台風、襲来 その3
お父さんが会社に行ってしまうと、けたたましい日常会話を風ちゃんとする人がいなくなり、居間の中はほのぼのとした空気に包まれた。私もお母さんも、お父さんのようなツッコミは出来ないのだ。基本、私もお母さんも、風ちゃんのペースに合わせて一緒に楽しむ傾向が強いらしい。
私自身、お母さんほどではないと思っているけど、お父さんだけでなく、陽平おじちゃんや杏先生も、たいして変わらないと言い切っている。ついでに、風ちゃんの扱いが上手いとも言われている。なんと公子さんにまで。
まあ、扱いが上手いという表現に違和感はあるけど、接し方という表現に置き換えれば、風ちゃんとお喋りをしているときのお父さんに陽平おじちゃん、杏先生の姿を思い浮かべれば、そうとも言えるのかなと思ってしまう。なにしろお父さんたちは、風ちゃんとしばらくお喋りすると、必ず最後は疲れた顔でギブアップしているし、対して私やお母さんは、どれだけお喋りしてもそうはならないから。
そして私は、風ちゃんの朝ご飯を作る音が台所から聞こえてくる中、風ちゃんと二人でお喋りに興じた。
「風ちゃんはいつこっちに帰ってきたの?」
「昨日の夜遅くです。本当は、お昼ぐらいには帰ってくる予定だったのですが、向こうの天気が悪くて、そのせいで出発が遅れて、空港でずっと待たされてしまいました。もう最悪でした」
風ちゃんは少しばかり頬を膨らませるようにそう答えると、冷たくしたお茶をずずっとすすった。
「大変だったね。それでこんな朝早くうちに来たんじゃ、今すごく疲れてるんじゃない?」
この質問には、表情を一片の曇りもない笑顔にくるっと変えて「全然平気です。バイクで来ましたから」と答えた。そういう答えを待っていたわけじゃないけど、とにかく平気なのだそうです。話だけ聞くと、いやそんなことはないでしょと思うところなのだろうけど、いつも元気いっぱいな風ちゃんのタフネスさを考えると、変に納得してしまう。
「あれ? 風ちゃんいつの間にバイク買ったの?」私の記憶では、確か風ちゃんはバイク持っていないはず。
「バイクなんて買ってませんが?」
ということは、誰かに借りていたバイクということかな。それとも、公子さんの?
風ちゃんはマンションで一人暮らし。といっても、公子さんの家からたいして離れておらず、なんだかんだと公子さんに世話してもらっている部分は少なくないので、実質的には一人暮らしをしているとは言い切れなかったりする。それはともかく、昨日の夜遅くにマンションに帰った風ちゃんが、朝一番で公子さんの家に行き、スクーターを借りて家まで来た。という推測は非現実的なものじゃない。
でも、風ちゃんのすぐ脇にあるヘルメットが、その推測を全面否定している。白地のオープンフェイスのヘルメットには、『風神参上!』とでかでかと書かれたステッカーと、『ルール無用!』とこれまたでかでかと書かれたステッカーと、『月光仮面』というよく分からないステッカーが、これ見よがしに貼られている。
公子さんがこのようなヘルメットを被っているとは思えない。もしこんなヘルメットを公子さんが被っていたりなんかしたら……。そして、何十キロも制限速度を破ったり、ことごとく信号を無視したり、蛇行したり、走行中に乱暴な言葉を口にしたり、白いマントを翻したりと、嬉々として暴走したりしていたら……。
そんな公子さんは絶対にいやだ。
公子さんは公子さんのままが一番良い。例外は一ミリたりとも認めません。
ということで、なんだかとても悲しい気持ちになってしまったその想像を力の限り振り払い、きっと、こういったステッカーを貼るようなアグレッシブな知り合いから借りていたバイクで来たのだろうと思うことにした。ついでに、実際にこのヘルメットを被ってうちまで安全運転してきた風ちゃんの姿と、大興奮で暴走する風ちゃんの姿を想像してみたところ、とてもほわほわした気持ちになった。
バイクについてはここまでにして、私は、向こうで過ごした七ヶ月間の話を聞くことにした。風ちゃんは、途中で朝ご飯をはさみ、全身を存分に使いながら色々と話を聞かせてくれた。
公子さんが家に来たのは、アパートメントの一風変わった住人の話で盛り上がっていた、十時を数分過ぎた頃だった。呼び鈴の音にお母さんが出て、お母さんの声と公子さんの声、そして二人分の足音が居間へとやって来た。
「おはようございます、汐ちゃん」といつもどおり爽やかな公子さんは、うっすらと汗を掻いている。
「おはようございます、公子さん」
「ごめんなさいね、朝早くふぅちゃんが押しかけたりして」
「そんなことないです」
「駄目でしょ、ふぅちゃん。迷惑かけちゃ。それに、何も言わないでおねぇちゃんのバイクを使ったりして」
え……。じゃあまさか、あのアグレッシブなヘルメットは……。
い、いやいや、そんなことはない。ヘルメットは他の人のだ。うん。絶対そうだ。
「ちゃんと置き手紙してきました」と不満げに風ちゃんは抗議する。でもその抗議は間違ってますよと言わんばかりに、「あのねえ……」と公子さんはため息混じりに呟き、手にしている小ぶりのトートバッグから一枚のチラシを出した。確かにスーパーのチラシは置き手紙にはなり得ないよ、風ちゃん。と一瞬思ったのだけど、すぐにそれがただのチラシでないことが分かった。商品の小さな写真や値段や宣伝文句がびっしりと埋まっているその上に、大きさの統一されていない四角形の小さな紙片が、間隔を置いて列をなして貼られていて、その紙片一つ一つにはそれぞれ一文字ずつ書かれている。
言ってしまえば、一文字ずつ切り貼りされた脅迫文のような感じだった。残念ながら、台紙がスーパーのチラシなので極めて見にくくて、例えこれが本物の脅迫文書だったとしても、きっと気付かずに捨てられてしまうだろう。
そしてこの、脅迫文らしきチラシには、こんなメッセージが切り貼りされていた。
『くすーたーはあずかった。かえしてほしくば』
ああ、その先が思いつかなかったんだね。もしくはそこで飽きたか。それと、漢字探し出すの面倒だったから、全部平仮名でやったんだね。
「これのどこが置き手紙なの?」チラシ、じゃなくて置き手紙を前にかざし、ちょっとだけ強い口調で叱る公子さんに、風ちゃんは得意げに親指を立てて答えた。
「ばっちりです!」
「ばっちりじゃありませんっ! もう。いつの間にか居なくなっちゃったから、おねぇちゃん心配したのよ? それにっ! これ作るのはいいけど、今日の朝刊を切り抜いちゃ駄目でしょっ。ふぅちゃんが新聞めちゃめちゃにしちゃったから、祐くん新聞読めなく、て――、って、それっ!」
公子さんは何かに気付いたように話を中断して、風ちゃんの方に指さした。
「どれですか?」
「私のヘルメット!」
ウ、ウソデショ?
……公子さんって、ヘルメットに『風神参上!』とか『ルール無用!』とか『月光仮面』っていうステッカーを貼るアグレッシブな人だったの?
そ、そんなの嫌ーっ!
「なんてことしてるのよふぅちゃん! おねぇちゃんのヘルメットに変なステッカー貼らないでよお!」
へ? あ、そうなんだ……。
よ、良かったあ~。公子さんが貼ったって言われたら、しばらく高熱でうなされるところだったよ~。
ありがとう、神様。
「何してるの? しおちゃん」
「神様に感謝してるの」
暖かい光に充ち満ちた中にいるような気持ちで心から感謝を捧げている私に、お母さんは不思議そうに「ん?」と声を漏らしただけだった。
「変じゃないです。バリバリです。伝説レベルです。まさに『かめっ』です。それにですね、そもそもお姉ちゃんは、飾り気がなさ過ぎます!」
「そんな飾り気はいりませんっ! あとでちゃんと剥がすんですよ? いいわねっ?」さっきよりも強い口調で命令する公子さん。でも風ちゃんには通じなかった。
「分かりました。もっとアグレッシブでプログレッシブなシールを――」
「何も貼っちゃだめっ!」
「ではサイケデリックな――」
「何もって言ったでしょっ!」
「やれやれ、お姉ちゃんは注文がうるさすぎです」
「誰も注文してませんっ! もうっ。おねぇちゃんはふぅちゃんと違って、そういう恥ずかしいヘルメットは被れないのっ」
なんていうか、風ちゃんと公子さんの会話を聞くといつも、お父さんと風ちゃんの日常会話に近いものを感じる。でも、決定的な違いが一つある。
「だから一切貼っちゃだめっ。描いたり塗ったりしてもだめっ。い・い・わ・ねっ!」
「はあ……、仕方がありません。お姉ちゃんを恥ずかしい女の人にするような人は許せませんから」
「……それ、ふぅちゃんがやろうとしてたことだって、分かってないよね」
そう、お父さんは最後に戦意喪失して敗北するけど、公子さんは戦意を失いかけても最後は勝つ。例え薄氷の勝利でも、勝ちは勝ち。さすがは風ちゃんのお姉さん。
そして、やっぱりお姉さんだなあと思うようなコメントを、その後再開された風ちゃんのおみやげ話に時折つけていた。例えば、パーティーで明け方まで飲んだという話には「そんな時間まで、しかも酔っぱらっちゃうまでお酒飲んじゃだめよ」とか。例えば、カジノに行ったときの話には「無駄遣いしすぎなかった?」とか。例えば、街中で会った面白い人の話には「知らない人には十分気をつけなきゃだめよ? どこかに連れてかれちゃうかもしれないんだから」とか。
なんていうか、お姉さんというより、お母さん?
そんな感じで風ちゃんのおみやげ話を三人で聞いているうちに、時刻はあっという間に十二時近くになっていた。向こうで仲良くなった六歳ぐらいの女の子の話が終わったところで、風ちゃんのお腹がぐうと鳴った。
「お腹がすきました」
みたいだね。ということで、お昼はどうしようかという話に自然と移り、公子さんは、風ちゃんを連れてそろそろ帰るからと言ったけど、お母さんと私で一緒に食べようと懇願してどうにか押し切った。
「ごめんなさいね、渚ちゃん」
「いえ、私たちの方こそ無理にお願いしてしまって」お母さんは公子さんにそう答えると、「何かリクエストありますか?」と風ちゃんに尋ねる。
「外国暮らしが長かったので、和風な食べ物がいいです」
七ヶ月も外国にいたんだもんね。
「もうちょっと具体的に言ってもらえると、助かるんですけど」
「ズバリ、和風ハンバーグです!」
確かに“和風”ではあるけど……。と思ったのはお母さんも公子さんも同じで、公子さんは実際に口にしていた。
「ふぅちゃん、それって、和風料理とは言わないんじゃないかしら」
「そうなんですかっ! それじゃあ……、和風スパゲティで!」
「まさかと思うけど、ふぅちゃんの言う和風って、そういう意味なの?」
「他にどんな意味があるっていうんですかっ。というか……、これも“和風”ではないと言うんですか!」あまりの衝撃に変なポーズで固まる風ちゃん。
こんな調子でもうしばらく続くのかと思ったけど、お母さんがこの流れをすぱっと断ち切った。
「とりあえず、ショッピングモールのレストラン街に行ってみましょうか。あそこなら、いろんな食べ物があるから、風ちゃんの食べたいものが食べられるでしょうし」
これに賛成しない手はない。「私もそれに賛成!」と手を挙げる。そして公子さんも「それが一番いいかもね」と観念した様子で同意。もちろん風ちゃんも同意し、お母さんと公子さんは日傘を手に、私と風ちゃんは帽子を被って、ショッピングモールへと向かった。
近くのバス停まで行き、たいして待たずにやって来たバスに乗ると、二人掛けの席に私と風ちゃんで座り、その後の二人掛けの席にお母さんと公子さんが座った。そして、風ちゃんは座って早々にうとうととし始め、最初のバス停を通り過ぎたときには寝息を立てていた。その寝息は、バスがぐいんと右折したり左折したりして身体が横に倒れても、ブレーキでぐっと身体が前に押し出されそうになっても、途切れる気配はまったくない。
全然疲れていないと言ってた風ちゃんだけど、やっぱり疲れてたみたいだね。
私はそっとしておくことにして、ぼんやりと風ちゃんのおみやげ話を思い返すことにして、目を閉じる。そして聞こえてきた声。
「汐ちゃん」
「ん? なんですか?」私は首をひねって後ろを向いた。
「ふぅちゃん、寝ちゃったんですか?」
なんで分かったんだろうと不思議に思いつつ、「はい。気持ちよさそうにぐっすり寝てます」と答える。考えてみれば、バスに乗るまではずっと喋っていた風ちゃんが言葉を発していないし、身体がぐらんぐらん動いているのだから、真後ろで見ていれば気付くのも当然か。しかも今こうして私の肩にこてんと寄りかかっていれば。
「重くない? 席変わりましょうか?」
「大丈夫です。それに、こうしてるとちょっと嬉しいんで」
「そう? 重くなったら、教えてね?」
「はい」風ちゃんの温もりを感じながら私は公子さんに答え、お母さんは「さすがの風ちゃんも、やっぱり疲れてたみたいですね」とくすりと笑っていた。
公子さんの話だと、風ちゃんが帰ってきたのは夜の十一時過ぎ。自宅にではなく、公子さんのお家に。てっきり自分の家に帰って、朝早く公子さんのお家に行って、そしてスクーターを拝借したのかと思ったらそうではなかった。そのようにした理由は、大きなトランクの中から家の鍵を探し出すのが面倒だったからとのことで、その気持ちはよく分かる。疲れた身体でぐちゃぐちゃなバッグの中を引っかき回すのって、本当きついんだよね。しかも私の場合なんて、バッグのなか汗臭いし。
公子さんのお家で存分にお風呂に入った風ちゃんは、深夜一時過ぎまでリビングでくつろぎ、公子さんに言われてようやく就寝。で、朝起きたらすでに風ちゃんが起きていて、朝の支度をしているうちにいつの間にか姿を消していた、というのが今朝までの顛末。
「こんな調子で七ヶ月も海外生活していたなんて、やっぱり私には信じきれません」という公子さんの言葉にはとても説得力があった。
でもこれに「公子さんは心配しすぎです」とお母さんが笑顔で異を唱える。公子さんには心配しすぎる傾向があることは誰もが認めるところ。無理もないけど。
ただ、なにも風ちゃん一人で七ヶ月もニューヨークで暮らしていたわけじゃない。瀬田さんや他の数人のスタッフさんも一緒だった。だから、信じられないというのはさすがに大袈裟かなと思う。
今回の長期滞在は、主に女性向けのバッグを手掛けているファッションブランド“HSF”の、アメリカ進出の足場を作るためのもの。そして風ちゃんは、そこのデザイナーさんだったりする。
ちなみに“HSF”とは、“Happy Star Fish”の略。つまり風ちゃんのファッションブランドのようなもの。といっても、風ちゃんが社長さんをやっているわけじゃない。公子さんの知り合いの瀬田さんが社長を務めている。
風ちゃんがまだリハビリをしている頃、たまたま目にした風ちゃんの自由奔放なセンスに強く興味を持ち、瀬田さんはデザイナーの道を勧めた。その後、日常生活を送れるまで回復した風ちゃんは、これから何をしようかとあれこれ考えた末、デザイン学校に行ってみようと決めた。
学校を卒業した風ちゃんは、瀬田さんの誘いを受けて、瀬田さんが社長を務めるデザイン事務所に入った。その後、研修という名目で一年以上、瀬田さんともう一人のスタッフさんと一緒にヨーロッパに滞在。その間の公子さんの心配ぶりは、見ていて可哀想に思えるほどだった。しかも風ちゃんに、来ちゃ駄目ですと言われていたので、なおさら。
帰国してその二年後、瀬田さんはもともとのデザイン事務所を他の人に完全に任せ、新ブランド“HSF”を立ち上げて、デザイナーに風ちゃんを抜擢。当初は、周囲からなんて無謀なと散々言われ、今でもたまに言われているそうなのだけど、面白そうなことに挑戦しない方がどうかしてると笑い飛ばし続け、今に至っていた。
ブランドとしてはまだまだ知られていないのが現状だけど、じわじわと噂になり始めているらしい。特にこの辺りの地域では。
なお、チャレンジ精神旺盛な瀬田さんはとても面白い人で、風ちゃんと互角以上にボケ倒し続けられる強者でもある。それゆえお父さんや杏先生は、奇跡の人と呼んでいた。
当たらずとも遠からず、とはまさにこのことを言うのかな。
という瀬田さん相手でも、公子さん的にはそう笑って済ますことは出来ないようで、「それに、風ちゃん一人というわけじゃありませんでしたし、瀬田さんも一緒でしたから」というお母さんの言葉に、「そうなのよねえ……」と、深い深いため息をついていた。
「ふぅちゃんがどれだけ周りの皆さんに迷惑を掛けたかを考えると……、ハァ……。あとで皆さんにお礼とお詫びをしなくちゃ。一人なら一人で心配だし、他の人と一緒でも心配だし。ふぅちゃんがもっとしっかりしてくれればいいんですけどね。いつまで経ってもこんな調子だから」
これにはさすがにお母さんも苦笑いで返した。「でも、風ちゃんはすごいです。がんばって勉強して、立派なデザイナーさんになって。そのうち、世界的に有名なデザイナーさんになるかもです」
「まさか。いくらなんでも、それはないでしょう」
「風ちゃんはとってもがんばり屋さんだから、夢じゃないと思いますよ」
「ふぅちゃんが、世界的な有名人、ねえ……」公子さんは思案げに呟いた。お母さんと公子さんのやり取りを、ずっと黙って耳を向けていた私も考えてみる。まず、風ちゃんワールドを展開する風ちゃん。そして、周囲に群がる人たちの――、疲れきった顔。
これって、どうなんだろう……。
と思った矢先、公子さんの心のこもった声が聞こえた。
「なんだか、想像したくないぐらいに気苦労が増えそうで、素直に喜べません……」
「こ、公子さん、大丈夫ですよ、瀬田さんがいますし」
必死になるのは仕方がないとして、お母さんのそのフォローもどうなんだろうと思う。公子さんのため息が一つ増えちゃってるし。
「あ、えと、私たちもいますからっ!」
「ありがとう。渚ちゃん」公子さんはそう言うと、ふうと一息ついた。それで気持ちを切り替えたみたいだったけど、それは明るいものではなかった。
「それに、正直言うとね……。本当はこんなこと言っちゃいけないんだろうけど……、ふぅちゃんががんばればがんばるほど、ちょっと寂しい気持ちになっちゃったりもするんです。誰よりも喜んであげなくちゃいけないのにね」
「公子さん……」
「いつだって私の側にいようとしていたこの子が、自分の意志で私から離れて、自分の進む道を一生懸命走って、どんどん遠いところへ行ってしまって……。今じゃ、ニューヨークにまで行っちゃうんですものね……」
風ちゃんは事故にあうまで、友達を作ろうとせず、あまり一人でどこかに行こうともせず、いつも公子さんの側にいようとしていたらしい。意識を取り戻してからは、一人で歩き出そうとする姿勢はあったけど、何年も寝たきりだった身体はそう簡単には元に戻らず、何年も公子さんと芳野さんの三人四脚でがんばり続けた。
その間、どれだけ辛くて苦しい想いをしていたかなんて、当時の話を少しだけ聞いたことはあるけど、それだけで容易に想像できるものじゃないし、ましてや分かってしまうものでもない。でも、たとえ暮らす場所が近くて、まめにふぅちゃんの世話を焼いていても、遠い場所へと真っ直ぐ走り続けている風ちゃんに寂しく思う公子さんの気持ちを察すると、ほとんど分かっていない私でも切なくなる。
私は、何か声を掛けたいと思った。でも、何て言えばいいか分からず――。
「どんなに遠い場所に行っても――」と、お母さんの優しい声が公子さんに向けられた。私は言葉を探すことを止め、続くお母さんの言葉に耳を傾ける。
「風ちゃんはいつだって、公子さんのところに帰ってきます。だって風ちゃん、公子さんのこと、誰よりも大好きなんですから。だから心配する必要なんてありません」
「渚ちゃん……」
「それに公子さんは、どんなときも風ちゃんのお姉ちゃんです」
公子さんは、その言葉をゆっくりと受け止め、そして照れくさそうに言った。
「……なんだか、いつまで経っても妹離れできないお姉ちゃんみたいですね。私」
バスのエンジン音が足下からざわめき続ける中、公子さんのその言葉は、どこか嬉しそうに聞こえた。そして私の隣では、風ちゃんが幸せそうに眠っていた。
「ジャンボブラジリアンハンバーグをお願いします」という寝言を口にして。
Episode「台風、襲来」 -了-




