1:それは婚約破棄から始まった
事件が起こったのは春先のこと。
その数日前に私の部屋を訪れたのは、私の婚約者であるホレイショと、アビゲイル──私の美しい妹だった。
「ごめんなさい、お姉様」
潤んだ碧い目で、妹は私を見つめた。
私の妹アビゲイルは私より四つ年下で、16歳になったばかりだ。
彼女の金の髪は少し癖っ毛だった。
歩く度に後れ毛がふわふわと揺れる様はなんとも愛らしい。
その整った顔に、切なげな表情が浮かんだ。
「いけないことだとはわかっていたの。でも、気持ちは止められなかった。私はホレイショ様を愛してしまったのです」
病気がちな彼女の肌は白く、足元はおぼつかない。
ふらりと揺れた妹の身体をさっと抱き留めたのはホレイショ・ピアス──私の婚約者だ。
中性的な身体付きで、美しい銀色の長い髪と澄んだ青い目を持つ彼は、アビゲイルと並ぶと一対の人形のようにお似合いだった。
「君には本当に申し訳ないと思っている、ミリュエル」
一瞬目を伏せた彼は、アビゲイルをその腕にしっかり抱いたまま、私を真っ直ぐに見た。
「でも、私はアビゲイルを愛している。その気持ちを隠したまま君と結婚することは、誰にとっても最悪な結果を招くことになるだろう。それだけはできない」
ホレイショはピアス侯爵家の三男で、将来私と結婚してヴァンダイク侯爵家を継ぐことになっていた。
政略結婚であり、そこに愛はない。
考え込んでいる私に、アビゲイルとホレイショは不安げな目を向けてきた。
この流れを、私は知っていた。
か弱く美しい妹、アビゲイル。
妹に劣る容貌に劣等感を抱く姉、ミリュエル。
アビゲイルを偏愛する両親、家人、そして姉の婚約者でありながら妹に献身を捧げるホレイショ。
私とホレイショとの婚約破棄を契機に姉妹の周辺で次々に起こる怪事件、そしてついに殺人事件まで起こる物語を描いた『ヴァンダイク侯爵家の殺人』は、私が前世で読んだことのある、架空のファンタジー世界を舞台にしたミステリ小説だ。
前世なんてそんな馬鹿な、と言われそうなので、誰にも打ち明けたことはない。
けれど私は、後に罪を犯すことになる真犯人の男がアビゲイルに懸想するよりもずっと前の段階で、この家から追い払っていた。
今では全く違う物語になったはずだが、主要な人間関係が同じだとやはり同じことが起きてしまうのか。
何やら不吉な前兆のようで、私は不安に駆られた。
「怒らないで、お姉様」
アビゲイルは泣き出しそうな細い声で言う。
「どれだけ謝っても、許してもらえないとは思うけれど……」
「怒ってはいないのよ、アビゲイル」
私はそっと彼女に近づいて、硬く握り締められた妹の手を取った。
物語の中のミリュエルは妹に劣等感を抱いて彼女に嫌がらせをしていたが、実際の私は違う。
妹の手を自分の両手で包み込み、宥める。
早産で生まれたアビゲイルは、赤ん坊の頃はとても小さくて、医師からは長く生きないだろうと言われた。
それでも、何度も訪れた命の危機を懸命に乗り越えて、この歳まで成長してくれた。
私が物語の筋道を変えたせいで、運命が予定よりも早く彼女を奪い去ろうとしているかのように思えて、ずっと不安だった。
今こうして、生きていてくれているだけでも有り難い。
彼女の幸せが、私の最優先事項だ。
「もちろん私とホレイショ様との婚約は破棄するわ。お父様もお母様も、アビゲイルのためには許してくれるでしょう」
妹の手を私は、ホレイショに託した。
二人は私の言葉を聞いてほっとしたらしく、満面の笑顔になった。
「ありがとう! お姉様!」
「ああ……なんて心が広いんだ、ミリュー……いや、ミリュエル義姉上!」
「なんなの? 調子がいいわね。気が早過ぎるわよ」
私は苦笑する。
ホレイショこそ、私との婚約破棄は侯爵家当主としての未来を諦めることなのに、アビゲイルのために私欲を捨てるなんて。愛は偉大だ。
「ただ、問題がいくつかあって」
私はそう続けたが、見つめ合ったアビゲイルとホレイショは抱き合い、口づけを始めていた。
「あのね? アビゲイル……あなたの婚約者になる予定だった方のことなのだけれど」
二人の世界に入り込んで、私の声は二人に届かない。
「侯爵家の跡継ぎ問題も考えないとね……?」
婿入りしてくれる人を、新たに探さなくてはならない。
これからのことを考えて、私は深い溜め息を吐いた。
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