台風、襲来 その1
「太平洋上にあるこの大きな高気圧が北上し、明日明後日とこの週末は、全国的に晴れ間が広がるでしょう。夏休み最後の思い出作りをするには、最高の天気になると思います。それでは、まず九州沖縄地方から詳しく見ていきましょう――」
テレビから聞こえてくる声に耳を傾けながら朝ご飯を食べていた私は、この天気予報に、心の中で小さくガッツポーズをすると同時に、耳にしたくない現実を朝から突きつけられ、小さなため息もついていた。
きっと、今まさに私と同じような気持ちになっている人はたくさんいると思う。とりわけ、長いお休みを謳歌している私たち学生は。
そんな私に、目の前で一緒に朝ご飯を食べているお父さんがくすりと苦笑していた。
そう。夏休みももうすぐ終わり。それを残念に思わない人はいないはず。まあでも、正直言うと、夏休みが終わればまた友達と毎日会えるという楽しみがあるから、心底落ち込むほどのダメージではない。それに、夏休み最後のイベントとなる、明日からの三泊四日の旅行が天気に恵まれることを思えば、ため息なんてすぐに消えてしまう。
重たい気持ちは、楽しみな気持ちの前ではいつだってたいして強くないのだ。
気を取り直した私は、必要なことは聞いたから耳を傾ける必要はもうないと、テレビから流れる音を意識から遠ざけ、旅行のことを考えつつもぐもぐとご飯を食べた。呆れ顔混じりの笑顔をお父さんに向けらながら。
私より一足早く「ごちそうさま」と朝ご飯を食べ終えたお父さんは、新聞を手に取るとばさりと広げた。そしてしばらく黙って読んでいると、不意に、ほんの少し驚いたような声を上げた。
なんだろうと思った私はお父さんを見た。一緒に朝ご飯を食べているお母さんも「どうかしたんですか?」と不思議そうに尋ねる。
「ああ、これ」ちょっと嬉しそうな表情のお父さんは、注目する私たちにそう言うと、その記事が見やすいようにと新聞を四つ折りにして、ちゃぶ台越しにお母さんに渡した。そしてその記事を見たお母さんが、「まあ」と小さな歓声とともにぱっと笑顔を咲かせて、記事に目を走らせた。お母さんまでそういう反応をすると、私だって是非とも知りたくなるというもの。
「なになに?」
「これ」お母さんは、ひとまず箸を置いた私に新聞を差し出した。何が書いてあるんだろうと期待を持って受け取り、すぐさま紙面に目を向ける。そして、ぱっと目に飛び込んできた『今注目の美人ヴァイオリニスト』という太字の見出しと、そのヴァイオリニストの名前と小さな写真に、私は「あ! 仁科さんだ!」と喜びの声を上げた。
記事そのものはそう大きくはなく、簡単なプロフィールが主で、期待を込めた激励と、仁科さんの言葉がちょこっと添えられているといった内容だ。どうせならもっと大々的に書いてくれればいいのにとちょっと不満に思ったけど、とにもかくにも、こうして新聞に載ったというのは喜ばしいことに変わりない。なので、まだ食事中だということを完全に忘れて、三回その記事を読み返し、仁科さんの『聞いてくださる方々の心に、ほんの少しでもいいから温かいものが灯ってくれたらと、いつもそう思って演奏しています』という言葉を、我ながら気持ち悪いほどにやにやしている自分を自覚しながら、本当に穴が空いてもおかしくないほど見入った。
まさに、釘付けになった私。とそこに、お父さんの声が。
「汐」
「ん?」
「そろそろいいか?」
「何が?」お父さんが何を言っているのか分からず、首を傾げてお父さんを見た。
「何がって……、まだ読み終わってないんだけど」
一瞬、何が読み終わっていないのか理解できなかったけど、手にしている新聞のことだと気付くと、半分呆れ顔のお父さんに「あ、ごめんなさい」と返した。
「仁科さん、そのうちテレビにも出るようになるのかなあ」
「きっと、そうなると思いますよ。それよりしおちゃん。喜びに浸るのもいいけど、朝ご飯もちゃんと最後まで食べないとね」
「そうだった」
すっかり忘れていた朝ご飯を思い出し、食事を再開する。一方、お父さんは「智代から聞いたんだが」とこの話題を広げた。
「この前の夏祭り以来、仁科と叶さんが急激に注目されだしてるんだってさ。夏祭りの実行委員会にも問い合わせが来ていて、その数も日に日に増えているそうだ。なんでも、あの演奏を実際に見て聴いていた人たちがブログに書いて、そこからあっという間に方々に広まって、話題になってるらしい。
ま、音楽界以外でも注目される要素はもともとあったから、どのみちこうはなってたんだろうけど。まさか、こんな田舎町の夏祭りがきっかけになるなんてな。世の中、何がきっかけになるか、分からないもんだ」
私も、この夏祭りがきっかけで仁科さんたちがもっと有名人になったらいいなとは思っていたけど、本当にそうなると確信するまでには及ばなかったので、驚き半分、喜び半分といったところ。そしてここで、ふと思ったことを、最後の一口をごくんと飲み込んでから言った。
「ことみちゃんは?」
あの場にことみちゃんもいたんだから、話題になっていても不思議じゃない。
「ああ。ことみもそれなりに話題になってるらしい。でも、仁科たちと違って、新聞やらテレビやらに大きく取り上げられることはないんじゃないか?」
「なんで。そんなのずるいよ」
「俺に文句言われてもな。そもそもことみは学者だから、騒ぎ立てる対象にはなりにくいだろ」
「それはそうだけど」
「それにだ、芸能人みたいな世間の騒がれ方するの、ことみは好きじゃないだろうし、むしろ迷惑に感じると思うけどな。俺は」
そう言われて、テレビのワイドショーとか芸能ニュースなんかでよく見られる光景を参考にして想像してみた。
ところ構わず四方八方から向けられる、無数のカメラやマイクやライト。それらを手にしている、礼儀知らずで無責任な人たち。好き勝手に言い捨てていくテレビの中の人たちや、インタビューに答える興味本位の一般人。そして、どれだけ声を上げても聞いてもらえず、一方的に言葉の暴力を受けるしかない、その中心にいることみちゃん……。
むう。とっても嫌だ。それに、無性に腹が立ってくる。この想像が極端すぎるものと理解していても。
ということで、あっけなく前言撤回。騒がれない方がいい。
でも仁科さんたちは、もっともっと注目されて欲しい。そうなれば、コンサートとかに足を運んでくれる人が増えるだろうし、仁科さんも叶さんも絶対に喜ぶから――、と思うも、今し方想像した光景の中心にいたことみちゃんを、仁科さんや叶さんに置き換えた途端、果たして注目されることが本当に喜ぶべき事なのかと、ちょっと疑問に感じた。
「やっぱり、ほどほどが一番だね」
「そこまで一気に飛ぶか。ま、想像力が逞しいのは悪いことじゃないが、それもほどほどにしておいた方がいいと思うぞ」
どうやら、頭の中で描いていたこと全部、筒抜けだったみたい。
「私にそう想像させたのはお父さんでしょ」私はそう切り返して、同意を求めるようにお母さんに顔を向けた。そして、すでに同意していることを告げるような顔をしていた。というか、リアクションをしていた。
そこにある感情は私とはある意味違うけど、お母さんも私と同じ想像をしていた模様。
「ことみちゃん、可哀想です……」
「おまえまで逞しい想像するなよ……」
お父さんが脱力感のある声でそう呟くと、「ほらね!」と高らかに言うタイミングを一瞬にして失ってしまった私は、言い忘れていたごちそうさまを言って、食べ終えた食器を台所に運ぶことにした。
まさか私の上をいってたとは、なんて、お母さんに対する感想を抱きつつ食器をまとめていると、電話が鳴った。
こんな時間に電話が掛かってくるなんて珍しい。いったい誰からだろう。
電話に出たのは、お父さんではなくお母さん。
「はい。岡崎です」その声はちょっと潤んでいた。さすがに、早苗さんのようにはいかないようだ。お父さん曰く、早苗さんの立ち直りの早さは人智を越た領域だそうで、いわゆる“神の領域”にいる早苗さんと比較するのは可哀想かもしれない。
それはともかく、電話を掛けたら相手の声がちょっと涙声、となれば何事かと驚くなり心配になるのは当然。きっと、電話を掛けてきた人はこんなようなことを言ったんだと思う。
――何かあったの?
そしたらやっぱり。お母さんは「え? あ、いえ、何でもないんです」と慌てて答えていた。そこへ、タイミングが良いのか悪いのか、玄関の呼び鈴が鳴った。
誰からの電話か興味のあった私は、すっかりそちらに意識が向いていたために、呼び鈴に対応するのが遅れ、その隙に「今朝は随分と忙しいな」とお父さんが立ち上がっていた。
「あ、私が出るよ」
「いいよ。片づけの最中なんだし。立ってる者は親でも使えって言うだろ?」
知っててわざと言ったことは分かっていたけど、あえて「この場面でその台詞を使うの、お父さんじゃなくて私なんだけど」と指摘。お父さんは、「俺は春原じゃないんだぞ」と不満顔で一言抗議して、そのまま居間を出ていった。
となれば、私は素直に食器を片付けるしかない。のだけど、その手はとてもノロノロとしたもの。慎重にやっているわけじゃない。単に、意識が相変わらず電話と、加えて玄関にばかり向いてしまって、片付けどころじゃないから。
「本当ですか? 良かったですね、公子さん」
しまった。お父さんと喋っている間に、お母さんの方の話が進んでる。何が良かったのか分からないよ。でも、僅かに鼻声混じりながらもお母さんの弾むような声から、明るい話題であることと、電話を掛けてきたのが公子さんだということは分かった。
そして間髪入れず、玄関の扉が開く音がした。
誰だろう。この時間からして、お隣さんが回覧板を持ってきたのかな。もしくは郵便屋さんとか宅配とか?
と逡巡した途端、お母さんの声が頭の中を占めた。
「え? いえ、まだ来てませんけど。はい。分かりました。来たらすぐに電話します」
来る? 誰が? 芳野さん? お父さんを迎えに?
「そうだ、せっかくだから、公子さんもいらっしゃいませんか?」
あ、それいい。私も大歓迎。
「そんな、迷惑じゃないですよ。大歓迎です。しおちゃんも喜びますから、是非そうしてください」
うんうん。がんばれお母さん。
「え? あ、はい」そこで少しばかり間が空いてから、「ありがとうございます。――あ、そうですね」と苦笑し、「はい、お待ちしてます。それじゃ、またあとで。はい、失礼します」と頭を下げで、電話を切った。
すかさず私は、誰が来るのかお母さんに尋ねようとしたのだけど、そこでようやく、戸を開ける音がしてからずっと、玄関の方から物音一つ聞こえていなかったことに気付いた。お父さんの声も何も、戸を閉める音も。
えと、どういうこと?
と、あれこれ推測してみようと思った、まさにその時だった。いかにもげんなりとした声が玄関から聞こえてきた。お父さんの、ではなく――。
「最悪です」
この声って……、え……、ええっ!?
と私が息することを忘れそうになるぐらい驚いているうちに、お父さんのげんなりとした声が続いた。
「気が合うな。俺も、お前を目にした瞬間から、ずっとそう思っていたところだ」
「そんなっ! 岡崎さんと気が合ってしまっただなんて、最悪のさらに最悪です! どうしてくれるんですかっ!」
「今すぐ帰って寝てしまえ」
なんと……、風ちゃんだあっ!




