再会の大地 その6
賑やかなお喋りの中、史乃おばあちゃんが壁に掛けられている柱時計を見て、夕食の支度をしなくちゃと席を立ち、私たちもそこでようやく、時計の針がどこを指しているか気が付いた。私もお母さんも、そして早苗さんも、史乃おばあちゃんを手伝うと申し出たのだけど、私一人で間に合うからと優しく断られてしまった。七人分の料理が必要なわけだから、一人では手が足りないと思うところだけど、近所のおばあちゃんたちからの差し入れが結構な量となって控えており、これから作るおかずは、実はそう多くは必要としていなかったりする。史乃おばあちゃんが一人で十分と言うのも、無理してのことではないのだ。
でも、やっぱり私としては史乃おばあちゃんのお手伝いをしたくて、「私、史乃おばあちゃんの味をちゃんと憶えたいの。だから、ね?」と目で強く訴えた。史乃おばあちゃんは少し考えるように頬に手を当て、僅かに逡巡してから「それじゃ、汐さんに手伝ってもらおうかしら」と了承。思わず、「よおっし!」と力強くガッツポーズをとってしまった。
こうして私と史乃おばあちゃんとで晩ご飯を作ることになり、お母さんと早苗さんは、それじゃあ私たちの分もお願いねと私に託し、もし手が必要になったらいつでも言ってくださいと言い残して、お父さんたちのいる居間に戻った。
台所に二人きりになると、さっそく作業開始。私は史乃おばあちゃんの指示に従って下ごしらえをして、ときおり味付けを教えてもらっては、ふんふんと頷き、忘れないようにとしっかり頭に刻み込む。そうして一品一品が作られていった。
途中、史乃おばあちゃんに「汐さん、包丁の扱いがまた上手になりましたね」と褒められると、そんな自覚ないし、正直言うと照れくささもちょっとあって、「そうでもないよ。中学入ってから、部活であんまりお母さんのお手伝いできてないし。たぶん下手になってるんじゃないかな」と答えた。事実、包丁を握る時間は格段に少なくなっている。
「そんなことありませんよ。力の加減も、とても自然になってますし」
「そう、かな? 自分じゃよく分かんないけど」
「人の成長している姿というものは、周囲からはよく見えても、自分自身にはときに見えなくなるものですからね」
確かに、それは言える。部活の中で実際に経験しているから、よく分かる。自分では実感なくても周りから上手くなったと言われたり、逆に、上手くなったと思った子にそう言うと、そんなことないよと気付いていなかったり。
だから私は、素直に「ありがとう」と答えた。
そうして数品のおかずとお味噌汁を作り終えると、準備が終わったことを告げに居間に行き、配膳の援軍としてお母さんと早苗さんを連れて台所に戻った。運ばれるのを今か今かと湯気を立てて待っているお料理に、途端に顔を綻ばせた援軍が口を揃えて美味しそうと言うのを聞いて、史乃おばあちゃんの顔が綻ぶ。そして私の顔も綻ぶ。それらが居間のテーブルに次々と並べられる度にお父さんたちの顔も綻び、いよいよみんなで食べ始めるときには、誰の顔にも笑顔が溢れかえっていた。
お料理の感想や、どうやって作ったのかなどで賑やいだ晩ご飯は瞬く間に終わり、食後のまったりした時間の中でお風呂となった。一番風呂に誰が入るかで少しばかり譲り合いが行われ、なんで大人の人っていつもこうなんだろうと思いながら、これじゃいつまで経っても決まらないのではと心配になり、私が半ば無理矢理決めてしまった。一番手は私と史乃おばあちゃん。二番手はあっきー。三番手がお母さんと早苗さん。そして最後に、お父さんと直幸おじいちゃん。
二人を最後に回したのは、長風呂になることを知っているから。私がお父さんと一緒にお風呂に入らなくなるまでは、私とお父さんと直幸おじいちゃんと三人でお風呂に入っていた。もちろん、翌日のお風呂は史乃おばあちゃんと。
お父さんはいつも、直幸おじいちゃんの背中を洗っていた。懐かしむように昔の話をしながら、時間をかけて。まだ小さい頃は、私もお父さんの真似をして直幸おじいちゃんの背中を洗いたいという気持ちもあったけれど、その雰囲気に、子供心に邪魔しちゃいけないような気がして、私はいつも湯船からその様子をじっと眺めていた。そしてお父さんが身体を洗い始めると、私は「次は私がお父さんの背中をごしごしするっ!」と勇んで、お父さんの大きな背中を洗った。そして史乃おばあちゃんと入ると、やっぱり史乃おばあちゃんの背中もごしごしと洗い、お母さんの背中もごしごしと洗っていた。
という経緯があって、私は今、史乃おばあちゃんの背中を洗っている。その背中は骨張っていて、否が応でも史乃おばあちゃんの本来の年齢を感じさせられ、力加減は大丈夫だろうかと何度か「痛くない?」と聞いては、「いいえ、全然。とても気持ちいいですよ」という答えが返ってきていた。
ほぼ一年おきではあるけど何度も洗ってきた史乃おばあちゃんの背中は、数年前までは全然感じなかったし、考えもしなかったけど、少しずつ小さく、そして弱々しくなっていくように感じられる。それは間違いなく、私自身が成長しているからであり、史乃おばあちゃんが年老いていってるから。
そして時間は容赦なく、史乃おばあちゃんを誰の手にも届かない場所へと連れて行く。それまで、何回こうして背中を洗えるのだろうかと思うと、自然と、「長生きしてね」と呟いていた。史乃おばあちゃんは、どうして急にそんなことを言ったのだろうと怪訝に思ったみたいだったけど、「そうね」と深い思いを感じる優しい声で答えた。
「私も、長生きしたいと思うわ。だって、こんなにも楽しい一日を神様が届けてくれるのですから。それに、汐さんがいい人を連れて来てくれる日が楽しみですし、汐さんの花嫁姿も見たいし、言い出したらきりがないくらい、楽しみなことがいっぱい待ってますからね」
「そうだよ。まあ、いい人が現れてくれるかどうかは分かんないけどさ……」
「大丈夫ですよ。必ず出会えます」
励ますつもりが逆に励まされてしまった。何やってるんだか、私。
後ろがずらりと控えていることもあって、私たちは長くは湯に浸からずにお風呂から出て、あっきーにバトンタッチ。そしてバトンは最終組まで渡り、それから三十分近くしてお風呂タイムが終了。それからほどなくして、直幸おじいちゃんが「これから蛍を見に行きませんか? とてもきれいですよ」と提案し、みんなで見に行くことになった。
数本の懐中電灯と虫除けスプレーを装備して車に乗り込み、真っ暗な夜道を走ること十数分、無数の光が舞う光景が遠くに見えてきた。車内に歓声が上がり、やがて小川のすぐ近くで車が止まると、足下に気をつけながら次々と降りる。そして目の前の光景に、先ほどとは比べものにならない感嘆の声が上がっていた。
毎年このあたりで蛍の群れを見ている私やお母さんやお父さんでさえ圧倒されてしまったほど。ならばあっきーと早苗さんがどれだけ感動したかは言うまでもないと思う。あっきーは驚きの声のあと、呻くように「こいつはすげーぜ」と呟いたままじっと見つめ、早苗さんは息を飲むような声を出したと思ったら、口元に手のひらをあて、目を潤ませながら見つめている。直幸おじいちゃんや史乃おばあちゃんも、これほどまで集まっているのは本当に珍しいと言って驚いていた。
そしていつの間にか、みんな喋ることを忘れて、ただ黙ってその光景を見つめていた。
漆黒の中で無数に輝き瞬いている星々の下、月明かりにうっすらと照らされた川辺で、微かに聞こえる小川のせせらぎの音と、鈴虫たちがりーんりーんと遠慮がちに奏でる音に包まれ、ときおり吹く涼やかな風に、寝静まっていた草が揺れ動いてはさわさわと身じろぎし、ほのかな明かりを点す無数の蛍が、外界のざわめきなど気にせず思い思いに舞い踊っている。
とても幻想的で、神秘的で、圧倒的で、人の手では絶対に触れることの出来ない神聖な光景を前にしているような気持ちで、僅かな物音を立てることすら無粋な行為ではないかと思ってしまうほど、とても感動的な世界に、ただただ立ち尽くした。
そうしてしばらく時間が過ぎ、私たちだけ止まっていたかのような時間が、やがてゆっくりと動き出した。
あっきーにぴたりと寄り添っている早苗さんから、ぽつりと言葉が零れる。その声には、まだ幻想世界にいるような印象があり、心の中から一滴一滴、ゆっくりとこぼれ落ちていくように感じた。
「……秋生さん、なんだか、夢の世界にいるみたいです」
「ああ。そうだな」そう答えるあっきーも、早苗さんと同じ場所から見ているよう。
「もしかしたら、本当に夢の世界なのかも、しれないですね」
あっきーはその言葉に、少しだけ間を置いて、「そうかもしんねえ」と蛍の舞を見つめたまま答えた。私は二人のこの会話を、目の前の光景に対する感想だと思った。でもそれは間違い。二人が見ていたものは、私が見ていたものとは違っていた。
早苗さんは、「私、たまに思うときがあるんです」と静かに語り始める。
「秋生さんと結婚して、渚が生まれて、苦しいことや、辛いこと、悲しいこともあったけど、家族三人でがんばって暮らして、一緒に笑って、一緒に苦しんで、一緒に泣いて。
それだけでも十分幸せだったのに、渚が朋也さんと出会って、新しい命を授かって。苦しい時期もあったけど、汐ちゃんがこうして無事に生まれて、とても優しい子に育ってくれた。
こんなに幸せなのは、もしかしたら夢だからなんじゃないか。現実は、もっとたくさんの、辛いことや悲しいことがいっぱいあるんじゃないかって……」
その言葉を聞いて、私はふと思い出した。お父さんが話してくれた、もう一つの世界の物語。私が生まれたと同時に、お母さんが死んでしまい、私は五年間あっきーと早苗さんに育てられて――。
その記憶を持っているのは、私が知る限りではお父さんだけ。というのも、お父さんからしか聞かされてないし、他の人に尋ねはしてこなかったから。もしも、あっきーや早苗さん、それに他の人たちも心のどこかに残しているのなら、この世界を夢のように感じるのも自然なことなのかもしれない。私自身についても、はっきりとした記憶はないけど、不思議とそれが本当のことだと思えている。いや、『思える』のではなくて『感じる』。そしてその感覚は、少しずつ増しているような気もする。ひょっとしたらそれは、その時の記憶が私の中のどこかに残っているからなのかもしれない。
そんなことをぼんやりと思う中、あっきーが言った。幻想世界からではなく、今私たちがいる世界に立って。
「どっちでもいいんじゃねえか? 俺たちは今ここにいる。夢の中だろうが、現実の中だろうが、そんなのは関係ねえ。それにだ、もし夢の中ってえんなら、きっとそれは、神様がくれたご褒美だ。現実の中の俺たちへの、な」
あっきーはそこでいったん区切ると、にっと笑って、こう付け加えた。
「もしくは、その逆とかな」
「逆、ですか?」意表を突かれたように、早苗さんがきょとんとした顔をあっきーに向けて繰り返す。
「ああ。これが現実で、夢の中はひでーことになってる。そう考えてもおかしくないだろ? まあいずれにしろだ、幸せで悪いことなんてあるわけねえ。だから――」そこでまたいったん区切ると、見上げる早苗さんにようやく顔を向けて、力強く言った。
「胸張って、幸せですって言ってりゃいいんだ」
その言葉に、早苗さんの表情からすべての不安が消え去り、「そうですね」と答えたその声は、祝福されるようにこの幻想的な光景と解け合い、とてもきれいに輝いて聞こえた。思わず、なんとも言い難い温かいものが私の心にこみ揚がり、瞳が潤みだす。そしてちらりとお母さんとお父さんを見ると、二人は手を繋ぎながら見つめ合っていて、お父さんがちょっとおどけるように「だそうだ」と言うと、お母さんは「はい」と笑顔で答えていた。
そして、そんなお父さんたちを優しい瞳で見守っている史乃おばあちゃんは、「家族とは、本当に素晴らしいものですね」と嬉しそうに呟いた。直幸おじいちゃんは、そうだねと答えると、少し寂しそうにこう続けた。
「……敦子にも、味わって欲しかったけど」
史乃おばあちゃんは、どう答えようかと考えるように口を結び、そしてまっすぐな声でこう言った。
「きっと、天国で味わっているわ。あなたを通じてね」
直幸おじいちゃんは、ほんの少し驚いたような顔をしてから、頷くように視線を落とし、静かに「……うん」と答えると、次いで空を見上げた。まるで、そこにいる敦子おばあちゃんに微笑みかけるように。
きっと私は、この時間のすべてを、一生忘れることはないと思う。
満天の星空、川のせせらぎの音、鈴虫の音色、草のささやき、無数の蛍の光、そして、ここにいる大好きな人たちの言葉と、その言葉に込められている思いを。




