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恩師の長くて短い一日 その1

 数匹の蝉の、喧しいほどの鳴き声の中、玄関前の門の横にあるドアホンがお父さんの指で押されると、少し遅れてスピーカーから「どちら様かの?」という声が返ってきた。そのドアホンのすぐ横にある表札には、『幸村』という文字が書かれている。

「岡崎です」

「おお、来おったか。開いてるから入りなさい」

 その言葉に、私たちはお家の門を開け、ぞろぞろと中に入った。お父さんを先頭に、陽平おじちゃん、お母さん、最後に私といった順で。そして玄関の戸を開けると、ついさっきドアホンの向こうで答えていた幸村先生が出迎えてくれた。

 私の先生じゃなくて、お母さんたちの先生だから、本当は私が幸村先生って呼ぶのはおかしいかもしれない。けど、気が付いたらそう私も呼んでいて、いまだ誰も何も言わないから、問題はないでしょう。うん。

 七十半ばになる幸村先生は、お母さんたちの演劇部の顧問で、仁科さんたちの合唱部の顧問もしていた人。そしてなにより、お父さんと陽平おじちゃんを引き合わせた人、だそうです。

 お父さんも陽平おじちゃんも、幸村先生がいなかったら、間違いなく一年生の途中で高校を辞めていたと今でも断言していて、もしもそのとおり早々に中退していたら、その後の人生はろくでもないものになっていたに違いない、とまで言っている。つまり、二人にとって恩人中の恩人ということ。

 だというのに、お父さんも陽平おじちゃんも、その恩人に敬意を払うどころか、失礼な言葉を未だに使っている。例えば、今まさに――。

「今年も来てやったぞ、爺さん」

「独り身の寂しいジジイに愛の手をってね」

 でも幸村先生は、そんなお父さんと陽平おじちゃんに、穏やかな笑顔で「毎年すまんなあ」と答えている。

 まあ、幸村先生曰く「こやつらに礼儀正しくされたら、ワシの方が気持ち悪くてかなわんわい」だそうで、お父さんたちも「いまさら態度を一八〇度ひっくり返せって言われても、ンなの気持ち悪すぎて出来るか」だそうで、お母さんまで「パパや春原さんにとっても、幸村先生にとっても、今はこれが一番いいらしいから、本人たちの自由にさせてあげましょう」と諦めた様子で言っているから、私は傍観している他ないのだけど、娘としては正直恥ずかしい。

 だから、こういうお父さんを見た直後に、丁寧な物腰のお母さんの、「お久しぶりです、幸村先生。これ、つまらないものですけど」と言って暑中お見舞いの品を幸村先生に差し出す姿を見ると、娘としてホッとする。

 幸村先生が暑中お見舞いを受け取ると、やっと私の番。私はわざとお父さんにちらりと目を配ってから、礼儀正しく「こんにちは」とぺこりとお辞儀をした。

「はい。こんにちは。汐さんはまた大きくなったみたいじゃのう。それに、会うたびにお母さんに生き写しになっていくようじゃ」

 そうは言われても、あんまりモテていない現実を考えると、なんとなく弱気な「そうですか?」という返事をしてしまう。

「嘘は言わんよ。お前たちもそう思うだろう?」

「そりゃまあ」とお父さん。

 う~ん、身内に同意されても。でもまあ、幸村先生の言葉を信じて、ひとまず数年後の私に自信を持つぐらいはしてもいいのかな。

 そんな玄関先での挨拶がひとまず終わると、私たちは幸村先生のお家にあがった。

 畳部屋の居間に案内されると、真っ先に陽平おじちゃんがどっかと腰を下ろし、お父さんも早々に腰を下ろす。私とお母さんは、「冷たい飲み物と、他に何か持ってこよう。岡崎と春原はビールでよいか?」と言う幸村先生のお手伝いをすべく、後について台所に行った。

 一人暮らしのおじいちゃんのお家らしい小型の冷蔵庫から、幸村先生が缶ビールと麦茶を出し、その間にお母さんと私がコップを五つ、たくさんの種類と数の食器が納められている食器棚から取り出す。

 この食器棚を見た人は、このお家には大家族が暮らしていると思うに違いない。現実それだけの食器がずらりと収められている。数種類の大皿小皿、お茶碗にどんぶりなどなど。だけどこのお家の住人は幸村先生ただ一人。奥さんはずっと昔に亡くなっていて、息子さんやお孫さんはいるけど、みんな遠くで暮らしている。

 なんとも似つかわしくないこの食器棚の隣にある棚には、コーヒーや紅茶の瓶が数種類置かれていて、これまた似つかわしくなかったりする。というのも幸村先生はコーヒーも紅茶もほとんど飲まないから。

 こういった状況の理由を、幸村先生を知る人が聞けばすぐに大きく頷くと思うけど、そうでなければ幸村先生が一人で暮らしていると信じはしないでしょう。

 それはともかく、飲み物が用意されると、幸村先生はがさごそと何やら細長い箱を取り出した。

「カステラは好きかの?」

 もちろんです!

 と声に出る寸前でぎりぎり止めた自分にほっとしている間に、お母さんが「すみません」と答えた。ふう、危ない危ない。

 飲み物と食べ物が一揃いすると、それらを私とお母さんで手分けして持ち、居間に戻った。そして私たちは、喉を潤しながらお喋りを始めた。その口火を切ったのは、幸村先生のこの言葉だった。

「ところで春原、足の具合はもう大丈夫なのか?」

 陽平おじちゃんの骨折話は幸村先生の耳にもしっかり届いていたみたい。まあ、届いていないはずはないか。

「へっ。不死身の男をなめんなよジジイ」

「確かに不死身だもんな、お前」

 お父さんの茶々に、私も「うんうん」と頷く。陽平おじちゃんが不死身じゃなかったら、絶対に今生きてないもの。

「そうかそうか。それは何より。しかし……、車を蹴って骨折とは、お前は本当に相変わらずじゃなあ。そういった部分を少しは成長させられんもんか?」

「ほんと、アホな自爆してないで、いい加減一ミクロンでも成長しろよ。春原」

「あれは自爆じゃねえ! 名誉の“不死鳥”だ! それに岡崎、テメーだって成長してねえだろうが!」

 なんて言うか……。せめて、成長してるぞって否定するぐらいはしようよ。

「つうか! フン、今の僕が昔の僕と同じだなんて思われちゃあ困るねえ!」

 お、急に自信ありげな顔になった。ていうか、成長してないって認めるようなこと言ってなかったっけ?

「ふふん。今の僕にはなあ……、朝子ちゃんっていう可愛い恋人がいるんだぜ!」

 確かにそう言う意味じゃあ今と昔は違うけど、でもそれって、環境が変わったっていうだけで、陽平おじちゃん自体は人間的に何も変わっていないんじゃ? っていうか、いちいち突っ込むのもここまでにしておいたほうが良さそう。切りがないから。

 なんて思っていると、幸村先生が「おお、そうじゃったの。お前に彼女が出来たんだったのお」と話題を切り替えた。

 それから御久島さんの話になり、病室での告白から今に至るエピソードを、陽平おじちゃんは自慢げに話した。実際その場に居合わせていた場面については無論別として、それ以外の出来事については、どこまでが本当でどこからが嘘や誇張かを完全に判別することは不可能だけど、だいたいの話は御久島さんから耳に入れてるし、陽平おじちゃんと御久島さんの性格を考えれば、大きな誤差を生むことなく判別するのは難しくないと思う。

 ただ、幸村先生はどうだろう。ひょっとしたら、全部本当のこととして聞いているかもしれない。事実、お父さんが突っ込んだり疑念をぶつけたりしない限り、そうかそうかと嬉しそうに聞いているから。

 しかもお父さん、早々に疲れてしまって、口を挟むのを半ば放棄してしまっている。それだけ突っ込みどころが多いということなんだけど。

 まあ、今のところとんでもない嘘や誇張はないみたいだから、このままでも大きな問題はないとは思う。それに、いちいち話の腰を折ってしまうのも、幸村先生にとっては楽しいことではないかもしれない。なら、ひととおり話した後で指摘するのが一番いいのかも。もしくは後日改めてとか。そう考えて、私はあまり余計なことは言わないように意識しつつ、陽平おじちゃんの話に相槌を打ったり笑ったり、ときおり「嘘だあ」とだけ加えてみたりして聞いていた。

 御久島さんの話が終わると、仕事であんなことがあったこんなことがあったという話に移り、それにお父さんも加わり、賑やかな時間はいつまでも続きそうな気配を見せていた。ただでさえ陽平おじちゃんは話題の宝庫のようなものだし。

 そんな会話を聞いていて、もちろん私も楽しい。けど、幸村先生とお話したい気持ちもある。それに幸村先生のお話も聞きたい。ということで、話が一旦途切れる瞬間を狙うことにした。強引に割り込むようなことはしない。

 私は、虎視眈々とそのチャンスを狙った。ついでに、お話があまりにも面白くてチャンスを数度見逃してしまい、その度にしまったと僅かに遅れて後悔していた。そして、幸村先生のお家にお邪魔しておよそ二時間半、幾度目かのチャンスが、それも今回はビックチャンスがやってきた。

 話が一段落したところで、陽平おじちゃんがトイレに行くと立ち上がり、そしてそれに合わせたかのように、お父さんの携帯電話が鳴った。たぶん会社の人からだろうと思っていると、やっぱり会社の人だったようで、お父さんも席を外した。

 これで、今この部屋にいるのは私とお母さんと幸村先生の三人。まるで私のためにお膳立てしてくれたようなこの展開に、心の中で神様ありがとうと感謝する私の横で、お母さんが「すみません、幸村先生。来るたびに騒がしくしてしまって」と苦笑いをした。

「はっはっは。かまわんよ。それどころか、有り難いくらいじゃ。教え子の笑顔というものは、本当にいいものだからのお。それと、その教え子の家族の、幸せな笑顔も、の」

「私も、幸村先生の笑ってる顔見ると、すごく嬉しくなります」私に向けてくれた笑顔に、私は満面の笑みでそう答えた。

 さあ、お父さんと陽平おじちゃんが戻ってくる前に、お話を始めてしまおう。

「幸村先生」

「うん?」

「今度は、幸村先生のお話が聞きたいです」

「わしの話?」

「はい!」

 私がそう言うと、お母さんも「私も、ぜひ聞きたいです」と言ってくれた。

「そう言われてものお、汐さんを楽しませられるような話が、あるかどうか」

 幸村先生はそう言いながら、さてどんな話をしようかと思案げに腕組みをし、それじゃあと話し始めようとした。そして次の瞬間、それを遮る音がした。

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