再会の大地 その4
お風呂から戻ってきたお父さんは、思ったとおりさっぱりした表情で復活していた。お風呂が終わればお夕食。食堂に向かい、テーブル席ではなく、一部屋ずつ区切られた座敷間の一つに入り、運ばれてきたお料理をまずは目で楽しむ。小皿にちょこんと盛りつけられているその姿はどれも色彩豊かで可愛らしく、芸術作品のようにも見えて、食べてしまうのがもったいなく思ってしまうほど。一通り目で楽しむと、次は香り。ん~っと鼻孔で楽しむ。途端に、もったいないという気持ちは、早く食べたいという猛烈な食欲に押し退けられてしまった。そして最後に、箸を持って「いただきます」と儀式を終了させて、思う存分舌でたっぷりと味わった。どれもこれもとても美味しく、みんなも美味しい美味しいと口にしながらきれいに平らげていた。
夕食が終わり、部屋で一休み。お風呂とご飯ですっかり落ち着いた私たちは、満たされた心とお腹でまったりと時間を過ごした。そして九時を少し過ぎた頃、もう一度お風呂に。あっきーは早苗さんと入るつもりだったのだけど、私とお母さんとで入りたいからとあっさりとふられてしまい、とても残念そうな顔をしたかと思ったら、とても嫌そうな顔で、「仕方がねえ、てめえに付き合ってやるか」とお父さんに一言。もちろんお父さんも、「嫌なら部屋で留守番でもしてろよ」といつもの調子で返し、二人ともぶつくさ言いながらも男湯に入っていった。
そして私たちは、湯に浸かりながら満天の星空を眺めたり、湯から上がって火照った身体をしばし冷ますついでに、ぽつりぽつりと見えるずっと向こうの小さな灯火を眺めたりしながら、存分に露天風呂を堪能した。
こうして旅行先で露天風呂に入ると、必ず思う。うちのお風呂が、こんな露天風呂だったらなあ、と。その気持ちはお母さんも早苗さんも同じで、色々と話が飛び出した。お風呂を改造してもロケーションが悪いから意味がない。ならば別荘を買おうか。でもそんなお金はないし、そもそももったいない。などと。そして、それじゃあ風景のいい場所にペンションでも開こうか、という意見を私が言うと、それはいいかもという話になり、必然的にペンションのオーナーは私ということになった。
それはそれで悪くないけど、毎日のように露天風呂に入りたいという理由だけでやるのはいかがなものか。
そんな話も交えて一時を過ごし、お風呂を出て部屋に戻る。その途中で、マッサージチェアでゆったりと揉みもぐされている、幸せな顔をして目を閉じているお父さんとあっきーの姿を発見。お母さんと早苗さんはまっすぐ部屋に戻っていったけど、私は迷うことなく、空いているマッサージチェアへと駆け出して、お父さんたちの仲間入りしていた。
その後、旅館内の自動販売機で飲み物とおつまみを少々購入してから部屋に戻り、宴会が開かれた。周りの部屋に迷惑にならないようにと、想像していたよりもずっと大人しい宴会となったのだけど、たぶん、一般的には『大人しい宴会』という言葉は当てはまらなかったと思う。幸いにして、フロントから注意の電話がかかってくることはなく、やがて私が睡魔に襲われると、どうやらお母さんも眠くなっていたようで、宴会はお開きとなった。
テーブルが素早く片付けられ、五つの布団が並べられると、私は意識して選んだわけでなく、なんとなく、ふらふらと端っこの布団に潜り込み、すぐに眠りに落ちた。お母さんと早苗さんもそのまま寝てしまったそうで、お父さんとあっきーだけは、場所を移してお酒を飲んでいたそうだ。
こうして、旅行初日は終わった。
翌朝、目が覚めてむくりと起きたら、お母さんとお父さんがお風呂から戻ってきたところだった。二人だけでずるいとちょっとだけ思いつつ、冗談半分で「ひょっとして、二人で入ってきたの?」と聞いたら、お父さんは照れくさそうにそっぽを向いて答えようとしなかったけど、お母さんはにこりとVサイン。
まあ、両親の仲がそれぐらい良いというのはとても喜ばしいことだけど、起き抜けにらぶらぶっぷりを見せつけられると、娘ながらなんだかなあと思ってしまう。ついでに、あっきーと早苗さんの仲の良さを思うと、いまだ彼氏のいない自分が可哀想に思えてしかたがなくなる。
むう。めげるな私っ。きっとそのうち! 私にだって!
と必死に自分を奮い立たせることから始まった旅行二日目。なんて悲しい始まり方なんだろう……。
そんな気分を一新したいという気持ちもちょこっと混ぜて、私は早苗さんと清々しい朝の空気に包まれた朝風呂に入り、どうにか気持ちを立て直すことに成功して、朝ご飯を美味しく食べることが出来た。食後、みんなで旅館の周辺を軽く散策。そして部屋に戻り、支度を調えてチェックアウト。他のチェックアウトしたお客さんたちと一緒に、旅館の送迎バスで駅へと直行した。
直行便とあって、旅館に着くまでに乗ったバスの乗車時間よりも遙かに短い時間しかかかっておらず、さらに、小さい子供連れの家族も同乗していて車内がなかなかに賑やかで、私やお母さん、早苗さんもその仲間に加わったことで、駅までの時間は驚くほどあっという間に過ぎた。
駅に着くと、送迎バスの中で一緒に盛り上がっていた人たちとお別れをして、おみやげ屋さんをしばし物色。そして、十二個入りの美味しそうなお饅頭を一つ買って電車に乗り込み、途中で電車を乗り換えて次の目的地に着いたときには、お饅頭の入っていた箱は空っぽになっていた。
目的の駅に下りた私たちは、駅の改札にあった観光ガイド用の無料小冊子をいくつかもらい、駅からさほど離れていない場所に点在する観光名所や資料館を眺め歩き、二時間ほどして昼食。地元名産という謳い文句に誘われて入ったお店のお料理は、正直なところ、まあまあといった出来だった。そして食後、またもやおみやげ屋を物色。ただし今度は、さっきよりも少し多くの時間をかけ、買った量もそれなりにあった。というのも、ここで買うものは、電車で食べるためのものなどではなかったから。そしてそれらは、地元へのおみやげ用でもなかったりする。
手荷物が増えたお父さんとあっきーと、何も変わらないその他三人は電車に乗り、本日最後の目的地へと向かう。それはいいのだけど、私としては、その目的地に着く前にやっておかなければいけないことがあった。
「お父さん」と、ボックス席で私の真向かいに座っているお父さんに声を掛ける。
「なんだ? 汐」
「お父さんは、あっきーのことどう呼ぶつもり?」
これに対し、私がどういう意味でそう聞いたのか分からず、「なに言ってんだ? お前」と呆れ顔をされてしまった。私の横に座るお母さんも不思議そうな顔をしている。
「まさか、向こうでもいつもどおりに呼ぶつもり?」
「他にどう言えって言うんだよ」
私はその返事に、呆れ半分で「普通に言えばいいでしょっ」とぴしゃりと言った。けどお父さんは、「いつも普通に言ってるだろ」と当たり前の顔で返答。ああ、お父さんのこういうところ、どうにかしたい。
「どこがっ。お母さんだって、ちゃんと呼んだ方がいいと思うよね?」
「そうですね。まあでも、そんなに気にしなくてもいいとも、思いますよ?」
ま、まさかの回答……。ええい、次は早苗さんだっ!
私は望みを託して、通路を挟んだボックス席に座る早苗さんに「早苗さんはどう思う?」と聞いた。
「まあ、最初は驚かれるかもしれませんが、私も渚と同意見です」
なんでーっ! しかもにこやかにっ! ひょっとして、私が間違ってるの?
そんな思いで、早苗さんの前に座るあっきーに目を向けた。
「いいんじゃねえか?」
良くないっ。ていうか、あっきーも他人事じゃないんだよ?
「駄目っ。それにあっきーも、お父さんのこと普通に言わなきゃ」
「おいおい、俺も普通に呼んでるぞ?」
ああ、最初から分かってはいたけど強敵がこっちにも。しかも予想外の孤立無援……。これで私にどうしろと。思わず、長い長いため息を吐き出した。二人の口の悪さは昔からだし、今更お行儀良くしなさいというのは難しい注文だってことは分かっているから、常日頃からそうして欲しいとまでは思っていない。それどころか、品行方正な二人を想像すると、苦笑を通り越して、鳥肌が立ってしまう。でも、もうちょっとTPOを考えて欲しいと思うのは至極真っ当なことだし、無理な注文ではないと思う。二人とも大人なんだから。
「汐、なに一人で落ち込んでんだ?」
「……お父さんはお気楽でいいよね」娘の苦労、親知らず。とはこういうことなんだなと思いつつ、力なくそう返す。すると、孤立無援だったはずの状況が一転。お母さんが私側についてくれた。
「パパ、しおちゃんの言うとおりにしてみるのも、いいかもしれませんね」
「お前までなに言い出すんだ」
そして早苗さんまで協力してくれた。なんだか、土壇場で逆転満塁ホームランが飛び出た感じ。
「それでは試しに、二人で呼び合ってみましょうか」
「勘弁してくださいよ」
「朋也さん? 汐ちゃんを悲しませてもいいんですか?」
「悲しむって、んな大袈裟な」お父さんはそう言って私を見た。もちろん、私は精一杯悲しそうにした……つもりだった。
「汐、お前、演技下手すぎな」
半分演技でも、半分は本気ですっ。
そんなお父さんに構わず、早苗さんが「はいはい。朋也さん、秋生さんのことを、お義父さんと呼んでみてください」とお父さんを急かし、さんはいっと軽く手を叩く。そして、お父さんの戸惑った声と、早苗さんの掛け声と手のひらを軽く叩く音が交互に繰り返されていった
「え、ちょっと、ここでですか?」
「さんはいっ」
「いや、でも」
「さんはいっ」
「え、と……」
「さんはいっ」
「……」
「さんはいっ」
どうやら早苗さんの勝利は見えてきたようだ。あともうちょっと。がんばれ早苗さん。
「オッサンも何とか言えよ! それとも、俺にそう呼ばれてもいいのかよっ!」
「冗談じゃねえ。気持ち悪くて聞けるかよっ」
「だろ?」
おっと、ここでお父さんとあっきーが手を結んだ模様。でも相手は早苗さん。当然二人に勝ち目など無く、笑顔で掛け声をかけ、手を叩き続ける早苗さんに、その後わずかな抵抗をするも、結局は屈した。言ってはなんだけど、辛抱強く優しく小さい子供を促す、幼稚園の先生みたいだなあ。でも二人には、別のものとして映っていたようで、ひたひたと迫ってくる幽霊に少しずつ怯えていくような顔をしていた。
「では、朋也さんから。どうぞ」
「お――! お、おお、おおおっ! ぅお義父さんっ!」
「はい、良くできました。次は秋生さんです。どうぞ」
「と――! とととと、朋ぅ也っ!」
「はあい。二人とも良くできましたね~」
どうにか言えた二人は、心底嫌そうな顔で体中を掻きむしり始め、早苗さんは満面の笑みを浮かべている。そして、そんな二人に「ではもう一度。今度はお二人とも、笑顔でお願いしますね~」と注文付きで告げた。当然、二人からブーイングが起きる。でもやっぱり早苗さんに逆らえない二人。
その後、この呼び合いが何度か繰り返され、その度にお父さんとあっきーは、体中を掻きむしりたい衝動を必死に抑えているからだろう汗をだらだらと流し、引きつった笑顔で「お義父さん」「朋也」と呼び合い、しかも呼び合う言葉に、徐々に禍々しさが加わっていくようにも思われた。まるで、互いに呪ってやると言わんばかりに。
お母さんも二人の邪気を感じ取ったのか、お母さんが二人にアドバイスをした。お互いに、相手を野菜と思って言えばいいと。お互いに普通に呼び合うだけなのに、どうしてこんなことにまでなっているのかと頭が痛くなったりしたけど、とにかく、そのアドバイスの効果があって、顔の引きつりはまだまだあったけど、禍々しかった声はだいぶマトモになった。
そうして、早苗さんが「こんな感じでどうですか?」と私に聞いてきたので、「うん、これでいいかな」とOKサインを出した。けど、これですっかり安心、なんて出来るはずもない。むしろ不安はつのる一方で、当初の不安とは違った意味の不安も加わっている始末。それでも、これ以上やるとお父さんもあっきーも本気で変な場所に飛んでいってしまいそうな雰囲気だったので、そう言うほか無かった、というのがOKした理由だった。
それに、周囲の視線があまりにも痛く感じて、恥ずかしさもあったし。
だもんで、私が言い出しっぺなんだけど、電車が目的の駅に着いたとき、私は心底喜んだ。電車を下りると、とりあえず二人には「さっきの特訓を忘れないで、ちゃんと普通に言ってね」と一言釘を刺して、改札へ向かう。その一刺しにどれだけの効力があるのか甚だ疑問だったけど、自分をちょっとでも安心させたかったからの一言でもあった。
そして、いよいよ特訓の成果を試す瞬間が訪れた。
改札を抜けると、待合室で私たちを待っていた、真っ黒に日焼けしている元気そうな直幸おじいちゃんが笑顔で迎えてくれた。
「ただいま、父さん」
「お帰り、朋也。今年も来てくれて、嬉しいよ」
直幸おじいちゃんがそう言うと、お父さんとしっかりと握手。続いてお母さん。
「お元気そうでなによりです。今年もお世話になります」
「渚さんも、お元気そうで」
次に私。抱えている不安をぐっと飲み込み、「直幸おじいちゃん、また来たよ」と、お父さんの真似をして直幸おじいちゃんと握手した。そのごつごつした手と、優しい表情に、嬉しさばかりが心に溢れた。
「うん。よく来てくれたね。ありがとうね」
そして、あっきー。
「ご無沙汰してました」
「こちらこそ、ずっとお伺いできなくて。いつも朋也くんの力になって頂いているのに、お礼の一つも出来ずに」
「そんなことないですよ。私たちの方こそ、たくさん助けてもらってます。ね、秋生さん?」と早苗さんがそれに答える。
「そうだな。色々と楽しいことがあるし」
「そうですか。そう言って頂けると、私としても嬉しい限りです。さ、ここで話していてもなんですから、車にどうぞお乗り下さい」
そうして私たちは、直幸おじいちゃんと史乃おばあちゃんの暮らす家へと向かうべく、駅舎の前に駐めていた車に乗り込む。これまでのところ、特訓の成果を発揮する場面は訪れず、このまま何事もなく直幸おじいちゃんと史乃おばあちゃんの家に着くのかなと思っていたのだけど、唐突にその成果が発揮された。ただし、間違った方向で……。
荷物をワゴン車の後部に収め終えたお父さんがバックドアを閉めたところで、それは起きた。お父さんは、はたと思い出したように「そうだ、カッパ巻き」と、平静な顔であっきーに言った。それに対してあっきーは「なんだ、クレクレタコラ」と、こちらも平静な顔で当たり前のように答える。
「たばこ買っとかなくて大丈夫か?」
「家の近くに売ってないのなら、ここらで買っておきたいところだな」
「んじゃあこっちだ。案内してやるから、ついてこいよ。カッパ巻き」
「悪いな、クレクレタコラ」
そしてお父さんは、そういうことでちょっと待っててくれと言って、あっきーと二人で行ってしまった。
本来であれば、変な呼び方をした瞬間に「なんだと!」と始まるのに、それがなく、まるで普段どおりに呼ばれているような対応。まさかこれが特訓の成果? と頭を抱えたくなり、いろいろとツッコミどころが湧き上がってきた。お母さんのアドバイスでこうなったの? でも、相手を野菜と思ってって言ってたよ? ああ、カッパ巻きはかすってるね。で、クレクレタコラって何? などと。
でも、それよりなにより、なんだかもう心が折れそうです……。




