2:小公爵登場
妹のアビゲイルにも婚約者がいた──というより、婚約者候補と言うべきか。
二年前に縁談が来た時、アビゲイルはまだ14歳だったので候補のまま保留となっていた。
私より二歳年上で、強面のアレクセイ・グラント──次期グラント公爵。
グラント公爵家は代々宰相や外交官を輩出してきた名家だ。
当初は公爵夫人になれると喜んでいたアビゲイルだが、何度か顔合わせするうちに小公爵とは話が合わないと言いだして、次第に会うことを嫌がるようになっていった。
ホレイショのことがなくても、いずれは破談になったはずだ。
本来の物語では、このアレクセイ・グラントが探偵役を務めていた。
私が妹の死を未然に防いで彼の活躍の場を奪ってしまったが、探偵を必要としない世界の方が平和でいい。
アビゲイルとホレイショの熱愛告白があった数日後、私たちはグラント小公爵と応接間で向き合っていた。
アビゲイルとの婚約予定を白紙に戻す件について、父はまず手紙で打診したのだが、返事よりも先に本人が直接来訪したのだった。
「誠に申し訳ございません」
ヴァンダイク侯爵である父は、何度目かの謝罪を口にした。
私と妹のアビゲイル、そして父の三人は長椅子に並んで座り、ローテーブルを挟んだ対面のソファにはアレクセイ・グラントが一人で腰掛けている。
濃い髪色をしたアレクセイは、逞しい身体つきのせいか威圧的に見えた。
後ろに控えている護衛も屈強そうだが、雇い主も同じぐらいに身体を鍛えていそうだ。
アレクセイの灰色の瞳は父の頭に向けられていた。
もしかしたら、少し薄くなった頭頂部分について考察を巡らせているのかもしれない。
私が前世で読んだミステリー小説は、部屋の内装や家具、人物像に至るまで、探偵が延々と思考を垂れ流す冗長な文章で綴られていた。
『ソファは上質だが、年月を経てやや弾力を失っていた。丁寧な綻びの修繕跡から、この家族の生活の姿勢が窺い知れて好感が持てた。決して貧乏ではないが、今有る物を大切にし、いたずらに浪費はしない。それは二年前、是非ともこの家門と縁を繋ぎたいと思った理由の一つだった。ヴァンダイク侯爵は薄くなりかけた茶色の髪をきっちりと固めた頭をやや下げて、謝り続けた。焦燥感漂うその表情から、彼の心が公爵家の機嫌を損なうことへの心配で一杯なのだとわかる。その右手側に座った娘は父親と同じ茶色の髪と鳶色の瞳をしていた。背筋を伸ばし、私の方を真っ直ぐに見つめるその目に、意志の強さを感じた。父親の左手側に座ったアビゲイル嬢は、悪いのは自分だと涙ながらに語り、ハンカチを目に押し当てて泣き続けている』
などと勝手に相手の心の中を創作していると、ふとアレクセイの口元が緩んだ。
「わかりました。アビゲイル嬢との婚約の約束については、破棄を受け入れましょう」
彼の告げた意外な言葉に、私は驚きつつも安堵した。
相当食い下がってくることを覚悟して、父とは違約金の支払いについて予め打ち合わせはしていた。
幾らまでなら支払えるか、実際にはどの程度の支払いになるか、前例も調査済みだ。
アビゲイルが、心配そうにそっと顔を上げる。
アレクセイは続けた。
「ですが、条件があります」
「条件……」
やはりそう来たか、とばかりに父の顔色が悪くなっていく。
いったい幾ら吹っ掛けられるのかと、私も緊張を高めた。
正式な婚約ではなく、婚約の約束程度だったのだから、あまり厳しい条件は勘弁してもらいたい──
だがアレクセイ・グラント小公爵が告げたのは、金額ではなかった。
「アビゲイル嬢との婚約破棄の条件として、ミリュエル嬢との婚約をお願いしたい」
私は、言葉をなくした。
そんなことを言い出すアレクセイの気持ちが理解できなかった。
原作小説では確か、王都で見かけたアビゲイルに一目惚れして以来、初めての恋に執着していたはずだ。
それはもう、小説の一ページ丸々分がアビゲイルの美しさを称賛する心の声で満ちるほどに。
「ですがミリュエルは長女でして……この侯爵家を継げる婿を取らなくてはならない立場で」
父の言葉を、アレクセイは遮った。
「ホレイショ君は、元々婿入りする予定でここに住んで領地経営の見習いをしていたのでしょう? 家督を譲る相手を長子ではなく妹のアビゲイル嬢に変更する手続きさえ行えば、ホレイショ君に予定通り婿として来て貰い、ミリュエル嬢はグラント公爵家に嫁入りできる。違いますか?」
アビゲイルが息を飲んで、直後に目を輝かせた。
それは良い考えですわね、とでも言い出しそうだったが、自分の行動が婚約破棄の発端でもあるので、賢明にも発言を控えている。
「ははあ」
父は気の抜けた声を出した。
私は声を上げなかったが、多分父と同じ表情をしていただろう。
アレクセイは面白がるように、私たち父娘を眺めた。
「……でも」
私は少し動揺していた。
「グラント小公爵様はそれでよろしいのですか?」
妹のアビゲイルと結婚できると思っていたのに、私のような容姿の劣る姉とだなんて、普通の男ならその格差に憤慨して持参金の上乗せを要求するところだ。
……なんて考える辺り、原作通り妹に劣等感を抱く姉、という設定が無意識のうちに残っているらしい。
「もちろんです」
アレクセイは私をじっと見つめる。
その熱の籠もった視線の意味が、私にはよくわからなかった。
まるで、私との結婚を熱望しているかのように見えた。
「……少し考えさせていただけますか? 」
妹に幸せな結婚をさせるためには、この申し出を受け入れるべきなのかもしれない。
私は自分が愛だの恋だのと浮かれる人間でないことは自覚していた。
だから相手がホレイショであろうとアレクセイだろうと、大した違いはない。
だが原作には、こんな展開はなかった。
ミリュエルは性格の歪んだ意地悪な姉で、皆から嫌われていたのだ。
確かアレクセイは不愉快だと言って、アビゲイルとの破談をなかなか受け入れなかった。
慰謝料の話し合いで逗留している間に、殺人事件が起こって──
そんなことを考えていたせいか、遠くから鈍い衝撃音が聞こえた気がした。
一瞬、空耳かと思った。
その直後、誰かの叫ぶ声が聞こえた。
何事だろうと、妹や父と顔を見合わせているうちに、幾つもの悲鳴が重なって響き渡った。
私は立ち上がっていた。
急いで扉へ向かう。
なぜか、すぐ後ろにアレクセイも付いてきた。
父と妹は座ったまま怯えた顔をしている。
予想外の事態が起きた時、とっさに身動きが取れなくなるところが二人ともそっくりだ。
扉の外から、走ってくる足音が聞こえた。
私が扉を引き開けると、今まさに扉を叩こうとしていた小柄な使用人が、腕を振り上げていた。
彼は三階に出入りを許されている高級使用人の一人で、酷く息を切らしていて、何度か深呼吸をした後でようやく言葉を口にした。
「大変です!」
彼は腕を構えたまま、真っ青な顔で告げた。
「誰かが西翼の三階から中庭に落ちました!」
私は父を振り返った。
「お父様! 三階を今すぐ封鎖して!」
父が我に返って頷くのを見届けると、私は急ぎ足で中庭に向かった。
──すぐ後ろにアレクセイ・グラント小公爵と、彼の護衛を引き連れて。
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