天才博士の終わりなき挑戦 その1
その手紙が届いたのは、夏休み前の期末試験がいよいよ明日からと目前に迫った日のこと。
学校から帰った私を玄関で出迎えてくれたお母さんが、封の開いた一通の封筒をにこにこ顔で差し出してきた。見た瞬間に国際郵便と分かるその封筒から、誰からの手紙かはすぐに想像がついたし、直後、封筒に書かれている文字の筆跡から容易に特定できた。ついでに、既に手紙を読み終えているだろうお母さんの表情から、嬉しい便りであることも分かった。
ここまで分かったうえで、呑気に落ち着いていられるはずもない。私は慌てて足元に鞄を置き、というかぼとっと下に落とし、差し出されたお母さんの手から奪い取るような勢いで受け取り、封筒から便箋を引っ張り出し、きれいな文字で書かれているその手紙にさっそく目を通した。
そんな私に「お行儀が悪いですよ」と注意しなかったのは、きっと私がこういう反応をするだろうことを承知した上で差し出したから。それと、靴を脱いで上がったばかりのこのタイミングで見せてくれたのは、私に教えたくて仕方なかったから、だと思う。
さて、肝心なその手紙の内容だけど、極限まで要約して書き直すとこうなる。
『再来週、お仕事とサマーバケーションで、家族と一緒に日本に帰ります。その時、またみんなに会いたいです。ことみより』
これを読んだ私は、当然その場で大喜び。お母さんも嬉しそうに楽しみですねと言っていた。
基本、ことみちゃんは海外で生活しているから、年に数回、日本に帰ってきたときぐらいしか会う機会がない。そして今回の帰国はおよそ一年半振り。それに加えて家族が一緒。そのご家族と実際に会えるかどうかはまだ分からないけど、もしも会えるとしたら、こんな素敵なことはない。
この心躍る手紙は、期末試験という憂鬱な気持ちをきれいに吹き飛ばし、その余韻は夜になっても一片たりとも霞むことなく、私は仕事から帰ってきたお父さんをにやけ顔で出迎えていた。そのときお父さんに「気持ち悪い顔して、何かあったのか?」なんて失礼なことを半笑いで言われたけど、何かを期待するようなちょっと楽しそうな顔していたから許してあげた。
それはともかく、ことみちゃんからの手紙にお父さんも大いに喜んだのは言うまでもない。そしてこの手紙のことは、この日のうちに杏先生や椋ちゃん、智ぴょん、陽平おじちゃんなどなどへと駆け巡り、みんなことみちゃんの帰国を喜んでいた。ちなみにこの連絡網の発信元は、真っ先に手紙を読んで、いてもたってもいられなくなったと証言したお母さん。
それからの日々は本当にあっという間で、特に試験期間と答案用紙の返却期間が、自分でも驚くほど早く感じられた。ことみちゃんからの手紙がなかったら、試験期間を憂鬱な気分で過ごしていただろうことはまず間違いなく、テストの答案用紙が次々と返されていく日々も同様に、一日一日がとても長くそして重く感じられていたはず。事実、去年までずっとそうだったし。
と言うと、なんだか私が勉強苦手で、成績もあまり良くないように聞こえるけど、自分で言うのもなんだけどそう悪くはない。この前の中間テストでは、学年で二十一番だった。でも、だからといって学校の勉強が大好き、というわけではないし、試験なんて代物はまったくもって論外。だから、ソフトボールの試合の時みたいに「さあ来い!」という気構えで士気高々に迎い撃てる相手じゃないし、どちらかといえば後ろ向きになりがちになる。
そうなるはずだった私を、ことみちゃんが救ってくれたというわけ。
そうして、答案用紙が次々と返ってきて、喜んだりちょっと落ち込んだりほっと胸を撫で下ろしたりしつつ、一学期も残すところあと二日となったとき、ことみちゃんから再び手紙が届いた。
その手紙によると、来週の木曜日に日本に帰ってきて、翌々日の土曜日に一度こっちに帰ってくるそうだ。ただし、日曜日にはお仕事で人と会わなければならないらしくて、その日のうちにホテルに戻らなくちゃいけない。さらに、週明けの月曜からはスケジュールがぎっしりで、しばらくは忙しくてこっちに来られないとのこと。
まあ、帰ってきた理由の半分はお仕事なんだから仕方がない。それに、あとの半分はバケーションだと手紙にもしっかり書かれている。そのときにまた会えるのだから、残念がる必要はない。
そして、私的にまずまずの数字が並ぶ成績表を受け取って一学期が終了し、同時に夏休みに突入。まず私がしたことは、夏休みの宿題をおおかた片付けること。夏休み前から手をつけている宿題もいくつかあったことが功を奏し、突入三日目でほぼ終了していた。
こんなやり方は今回が初めて。いつもは八月中旬からちまちまと手をつけ始め、夏休み最終週に「こんなことならもっと早くからやっとけば良かった」と後悔しながら終わらせていた。なんで今年からこうしたかというと、今年こそ最後の一日まで夏休みを満喫してやると一念発起したから。それと、後に残してお父さんにからかわれるのもそろそろ卒業したいから。
ていうか、高校のとき宿題をことごとく無視していたお父さんにだけは笑われたくないよ。
宿題がほぼ終われば、あとは思いっ切り満喫するのみ。その第一弾となる大イベントが、ついにやって来た。そう、今日はことみちゃんがこの町に帰ってくる日なのです。
ことみちゃんを出迎える場所は地元の駅。というわけで、時計の針が一時を過ぎた頃、私はお母さんとお父さんと一緒に駅へとやって来た。私がまだ小さい頃は、都会に比べればまだまだ田舎の駅といった雰囲気があり、人の乗り降りもそんなに多くなかったのだけど、今では利用者もだいぶ増えていてるらしい。それだけ町の人口が増えているということで、喜ばしいことなのだろうけど、変わっていくその姿に寂しさを感じてしまうのは否めない。
駅の改札前には、私たちより一足先に来ていた杏先生と椋ちゃん、そして椋ちゃんの一人娘ゆかりちゃんがいた。
「遅いっ!」私たちに人差し指をビシッと向けて杏先生が一喝。遅いと言われても、到着予定時刻までまだ二十分近くある。つまりこの場合、挨拶代わりの言葉ということ。
「あんたたち気合いが足りないわよ!」
「どんな気合いが必要なんだよ」
そんな他愛ないやり取りをしてからみんな挨拶を交わした。四歳になったゆかりちゃんも、椋ちゃんの足に掴まって「こんにちは」と、私たちに向けて気恥ずかしそうにちょこんとお辞儀をする。その姿がどうにも可愛すぎて、会うたびに私の顔は崩壊していた。
椋ちゃんが小さかった頃もこんな感じだったのかと思うと、さらに顔面がにへらと崩壊したし、小さかった頃の杏先生を想像すると、ついつい笑ってしまいそうになっていた。もちろん、微笑ましいという意味で。
私は、膝を折って目の高さをゆかりちゃんに合わせて、崩壊した顔で「こんにちは」とご挨拶。ゆかりちゃんも照れくさそうな笑顔を見せてくれた。
うお~、お持ち帰りしたい~。
そんな私のすぐ側では、お父さんと杏先生がさっそく漫才を始めていた。
「ちょっと朋也、毎度毎度ゆかりを怯えさせるの、やめてくんない? こんなに怯えてるじゃない」
「俺がいつゆかりちゃんを怯えさせた。つか、鎖に繋がれていない猛獣がそばにいれば、そりゃビビらないわけないだろ」
「だったらあたしがあんたの首に鎖つけてあげるわ」
「俺につけてどうする。猛獣につけなきゃ意味ないだろ」
「あっははあ。じゃあ、だあれが猛獣だって言いたいのかなあ?」
「その猛獣の心を傷つけたくないから、口にするのは止めておこう」
お母さんと椋ちゃんも、二人の間にいるゆかりちゃんに目を向けながらお喋りをしている。
「ゆかりちゃんも来年から幼稚園ですね」
「ついこの前までよちよち歩きしてたと思ったら、もうそんな年になって。子供の成長の早さって、ほんとびっくりですよね」
「ほんとです。しおちゃんも、ついこの間までこんなちっちゃかったのに。今じゃこんなに大きくなって。来年には、身長で並ばれそうです」
ついこの間って、お母さんの手の平の高さ、私がまだゆかりちゃんぐらいの時のじゃない? なんていうか、大人の時間感覚にはいつだってついていけないな。
と、こんな具合でいつもと変わらない和やかな空気をわいわいと醸し出している中、一台のタクシーが駅のロータリーに入ってきた。何の気なしに目の端で追っていたそのタクシーは専用の降車場にゆっくりと止まり、少しの間を置いてからドアが開くと、黒革のショルダーバックを肩から提げたスーツ姿の女性が一人降りた。
その女性の姿に、私は即座に「あ、智ぴょん!」と声を上げた。
智ぴょんは私の声に、だからその呼び方は止めてくれと言いたげな表情でこちらへと歩き、お母さんたちはそんな智ぴょんへ一斉に視線を向け、杏先生は、「遅いっ!」とビシッと指さした。時間は、十分以上の余裕がまだある。それは自分の腕時計で確認した智ぴょんも分かっているはずなのだけど、「すまない。三十分前には来る予定だったのだけど、会合が少しばかり長引いて」と謝っていた。
これで全員集合。なお、陽平おじちゃんはこの日お仕事。昨日から猫田さんと一緒に接待でどっかに行ってる。
接待がどういうものかなんて私に分かるはずもないけど、いつもの調子の陽平おじちゃんと、汗をかきながらあたふたと苦労する猫田さんが思い浮かんだのは、たぶん間違っていないと思う。なぜなら、陽平おじちゃんが接待でどっかに行ってることを今知った智ぴょんが、「あいつの会社は、そことの取引を停止させるつもりなのか?」と真剣な顔で考え込んでいたから。
さて、あとはことみちゃんたちが来るだけ。
いつもより何倍ものワクワクのドキドキでその時を待つ。なんと言っても今回、スペシャルゲストてんこ盛りと言っても過言じゃない。それゆえ、どんな展開になるのか予想しにくい。けどだからこその高揚感。そこには一片の不安もなく、あるのは、とにかく楽しいことになるだろうという期待だけ。
そして、電車二本分肩すかしをされたのち、ついにそのときを運ぶ電車が到着した。
電車から降りた人たちがぞろぞろと改札口へやってくる。二度ほど期待を裏切られていたこともあって、二度あることは三度あるかもなどと冗談を言いながら見守っていると、まず、小さな子供を抱きかかえた、周りの人より頭一つ半抜きん出た茶褐色の外人さんを発見。
その外人さんは、私たちに向けて片手を上げて大きく振ってきた。私たちも手を振ったりぺこりと小さく頭を下げたりして応える。次いで、外人さんはすぐ横に視線を落として何やら喋りだした。その相手が誰かは、前を歩く人たちに隠れて見えなかったけど、改札までの連絡路がさして長くないということもあって、すぐに判明。
そこにいたのは、両の手をそれぞれ二人の小さな女の子に握られた、満面の笑みのことみちゃんだった。そしてその後ろでは、ことみちゃんのお義父さんとお義母さん、つまり隣にいる旦那さんのお父さんとお母さんが微笑ましそうに頬を緩めている。
なんだかとっても暖かく感じることみちゃんたちの姿に、私は無性にうれしくてたまらなくなっていた。




