雨の日の出来事 その2
美樹ちゃんの登場で、ようやく上履きに履き替えることができた私は、タオルと体操着を手渡した亜矢ちゃんと女子トイレの前で一時のお別れをして、美樹ちゃんと教室へ向かった。
なんともドタバタな一幕で始まったこの日の学校。そしてそのドタバタ劇は、下駄箱前で終わりじゃなかった。というか、終わりにしてくれなかった。女子トイレで私の体操着に着替えて教室にやってきた亜矢ちゃんが、「ありがと、ウッシー」とタオルを返してくれたあと、「で、高瀬くんに抱かれた気分はどう?」と、とんでもないことを言ったおかげで。
もうすぐ始業のチャイムが鳴ろうとしているこの時間の教室には、ほとんどのクラスメイトがいる。そのクラスメイトたちは、各々授業の準備をしたり友達と雑談したりしている。けど、亜矢ちゃんのこの言葉に、それまでの忙しないお喋りや物音がぴたりと止まり、思わず悪寒が走ってしまったほど、水を打ったように静かになった。
そして数秒間の沈黙の後、一転して天地がひっくり返ったかのように騒がしくなった。
亜矢ちゃんの意味不明なとんでも発言と、騒然としたこの反響に、瞬く間に耳がじんじんと熱くなるのを感じながら、なんてこと言うのと亜矢ちゃんに抗議しようとした。
けど、もう遅かった。この教室の半数近い女子が、わっと私に押し寄せてきて、一瞬にして取り囲まれ、悲喜こもごもの声を問答無用で一方的にぶつけられては。
「今のマジ!? うっわー!」これは単純に驚きの声。
「いつの間に付き合ってたの?」これは興味津々といった黄色い声。
そして圧倒的に多かったのは、「ちょっと今のどういうことよ!」という、嫉妬を含んだ怒りの声。
中には「そんときどんな感じだった?」「岡崎さんって、結構ヤってる子なの?」「奥手だと思ってたら大胆なんだね」などという、本当に勘弁して欲しい声も混じっていた。
これは早くどうにかしないと、冗談で済む話じゃなくなるかもしれないと思い、「ちょっと待ってよ! 私そんなことしてないよっ!」と、場をいったん落ち着かせたい一心で声を上げた。けど私の声は周囲の声に飲み込まれただけで、しかも「言い逃れしようっての?」と、相手によってはさらにヒートアップさせてしまった。
そんな状況で、美樹ちゃんが助け船を出してくれてはいたのだけど、効果はない模様。そしてコトの張本人である亜矢ちゃんは、「いやあ、まさかここまで反応してくるとは」と呑気に感心している。
これにはさすがに怒鳴りたくもなる。
「亜矢ちゃんが変なこと言うからこうなったんでしょっ! 早くなんとかしてよお!」
「ん~、まあ。試してみようか」
そう言って、亜矢ちゃんは一呼吸置き、びりびりと響く大きな声で言い放った。
「ああっ! 高瀬くんが来たあっ!」
その言葉に、私も含めた教室中のほぼ全てのクラスメイトの呼吸が一瞬止まり、視線が入り口へと向けられる。そしてそこにいたのは、いま話題の高瀬くんではなく、クラスメイトの川端くんだけ。
訳も分からず注目を浴びている川端くんは、「え? なに? 俺がどうしたん?」とたじろぎ、二歩後退。しかも、騙されたことに気付いた子たちの一部に、「お前じゃないっ」と理不尽にも怒られていた。なんて間の悪い川端くん。
そして残りは、亜矢ちゃんに文句を言おうとしたり食ってかかろうとしたのだけど、その前に亜矢ちゃんは「みんな引っかかり過ぎ。つうか、妄想し過ぎ」と笑った。これに激昂したうちの一人、福原さんが「も、妄想ってなによ!」と怒鳴る。まあ、激怒するのも当然だと私も思う。
そんな怒気を向けられたというのに、亜矢ちゃんの態度は変わらない。
亜矢ちゃんって、いろんな意味でほんと強者だ。
「あのねえ、ウッシーと高瀬くんが、みんなが妄想したようなこと、本気でするとでも思ってんの?」
「水野さんがそう言ったんでしょうがっ!」
そのとおり。
「うん。抱かれたことは間違いないわよ? ねえ、ウッシー?」
この期に及んでまだそういうこと言うか。
「そんなことしてないでしょっ! もう、変なこと言わないでよっ」
「だって、さっき下駄箱前で」
「してませんっ!」
「そんな力一杯否定して。あんたまで変な妄想してどうすんのよ……。助けてもらったでしょ? 高瀬くんに、こうやって」
亜矢ちゃんは私の背後に回り、椅子の背もたれなど構わずに後ろから抱きしめようとしてきた。確かに私は高瀬くんに助けてもらって、後ろで支えられてはいたけど、抱かれてなんて――、抱かれて……なんて? そういえば、高瀬くんの両腕があって……、え、なに? まさか、そういうこと?
ここに至って、私は亜矢ちゃんの言わんとしているところがようやく分かった。また、完璧でないにしろその意味を察した人もけっこういて、それは私を取り囲んでいた子に限らず、遠巻きに傍観していた人も含めてだった。そして、そういった人たちは例外なく、まさか、と言わんばかりにぽかんと口を開けていた。
ただ、察したところですべてを理解するには情報があまりにも少なすぎるし、まだ察していない子もいる。それと、怒る方向性を見失いかけている子も。
「助けてもらったって、どういう意味よ!」と怒りにまかせた感じで、福原さんが亜矢ちゃんに更なる追求をしてきた。
どういう意味も何も、そういう意味なんだけど。
と言いたいところだけど、きっと他の子たちも、納得のいく説明を聞かないことにはスッキリできないだろう。私としても、中途半端に終わらせてしまっては、後々面倒な遺恨が残りそうで恐い。だから、その説明を亜矢ちゃんに任せるような愚行はしなかった。
「それは!」
亜矢ちゃんよりも先に私が声を上げると、みんなの視線が一瞬にして私に集まる。
ここで勢いよく強い口調で喋れば完璧だったのだろうけど、一斉に向いたクラスメイトたちの眼差しに圧倒されて、どうにかこうにか口を開くのが精一杯となってしまった。
「えと、亜矢ちゃんが私に『服よこせっ』って飛びかかってきて、逃げようとしたら躓いて、危うくそのまま背中から転びそうになって、たまたまそこにいた高瀬くんが助けてくれて」
訴える自分の声は不本意な代物ではあったけど、とりあえずこれだけで、ほとんどのクラスメイトが、いったん「はあ?」と呻き、続いて「なんだよそういうことかよ」と不満そうに口を尖らせたり苦笑したり、「岡崎さんがそういうことするはずないもんね」と安堵の息を漏らしたり、「羨ましいな~、私も助けられたいよ~」と羨望の言葉を口にしたりと分かってくれたようなので、良しとしよう。
でも、まだ理解できない人もいるし、感情的になったままの人もいる。
前者は「それと『抱かれた』と何の関係があんのよ」などと疑問を口にしている。これに対し、どう分かりやすく解説すればいいだろうと考え始めたところ、私に代わって、理解できずに首を傾げている子に解説してくれる子がちらほら出た。私の後ろに立っている亜矢ちゃんも、一部実演しつつ答えた。
「ウッシーが背中から倒れて、高瀬くんがこう抱きとめて。も一度言うよ? 抱きとめて。とつまりそゆこと」
これで亜矢ちゃんの“抱いた”という言葉の意味はみんな理解することが出来たと思う。
残るは後者。「なにそれ! バカにしてんの?」と攻撃的な言葉を口にしている。ただし、私に向けてではなく、亜矢ちゃんに向けて。
その責任を私に負わされては、私だってかなわない。
そしてこれに対し、亜矢ちゃんはまたもやとんでもない言葉を返した。
「ていうか、『抱かれた』って言葉に食い付き良すぎでしょ」
正直、私も唖然としてしまった。
言うに事欠いてそうくるか。
これには、当たり前だけど教室中でブーイングの嵐が起きた。
それはそうだよね。でもそこは強者の亜矢ちゃん。
「まあまあ、ちょっとは気分転換になったでしょ? それとも、こんな天気みたいに鬱陶しくじめじめしてた方が良かったかな?」
などと終始笑い声で蹴散らし、蹴散らされる方も亜矢ちゃんのペースに毒気を抜かれてしまったようで、ブーイングは早々に鎮火していった。
亜矢ちゃん、将来きっと大物になるよ。
なお、全員の感情を鎮めたわけじゃなく、感情的になりすぎていた福原さんを含む数人は、ずっと憤然としたままだったし、美樹ちゃんも「亜矢っちが紛らわしい言い方するからっ」と亜矢ちゃんを叱っていた。
「いやあ、こういう展開になるとはほんと予想してなかったからさあ」
「予想しろっ。見な、可哀想に汐がこんなシナシナな姿になって」
今の私は、ぐったりと疲れて机に突っ伏している。二人のやり取りに参加する気になるまでにはまだ回復できていない。
「いやあ、悪いことしたなあとは思ってるよ? うん」
「思ってるなら、謝罪として汐にケーキの一つでも奢ったんなさい」
「まあ、そうだね」
ん? ケーキ? うむ。甘ん堂のケーキ二つなら、許してあげよう。
なんてこっそり耳を傾けていると、先生が教室にやって、なんとも疲れる一限前の一幕、というか朝の二幕目が終わった。
あとは、この話にハタ迷惑な尾ヒレがうじゃうじゃと付かないことを切に願うだけなんだけど、願うだけじゃあまりにも心許ない。よし、今日学校終わったら、強力な願掛けみたいなおまじないを有紀寧お姉ちゃんに教えてもらいに行こう。
こうして、朝のドタバタがようやく一段落した。でも悲しいかな、この二幕目で終演、とはなってくれなかった。次の休み時間、数人の女の子が私のところに来て、抱きとめられた感想を求めてきた。
そんなもの求められても、「みっともないところ見られて、ちょっと恥ずかしかった」以外に言う言葉はない。だというのに、「そうじゃなくてっ! あの高瀬くんにハグされたんだよ? 天にも昇る気持ちできゃーとかなるでしょ、ふつー」と、自分が私の立場だったら的なコメントと同じものを私に求めてくる。
まあ、相手は学年で三本の指に入るイケメンの男の子。多くの子がそういう反応をするだろうことは想像するまでもない。でも、私にそれを当てはめられても、私にはそういうの無いから。
で、と思う。もし相手が高瀬くんみたいな女子に大人気の男の子ではなく、いつも無愛想で不良属性のある強面の、女子に不人気の岸川くんが相手だったら、みんなどんな反応していただろう。ちなみに私は、そんな岸川くんとごく普通に話す数少ない女子の一人です。
ちょっとした悪戯心でそんなことを考えながら、同意を求めてくる声に苦笑いで答えていると、美樹ちゃんがまたもや助け船を出しにきてくれた。
「汐は、お父さん命だからねえ」
あれ、これって助け船って言うの?
「だからあの高瀬くん相手でも、微動だにしないんだよね」
「別に命じゃないよ!」
すると、「え? じゃあ岡崎さんが重度のファザコンって話、やっぱり本当だったんだ」という声が。
ちょっと待った。私ファザコンじゃないよ。……まあ、ファザコンかなって思うときもたまにあるけどさ、とくかく重度のファザコンじゃないから。ていうかやっぱりってなに。
そんな思いを込めた「違うよ!」という私の訴えは、美樹ちゃんのコメントによってどうでもよいものになったらしい。
「汐のお父さんって、すっごく格好いいんだよ。しかも優しくてさ」
「え、そうなの? ちょー見てみたーい」
「岡崎さんっ、今度会わせてよっ」
などと、関心はすっかりお父さんへと向けられた。
なんと言うか、とりあえず話題が変わってくれたことには素直に喜べるけど、美樹ちゃんの一言で第三幕が開けてしまったような気がしてならない。
不幸中の幸いというか、この場に亜矢ちゃんがいなかったのは助かった気がする。その亜矢ちゃんがこの休み時間中どこにいたかというと、体操着を誰かに借りるべく、教室を渡り歩いていた。




