、チューリップの植わった花壇が春を迎えて彩り豊かだ。
中央棟の広間を抜けて裏口から中庭に出れば、すぐにその悲惨な情景が目に留まった。
西翼の壁際に、黒いお仕着せ姿の女性が仰向けに倒れていた。
遠巻きに見守っているのは、侍従やメイドたちだ。
誰も助けようとはしていない。
一目見てもう手遅れだということがわかるからだろう。
私とアレクセイは花壇を回り込み、西翼の壁に近づいた。
遺体は西翼の壁に頭を向け、花壇側に足を向けて倒れていた。
頭は壁すれすれの位置に、足は花壇の上にある。
近づくにつれ、ひどく歪んだ表情の顔がはっきり見えた。
「ケイラだわ」
私は足を止めた。
自分の声が震えていることがわかった。
遺体を見るのは初めてではない。
この世界ではまだ医療や科学技術が充分に発達しておらず、人の死は生活の一部でもあった。
それでも、こうした悲惨な死の場面に出くわすことは少ない。
ミステリー小説や漫画の中では死体はただの記号として扱われるが、これは現実の話だ。
「使用人ですか?」
私の肩に手を置いて、そっと後ろに下がらせたアレクセイが尋ねる。
「ええ。リプリー男爵家出身の令嬢で、妹の侍女です」
私は冷静さを取り戻そうとしながら言った。
殺人事件を起こすはずだった使用人は、随分前に適当な理由をつけて解雇し、別の就職口を世話した。
それなのに、原作で事件が起こり始めた時と同じ婚約破棄のタイミングで死人が出るなんて。
これは事故なのか、事件なのか?
リプリー男爵家は当主の散財で没落し、身売り寸前だったケイラを母が雇い入れたと聞いている。
原作ではケイラという名前の使用人は表舞台には出てこない。
(まさかここが推理小説の中だから、世界が事件を必要としている……なんてことではないでしょうね?)
妹を助けたせいで、ケイラが身代わりになったのではないか。
そんな考えが私の頭をよぎった。
アレクセイは私の前に出て、ケイラの遺体のそばに跪いた。
そっと首筋に手を触れている。
「脈はない。まだ温かいな」
乱れた黒髪が、首の下に広がっていた。
髪が血でひどく汚れているので、頭部に外傷がありそうだ。
アレクセイは自分の袖を少しめくった。
そこには、最近王都を中心に出回り始めたネジ巻き式の腕時計があった。
「午後2時42分か」
アレクセイが顔を上げて、集まっている使用人たちに声をかけた。
「誰か、落ちるところを見たか?」
「私が」
使用人たちの輪から少し後ろに控えていた一人が、手を上げた。
さっき私たちに急を告げた小柄な高級使用人だ。
「そうだったね」
アレクセイは頷いた。
「名前は?」
「アーチボルトです」
高級使用人は下位貴族家門の出身者が多い。
アーチボルトもその一人だ。
彼は騎士を多く輩出してきた子爵家の五男で、父や兄と同じく騎士を目指したものの小柄な体格のせいで夢叶わず、ヴァンダイク侯爵家で働き始めた。
蜂蜜色の髪に少し垂れ目の優しげな外見で人当たりも良い。
生真面目に仕事をこなし、将来有望だと侍従長から聞いていた。
アーチボルトは尋ねられる前に、興奮した様子で自分から説明した。
「ホレイショ様のお部屋を片付けている時に、換気のためいつものように窓を開けましたら、正面に西翼にあるアビゲイルお嬢様のお部屋がありまして、一瞬、窓から人のような大きなものが落ちたように見えたのです。それで、窓から顔を出して、一階にいる使用人を呼んで、確認してもらったらやはり人だというので、急いでお知らせしました」
ホレイショが逗留している部屋は東翼の三階にある。
アーチボルトの言った通り、アビゲイルの部屋はそのちょうど向かい側だ。
「それであんなに早く報せに来られたのね」
私は納得した。
音が聞こえてから、アーチボルトが応接間に来るまでの時間が短すぎた。
下にいて、誰かが落ちるのを見てから応接間に走って上がって来たのなら、私が立ち上がって扉に駆け寄るまでの間に扉の前には立っていることはできない。
彼が三階にいたというのなら、辻褄は合う。
アレクセイは西翼の壁を見上げた。
「この上がアビゲイル嬢の部屋?」
「ええ。真上です」
私が答えると、アレクセイは壁と、ケイラの遺体を見比べた。
それから、手を伸ばして壁の煉瓦に触れる。
「何か疑問点でもあるのでしょうか?」
私が尋ねる。
「僕が遺体を検めたのが午後2時42分でしたね」
彼はもう一度、記憶に留めようとするかのように復唱した。
「午後2時頃には、僕たちは侯爵と応接間で話し始めていました」
彼は遺体の見開いた目にそっと手を伸ばして調べていた。
それから、衣服を少し緩めて、首の周りや手足を確かめた。
「うん、やはりまだ温かいな。亡くなって時間はそれほど経っていない。だが……」
アレクセイは首を傾げた。
なにか不審なことを見つけたように思えた。
彼は私の後ろにいる自分の護衛に手招きした。
「少し手伝ってくれ、ウィラー」
アレクセイは遺体を少し動かして、背中側が見えるようにした。
遺体をその姿勢のまま護衛が支え、アレクセイが背中のボタンを外して、肌を調べる。
首の後ろから背中にかけて、紫赤色のモヤモヤした模様があった。
私は思わず息を詰めた。
アレクセイはその模様の上に指を押しつけて、離した。
その一瞬、模様が消えた。
「それは……死斑ですか?」
彼に尋ねた私の声が、思わず震えた。
「そうです。よくご存じですね」
アレクセイはチラリと私を見た。
前世で読んだミステリー小説に何度も出てきました、とは言えなかった。
「領地内で起こった事件については父のヴァンダイク侯爵が司法執行官を務めることになるのですが、私が事務的な処理を担当しているのです」
私は半分本当の話に、半分嘘を交える。
「領民の遺体を調べた書類で、読んだことがあります。実際に見るのは初めてです」
事務処理の話は本当だが、死斑という専門用語の書かれたものがあったかどうか、よく思い出せなかった。
詳しく訊かれたら忘れたと言って誤魔化すしかない。
「なるほど」
アレクセイは私の説明に納得してくれた。
「僕も同じです。父のグラント公爵が領地の司法執行官で、僕が補佐をしています。領内の不審死に関しては、僕が実地で調査することもあります」
アレクセイは背中のボタンをかけ直して、遺体を元通りの位置に置いて立ち上がった。
そして、遠巻きにしている使用人の輪の向こうに、恐る恐る顔を覗かせる私の父を見つけた。
「ヴァンダイク侯爵。警護兵を呼んで、中庭を封鎖して現状のまま保全をお願いします。可能であれば、絵心のある人頼んでに遺体の状況をスケッチしておいてもらえますか? それから医者を呼んで遺体を検分し、詳細を記録しておいてください」
戸惑った顔をしている父に向かって、彼は言った。
「この女性は、殺された可能性があります」
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