雨の日の出来事 その1
基本、雨は嫌いじゃない。でも、毎日毎日降られるとさすがに迷惑に感じてしまう。湿気でじとじとはまだ良いとして、何より部活への影響が深刻。グラウンドを使った練習がずっと出来ないでいるのだから。しかも、この日も朝から降っているその雨が、バケツをひっくり返したような土砂降りともなると、気分はマリアナ海溝並に落ち込み、自然とため息がこぼれてしまうし、こんな台詞だって出てしまう。
「うちに車があったらなあ」
びしょ濡れにならずに学校に行けるのに。
なんて、洗面所で顔を洗いタオルでごしごしと拭いているところに、パジャマ姿のお父さんがやってきた。
「あったら、どうするつもりなんだ?」
「あ、お父さん。おはよう」
「おはよう。汐。んで? まさか車があったら、俺をお前のお抱え運転手にでもするつもりか?」
お父さんはそう言いながら、まるで荷物をどかすように洗面台の前から私をどかして、ばしゃばしゃと顔を洗い始める。
「それ以外にどういう理由があるっていうの?」
「毎日お前が、俺の送り迎えをする」
「出来るわけないじゃない。それに、免許取れるのまだまだ先だよ?」
「んじゃあ、お前が免許を取ったあかつきには、毎日頼むな」
「それまでの間、一日も欠かさず私の送り迎えをしてくれたら、ちょっとは考えてあげてもいいよ?」顔を洗い終えて洗面台から顔を上げたお父さんに、まだ使われていないもう一枚のタオルを手渡しつつ言い返す。
「だったら、お前の小遣いで俺に車を買ってくれ」
「だったら、今すぐにでも買えるようなお小遣いにして。そしたら買ってあげる」
「だったら、俺の給料を上げてくれ」
とここで、お母さんの微笑ましそうな「二人とも、いつまでそんなところで遊んでる気なんですか? 遅刻しちゃいますよ?」という言葉で、このやり取りは打ち切りとなり、私は「はあい」と答えて洗面所を後にし、お父さんは電気カミソリでひげを剃り始めた。
すっかり目を覚ました私は、四畳半の自室でではなく、ついさっきまで寝ていた座敷で制服に着替える。あっちでもいいんだけど、一間で暮らしていた今までの習慣からか、こっちの方がしっくりくるのでこうしている。ということで、私の制服は寝室としても使われているこの部屋の壁に掛けられているし、シーズンオフのものを除いた、普段着る衣類全般も、お母さんたちの使うタンスの一角にしまっている。
ただし、このままずっとそうし続けようと固く誓っているわけじゃない。そのうち四畳半の部屋を自分の部屋として十二分に活用する日は来ると思う。でも今は、まだそのときでないというだけのこと。……たぶん、ね。
さっさと着替えを済ませた私は、襖を開けて、居間として使っている隣の部屋に移動。そして、すでに朝食が並べられているテーブルの前に座り、お父さんより一足先に食べ始める。美味しいはずの朝ご飯は、庭に続く広い窓から聞こえてくる激しい雨音のせいで、美味しさが少々ダウン。この雨のなか学校に行くことを考えるとさらにダウンしていた。
車があれば、とまたも思ってしまうと、ため息が一つこぼれる。
「しおちゃん、朝からそんなため息をしてたら、今日一日の楽しいことが全部逃げ出しちゃいますよ?」
「だってえ。絶対にびしょ濡れになるんだよ?」
「そんなの、替えのものやタオルを持っていけばいいだけじゃない?」
「それはそうだけどさ」
「それに、きっとこういう日でも、何か楽しいことや嬉しいことが一つはありますよ。だから、それが逃げてしまわないようにしないと」
私が言いたいのは、実害がどうこうじゃなくて気分の問題。でも、お母さんのその笑顔に、私は心の中で「負けました」と頭を垂れるほかなかった。ただ、だからといって気持ちを前向きなものに切り替えられたわけじゃない。これから外出する人たちの中で、晴れ晴れとしていられるような人なんて、きっといないよ。
そして朝の用事を全て済ませると、お母さんとお父さんに「行ってきまあす」と言って、傘を片手に玄関を出た。
雨の中の登校はこれで四日連続。雨の中の下校も四日連続確定済み。そしてここ二週間を振り返ってみれば、雨の降らなかった日は片手でも余る程度しかない。まあ、梅雨の真っ直中だから仕方ないのだろうけど、この雨脚の強さだけはどうにかして欲しかった。
家を出てものの一分も経たないうちに、スカートの裾辺りから下がびしょ濡れ。ついでに、隙間から吹き込む雨粒と私の足を伝い落ちる雨粒とで、長靴の中も早々に気持ち悪いことになり始め、学校までの道程の半分を過ぎた頃には、ぐっしょりと濡れたスカートからぼたぼたと滴が落ち、たくさんの水分を含んだ靴下が、長靴の中で一歩ごとに嫌な音と感触を私に向けていた。
そんな最中、早く学校に着いてくれないかなと歩いていると、一頭の犬が目に止まった。
ガードレールと車道を挟んだ向こう側、雑種らしき薄茶色のその中型犬が、雨に打たれ全身ずぶ濡れになりながら、平気な顔をしてトコトコと歩いていた。首輪をしているから、きっとどこかの家で飼われている子だ。リードがないところを見ると、勝手に出歩いているっぽい。そう考えると、こんな大雨の中を好き勝手歩き回っているその姿が、なんとも勇ましくて、可愛らしく見える。
幸い、私の歩く方向とこの犬さんの歩く方向が同じだったので、しばらくちらちらと見ながら歩いていたのだけど、歩く速さは向こうが上。瞬く間に差が開き、そのまま姿を見失ってしまった。
もうちょっと眺めていたかったし、出来ることならもっと間近で見て、あわよくば一撫でしたかったので、残念で仕方がない。でもその代わり、この出会いを心の中で楽しんでいたおかげで、それまでの陰鬱な気分はどこかに隠れてしまっていたし、それからの時間がひどく短く感じられた。
ほんの一瞬の、ささやかな出会い。
そんな一幕が、こうも私の気分を変えてくれるとは。
ここで思い返されたのが、お母さんの今朝の言葉。ため息ばかりついてたら、嬉しいことや楽しいことが逃げてしまう、というあれ。この場合は、逃げてしまうというより、見逃してしまうといった方が正しいような気がするけど、それはともかく、つまりそういうことなんだよね。お母さん。
そして、重そうな足取りの周りの学生に比べて、いくぶん軽い足取りで、学校に到着した。
玄関のひさしの片隅でスカートの裾を握り、ぎゅっと水を絞り取る一部の女子たちに混じって、私も簡単に絞り、それから中に入る。そうして下駄箱までやってきたところで、靴を脱ごうとしている亜矢ちゃんと遭遇したのだけど、本来なら「おはよう」と言うところを、私は思わず「……す、凄いことになってるね」と、率直な感想を述べていた。
不気味な暗い笑みを浮かべた亜矢ちゃんは、まさにバケツの水を頭から被ったような様相で、スカートは言うに及ばず、制服の上からも、そして髪の毛からも水を滴り落としている。
「どうしたの?」
「傘が根性なしでさ……」
「つまり、途中で壊れたってこと?」
亜矢ちゃんはこくりと頷く。どうして壊れたかは今はおいといて、私は鞄からタオルを取り出し、「とりあえずこれ使って」と差し出した。けど、亜矢ちゃんはそれを受け取る代わりに、こう呟いた。
「……同情するなら服をくれ」
「くれって言われても。っていうか、体操着に着替えれば――」
「ふふふ……、そうなのよね、そうなんですよね。でもね、今日体育があるってのに、忘れやがったのですよ、この私は……」
うわあ。ある意味ダメージが二倍だ。
「だから、だからね……」
「う……ん?」
なんか嫌な予感。
「ウッシーの制服を、よこしなさーい!」
なんで体操着じゃなくて私の制服?
などと呑気に突っ込む間もなく、壊れた亜矢ちゃんががばーっと飛びつこうとしてきた。このままはぎ取られてしまうかもと身の危険を感じた私は、弾かれるように上体を反って後ずさりする。けど、まだ脱いでいなかったゴム長靴の靴底が災いしてしまった。
最初の一歩目。左足を後ろに引いたところ、思っていた以上に長靴が滑らず、予想外の地点で足が止まってしまった。これでバランスを完全に崩してしまった私は、二歩目でどうにか踏ん張ろうとした。でもその足も、着地直後に長靴の中で足がずるりと滑り、さらにバランスを失う。そして、あとはもう為す術なく、バタバタと足を数歩後退させるのが精一杯で、背中から思いっ切り倒れるしかなくなっていた。
その状態で私は、ああ、このままみっともなくお尻を打って、背中を打って、後頭部を打つんだろうなあ、と思いながら、スローモーション映像のようにゆっくりと流れていく亜矢ちゃんの驚いている顔や、下駄箱などの周りの光景を、他人事のように暢気に眺めていた。
そして、もう完全にアウトだと思ったとき、私は何かに受け止められた。それは硬くて冷たいものではなく、むしろ温かくて、コンクリートのような硬さもない。
何が起きたの?
私は思わず、目を丸くして固まった。そして頭上から「ぎりぎり、セーフだったね」という男の子の声が。反射的に私は首をぐるんと回して見上げる。そこにいたのは、隣のクラスの――。
「あ、高瀬くん」
高瀬くんとは一年の時おなじクラスだった。入学当初から女子に人気で、同学年の男子の中で三本の指に入るほど。
「おはよう。岡崎さん」
「おはよう」
えーと、で? どういうこと?
と思ったところで、ちょうどおへそ辺りの圧迫感に気付いて、視線を上から下に落とした。目についたのは、ちょうど圧迫感のある場所に巻きついている男の子の両腕。
「あのさ、自力でどうにかしてもらえないかな。この体勢だと、支えるのが精一杯なんだよね」
つまり、この腕は高瀬くんので、危ないところを高瀬くんに助けてもらって、そして今、高瀬くんに支えてもらっている、ということか。
と状況を理解したところで、「わ、ごめん!」と私はようやく慌てた。
ひとまず自力で体勢を立て直さなくちゃいけない。そのためにはまず足の位置を変える必要がある。でも、体があまりにも後ろに傾いてしまっているために、どこに足を置こうが状況は変わりそうもない。むしろ悪化する可能性がある。
少し足の位置を動かして手詰まりとなってしまった私は、目の前の亜矢ちゃんに救いの手を求めた。
「見てないで助けてよお!」
「いいの?」
「いいに決まってるでしょ!」
っていうかなんでそんな言葉が返ってくるの?
「まあ、ウッシーがそう言うなら」
そして、いつの間にかいつもの亜矢ちゃんに戻っていた亜矢ちゃんは、私の腕をしっかり掴むと、高瀬くんに「ウッシーを放していいよ」と言って、私をぐいと引っ張った。その勢いが少々強すぎて、今度は前につんのめりかけてしまっていたけど、加減というものをあまり知らない亜矢ちゃんらしい。
ともかく、こうして私はピンチを脱し、高瀬くんもほっと胸をなで下ろしていた。
「ごめんね、高瀬くん。それと、ありがと」
「それはいいけど、今日は滑りやすいから、あんまりはしゃがない方がいいよ?」
あれ、なんだか私が悪いみたいな話になってない? それに、子供扱いされてるっぽい。いくら助けてくれた高瀬くんとはいえ、これはちょっと納得いかないよ。
私は少しだけ語気を強くして、「え、違うよ。いきなり亜矢ちゃんが私を襲ってきたから」と、苦笑している高瀬くんに事の次第を説明しようとした。だというのに、亜矢ちゃんが満面の笑みで「ウッシーの制服が欲しくてねー」なんて付け加えてきた。
「なに、二人はそういう関係?」
「え? そういう関係って?」
何のことかまったく分からない私は、思わずきょとんとしてしまった。そんな私を見て、高瀬くんが「分からないならいいよ。っていうかただの冗談だから」と笑いながら上履きに履き替え、それじゃ、と爽やかに去っていった。
なんか煙に巻かれたような気分。
すると、亜矢ちゃんが突然私を指さした。
「なに?」
「芸者ガール」
「へ?」
次いで、自分を指さして「悪代官」と。そして、手をわきわきと動かしながら「よいではないか、よいではないか」と顔を近づけてきた。
なんか今の亜矢ちゃん、溺死した幽霊が笑顔で私に取り憑こうとしてきているみたいで、正直恐いんですけど。と、ちょっと怯えているところに、美樹ちゃんの呆れたような声が聞こえた。
「で、二人とも。いつになったら上履きに履き替えるの?」
それは、亜矢ちゃんが私を解放してくれたら。




