再会の大地 その5
お父さんがあっきーのことを「オッサン」と呼んでいることは、直幸おじいちゃんも史乃おばあちゃんも知っている。毎年こうして遊びに来てお喋りする中で、お父さんの口から幾度となくその単語が出ているからだ。そしてそのことに対して、二人とも気にしていないことは知っている。だけど、あっきーがお父さんのことを「小僧」と呼んでいることを二人は知らないと思う。私の知る限りでは、ここでのお喋りの中で、今までそのことは話題に上がらなかったし、あえて言うことでもなかったし、私が電車の中で二人に普通に呼び合ってと言ったとき、お母さんもお父さんも特別何も言わなかったから。
そして、今そのことが現実に知られようとしていて、いざ目の前にして、直幸おじいちゃんと史乃おばあちゃんが困ってしまったらどうしようと思うと、どうにかしなきゃと使命感が湧いてくる。そういう理由で、お父さんとあっきーには、普通に呼び合ってもらいたいと思っての要望だった。
考えようによっては、あっきーだけどうにかすれば済むのかも知れないけど、あっきーを目の前に「オッサン」と呼ぶお父さんの姿を実際に見て、どう感じるだろうと考えると、やはり二人ともちゃんと呼ぶべきだと思う。
だけど、そんな想いはまったく通じず、私の心は長くは保ってくれなかった。
変な名前で呼び合いながらたばこを買いに行く二人に、直幸おじいちゃんはちょっと不思議そうな顔をしていただけで、何も言わなかった。このままなかったことになればいいと、無茶を承知で願ったけど、やっぱり無茶なお願いだったようで、二人は戻ってきても変わらず「カッパ巻き」「クレクレタコラ」とお互いに呼び合っている。
そこでついに、直幸おじいちゃんが「あれは?」と不思議そうな顔でお母さんに尋ねた。私はとっさに「あ、あれはね! 罰ゲームなの!」と、お母さんが答える前に説明を始めた。
「トランプで負けた人は、変なニックネームで呼ばれなくちゃいけないっていう罰ゲームで、お父さんとあっきーが負けたから、それでああなってるの。そういうことだから、気にしないでね」
「そうかい。なるほどね」
直幸おじいちゃんはこの説明ですっかり納得してくれたようで、一安心は出来たけど、ずっとこのままというのも困る。私はお父さんとあっきーを引っ張ってみんなから離れ、ちゃんとやってよと二人に怒った。けど、まだお互い気付いていない模様。
「言われたとおりやってるだろ。なあ、カッパ巻き」
「ああ。クレクレタコラの言うとおりだ」
「ねえ……、ひょっとして、二人とも私のことからかってる?」頭が痛い。本気で心が折れそう。
「なんでそんなことしなきゃならないんだよ」
「クレクレタコラが変なことでも言ったんじゃねえのか?」
「してねえよ。カッパ巻きこそ」
「人のせいにしてんじゃねえよ」
「んじゃなんで汐が怒ってんだよ」
「俺が知るか」
あ、なんか眩暈が。ついでに心がぽっきりと……。
そして、気付かないうちに私たちの側に立っていたお母さんが、ぽきりと私の心をへし折った。
「やっぱり、無理みたいですね」
うん、もう無理。もうこれ以上がんばれません。
ということで、お母さんからの終了宣言。もういつもどおりに言って大丈夫ですよと二人に言った。けど、特訓の成果はそう簡単には消えないようで、だからいつもどおりに言ってるだろうと真顔で返され、お母さんはこの事態を「そのうち治るでしょう」と笑って済ませていた。どうやら二人とも、本気でちょっと遠くまで行ってしまっているらしい。
まさか、それほどまでに無理な要望だったとは。
そして私は、挫けてしまった自分自身に、まだまだだなあ、と落ち込んでいいのか悪いのかよく分からないまま、二人が元に戻ったときのために何かしておかなくちゃと、三人を置いて直幸おじいちゃんの元へ走り、「なにかあったのかい?」とちょっと心配そうな顔の直幸おじいちゃんに、必死に説明した。
「うん……と、あのね、さっき罰ゲームだって説明したけど、あれ嘘なの。本当は、お父さんにもあっきーにも、お互いに普通に呼び合って欲しくて、それで来る途中に練習させたんだけど、そしたらあんなんなちゃって。本当は、お父さんのことをあっきーは『小僧』って呼んでて、お父さんは、直幸おじいちゃんも知ってるけど、あっきーのこと『オッサン』って呼んでて、だからその、目の前でそう呼び合っても驚かないでね。日常会話というか、親しい証拠みたいなものだから」
喋ることに必死だった私は、そこまで喋って、これで分かってくれただろうかと直幸おじいちゃんの様子をうかがった。そしてその表情は、ちょっとだけ申し訳なさそうな笑顔だった。
「そうだったのかい。でも、心配しなくていいよ。それは私も知っていることだから」
「知って……る? え? いつの間にっ!」
私は思わず大声を上げてしまい、そんな私に早苗さんが説明してくれた。私がまだ小さかった頃、直幸おじいちゃんが故郷に帰る前に一度だけ、あっきーと早苗さんに会っていて、そのときお父さんとあっきーが「オッサン」「小僧」と当たり前に言っているのを見ており、すでに知っているのだそうだ。そして直幸おじいちゃんは、そのことに対してどうとも思っていないとのこと。史乃おばあちゃんには、話すまでもないからと喋っていないので、史乃おばあちゃんは知らないらしい。ただ、別に気にしないだろうというのが、直幸おじいちゃんの意見。
それじゃあ、私一人で空回りしてたってこと?
いやまあ、最初からそんな感じだったけどさあ……、ああ、私って、馬鹿……。
なんだかぐったりな気持ちになってしまった私は、依然として治らないお互いの呼び名を後部座席でどこか遠くに聞きながら、一言も喋らず外の風景を眺め続けた。流れる風景は去年とも一昨年とも変わらず、緑多き田舎町の風情に満ちている。やがて、どこかのお屋敷のような塀をぐるりと回り、一軒の家に着いた。ブレーキを掛ける前に直幸おじいちゃんがクラクションを鳴らしていたのは、家の中で待っている史乃おばあちゃんに、私たちが着いたことを知らせるためのもの。車が完全に止まり、私たちが下りるとほぼ同時に、史乃おばあちゃんが玄関から出てきた。
凛としたその姿を見るたびに、史乃おばあちゃんが私の曾祖母だとはとうてい思えなくなる。なんていうか、岡崎家にも特殊な遺伝子が備わっているのだろうかと本気で考えるときがあるぐらいだ。
「ようこそいらっしゃいました。朋也の祖母の、岡崎史乃です」
「渚の母の、早苗です。はじめまして」
「秋生です。どうもはじめまして」
そう。お互い写真では知っているし、それぞれの情報は私やお父さんが間に入って耳に入れているけど、こうして直接会うのははじめまして。そして、お父さんとあっきーのやり取りを聞くのも。
「すみませんねえ、私の無理を聞いていただいて、こんなところまで」
「そんな。私も秋生さんも、いつかはお会いしたいと思っていましたから。ずっとお伺いできなかったので、こうしてお招きして頂いて、とっても嬉しいです」
「お店をなさっているのですから、仕方のないことです。お気になさらないでください。さ、とりあえず上がってください。冷たいものでもお出ししますから」
史乃おばあちゃんにそう勧められて、私たちは家の中に入っていく。そこでようやく、お父さんが史乃おばあちゃんに「ただいま、史乃さん」と言うと、お母さんも「ただいまです」と。ここはお母さんにとっても、第三の家になっている。もちろん、私にとっても自宅と古河家に次ぐお家。
「おかえりなさい。朋也さん、渚さん、汐さん」
「ただいま。史乃おばあちゃん」
「あら、汐さん、元気ないみたいだけど、身体の具合でも悪いの?」
「ううん、ちょっと疲れただけ。誰かさんと誰かさんのせいで。ね、お父さん? あっきー?」私はそう言って、二人に向けて冷たい視線を送る。でも、悲しいかなまだ戻ってきていない。
「おい、納豆巻き。あんたのこと睨んでるぞ?」
「ああん? あれはポチョムキンを哀れんでる目だろ」
「なんで俺が娘に哀れられなきゃなんないんだよ」
呼び名変わってるし、それでも通じ合ってるし。ポチョなんとかってなに。納豆巻きって、そういうシリーズで突き進む気? ていうか、二人とも悪化した? さらに遠くへ行っちゃった? ああもう……。
「本当に具合が悪いなら、お布団出しましょうか?」
「ほんとに大丈夫。それより、ちょっと」と私は、お父さんたちには先に行っててと家に上がらせ、ちょっと心配そうな史乃おばあちゃんを引っ張って外に残った。
「どうしたのです?」
「あのね、お父さんがあっきーのこと、『オッサン』って呼んでるのは知ってるよね」
「ええ」
「それでね、あっきーがお父さんを呼ぶときは、いつも『小僧』って言ってて、それが二人にとって当たり前の呼び方だから、あんまり気にしないでね?」
「でも、今は違う呼び方をしているみたいだけど」
「あう!? それは、その、ちょっと事情があって……。とにかく、いいかな」
そして結果は、みんなの意見が正しかったことを証明するものだった。
「私は気にはしませんよ。ひょっとして、それを気に病んで元気がなかったの?」
「だって、二人とも大人なのに、ちゃんと出来ないんだもん……」
「まあ」史乃おばあちゃんは、少しだけ驚いたようにそう呟くと、「汐さんも、いろいろと大変みたいですね」ところころと笑った。とちょうどそこに、私たちを車から降ろしたあと、車を駐車スペースに移動し終えた直幸おじいちゃんがやって来て、何を話していたんだい? と私たちに聞いた。そして話を聞いた直幸おじいちゃんも、これではどっちが親でどっちが子供か分からないねと、目を細めて笑った。
正直、私としてはあんまり笑えないんだけど、もういいや。考えるだけ馬鹿みたいだから。なお、お父さんとあっきーがいつものように呼び合うには、もう少し時間が必要だった。なにもそんな遠いところまで旅立たなくても。
とにもかくにも、気に病むことを止めたお陰で、いつもの私に戻って良かったと二人から言われるぐらいスッキリした気分になれた。そんな晴れやかな気持ちでお家に上がると、居間から鈴の涼やかな音色が聞こえ、お父さんとお母さんがお仏壇の前で手を合わせていた。そのお仏壇に飾られている写真は、史乃おばあちゃんの旦那さんと、お父さんのお母さん、敦子おばあちゃん。
二人にお線香を立てて手を合わせるのは、いつもここに来てまず最初にやることだ。
お母さんとお父さんが終わると、私たちもいいですかと史乃おばあちゃんと直幸おじいちゃんに聞いてから、早苗さんがあっきーとお線香を立てて手を合わせる。そして二人が終わり、最後に私となった。お仏壇の前にきちんと正座して、お線香の先端をろうそくの火で点し、小さなオレンジ色の炎を手で扇ぐ。その小さな風で炎が消えると、オレンジ色に灯るお線香の先端からけむりがゆらゆらと昇る。そしてお線香を線香容器の灰に立てて、鈴を鳴らし、目を閉じて手を合わせる。
ただいま、と心の中で微笑みかけながら。
こうしてみんなとのご挨拶が一通り終わると、ご挨拶の二週目に入った。みんな畳に正座して、丁寧にお辞儀して、ようこそお越し下さいました、こちらこそお招きいただいてありがとうございます、と先ほどのやりとりを繰り返す。
なおここでは、史乃おばあちゃんが、あっきーと早苗さんにも是非とも来て欲しいとお願いをして、二人がそれを快く受けた、ということになっている。それはまあどこも間違っていないのだけど、その前段階の話が抜けている。実は、あっきーと早苗さんをとにかく連れてきたったから、史乃おばあちゃんからどうにか頼み込めないかとお願いをしたのだ。それが一番効果あるからと。そしてその願いは聞き届けられて、今こうしているという次第。ありがとう、史乃おばあちゃん。そして、偉いぞ策士岡崎汐。
ご挨拶二巡目が終わり、やっとみんな普通に座布団に座りお喋りを始めると、早々に古河パンの話になった。そしてどんなパンを作っているのかという話題になったとき、あっきーが危うく地雷を踏みそうに。すんでのところでお父さんが阻止し、あっきーと早苗さんの追いかけっこは回避され、お父さんとあっきーはふうとため息を漏らし、ひそひそと話した。
「気をつけろよ、オッサン」
「わりい、小僧。油断しちまったぜ」
あ、二人とも帰ってきた。じゃなくて、元に戻った。まあ、今となってはもうどうでもいいけどさ……。
それからは、昨日一日の出来事に話が移り、あんなことがあったこんなことがあったと私が中心になって喋っている間中、直幸おじいちゃんと史乃おばあちゃんは、ずっと笑っていた。しまいには二人とも目尻に涙をためるほどに。
そしてその合間には、冷たい麦茶を飲みながら甘いスイカを食べたり、途中で買ったおみやげを食べたり。ときおり、料理の入った小皿を手に近所のおばあちゃんが入れ替わり立ち替わりやって来ては、「今年もこうして来てくれて、史乃さんも直くんも、ほんと嬉しいねえ」と、しわだらけのとっても可愛らしい笑顔で笑っては、しばし一緒にお喋りをした。毎年こうして会っているので、みんな私やお母さんやお父さんとは顔見知り。あっきーと早苗さんは当然初対面。なので、例によって早苗さんをお母さんのお姉さんと思ったおばあちゃんたちは、違うと知るとすごく驚いていた。あっきーについても、やはりお母さんのお父さんとは思っていなくてまたもびっくりしていた。
きっと、明日はもっとたくさんの人が来るだろう。例年以上に。




