春来たる? その2
無茶振りされた私は、苦肉の策としてこう答えた。
「お母さんパス!」
「え!? 私? そ、そう言われても!」
当然、お母さんは困る。そうなることを知った上でのパス。ごめんね、お母さん。全部お父さんが悪いんだからね?
ということで、なんてことするの! という抗議の目をお父さんに向けた。お父さんは私に「それはズルいぞ」と言いたかったようだけど、最初の四文字で口を結んだ。というか結ばせた。そして、そんな私とお父さんの水面下の攻防に気付いた杏先生が、ほほうと言いたげな笑みを浮かべていたのを、私は視界の端でしっかりと捉えていた。
その一方で、私のパスを受けたお母さんがあたふたと「春原さんの心の傷は、若い看護師さんがついてくれないからだそうですけど、それにしても、パパも杏ちゃんも言い過ぎですっ!」と説明していた。それを聞いた椋ちゃんは、意外な答えだったようでちょっと驚き、陽平おじちゃんに「そ、そんな事だったんですか?」と問い質した。
「そんな事って! こんな寂しい部屋の中で一人っきりなんだよ! 他に何の夢があるっていうんだよ!」
そういうことを唯一の夢とするところが、いかにも陽平おじちゃんらしい。
事情を理解した椋ちゃんは、やれやれといった様子。そして、苦笑いしながら「でもそれは、春原くんのせいなわけですから。さすがにあそこまでしてしまっては、私でも庇いようが」と言った。
これを聞いて、杏先生が右の拳をポキポキと鳴らし、ゴゴゴという地鳴りのような文字を背後に並べ、ゆらりとした低い声で言った。
「陽平……、あんた、私の可愛い妹に大恥をかかせるようなマネ、してくれちゃったりしたわけ?」
どうやら杏先生的に想像していた以上のことをしていたらしい。じゃなかったら、婦長さん命令の時点で指をポキポキ鳴らしていたはず。
これに対して陽平おじちゃんは、身の危険を感じながら「ご、誤解です! ボクは何も悪いことしてませんっ!」と強く主張。でも目は泳ぎ放題泳いでいるし、冷たい汗もぶわっと浮きだしている。
まあ、どちらに軍配が上がるかは考えるまでもない。
それに、何をしたのかはだいたい想像つくし、それが的外れだとも思わない。陽平おじちゃんの行動パターンは、昔も今もずっと変わらないでいるんだから。
そんな陽平おじちゃんは、杏先生の威圧で口を封じられて、代わりに椋ちゃんが、お父さんの催促に仕方なくといった表情で、事の次第を説明した。その内容は、方向性としては思ったとおりだったけど、中身についてはその上をいってた。
まず、私はてっきり、陽平おじちゃんの病室は最初から個室だと思っていた。だけどそれは間違いで、最初は六人部屋だった。そこで陽平おじちゃんが取った行動は、言わずもがな。
若い看護師さんが部屋にやってくると、えっちなことを言ったり口説いたりしてたらしい。
それを見ていた同室の大人の患者たちは、暇潰しにちょうどいいと止めようとせず、ただ一人の小学生の患者さんに至っては、早々にマネをし出した。しかも陽平おじちゃんが色々と余計なことを教えたため、さらにひどい状況に。
その結果、その子の親と若い看護師たちからクレームが出て、部屋を移動させることになった。その際、相部屋だとまた他の人に悪影響が出ないとも限らないという理由で、個室に強制隔離。さらに、クレームを受けて若い看護師に接する陽平おじちゃんの様子をこっそり見ていた婦長さんが、この患者にはベテラン以外近づけてはいけないと判断。
陽平おじちゃん的には、さあ次はボディタッチだ! と次の日以降を楽しみにしていたらしく、天国から地獄に突き落とされた気分だったと言ってた。
たぶん、その下心を婦長さんが見抜いたからこうなったんだと思い、試しに椋ちゃんに聞いてみたら、やっぱりそのとおりだった。
ちなみに、相部屋での陽平おじちゃんの行いを椋ちゃんが話しているとき、杏先生が本気で陽平おじちゃんの右足のスネにかかと落としをしようと、突然立ち上がって片足を高々と振り上げていた。しかも、スカートを穿いていることなどお構いなしに。
慌ててお母さんが止めに入り、私も先生の足が振り下ろされないようにと咄嗟にその足を押さえて、陽平おじちゃんが悲鳴を上げる中で、椋ちゃんが説得。それで大惨事は免れることができたんだけど、お父さんだけは、耳を赤くしてそっぽを向いていた。
椋ちゃんの話が始まる前に、席をお母さんに譲って移動したその場所からは、しっかり見えていたんだね……。
お父さんのえっち。
といった一幕もありつつ、椋ちゃんの説明が終了し、杏先生が「今度同じようなことしたら……、分かってるわよね」と釘を刺して、というよりも鉄杭を打ち付けて閉幕。
これでやっと、お見舞いらしいお見舞いになるのかなと思ったところで、椋ちゃんが帰ることとなった。
もともと長居できなかったのだから、しかたない。
凶暴なお前の姉貴を連れていけという陽平おじちゃんの訴えは、杏先生の眼力で即座に取り消され、椋ちゃんは「それじゃあまた明日」と陽平おじちゃんに言って病室を出た。椋ちゃんとちょっとお話ししたいことがあったので、ついでに私も病室から出る。
ここじゃあ二人でお話しするどころじゃなかったからね。
廊下は、当たり前だけど静かで、部屋の喧噪とのギャップに思わず苦笑してしまった。
「急にどうしたの?」
「うん。お父さんたちって、毎度毎度賑やかだなあって」
それには椋ちゃんも同意見のようで、クスッと笑った。
「それは言えてるわね。まあ、賑やかすぎるというか、度を超した悪ふざけをするときもあるけど」
「特に陽平おじちゃんを相手にするときはね」
「そうそう」
そんな会話をしているうちにエレベーター前に着く。おっと、こういう話をしたかったんじゃない。
「ねえ、椋ちゃん。看護師さんのお仕事って、やっぱり大変?」
まさか私がこういう話を振ってくると思っていなかった椋ちゃんは、「え?」と一瞬驚く。
「どうして?」
「深い意味はないけど、どうなのかな~って」
深くはないけど、浅い意味はある。実をいうとここ最近、パン屋さん以外にも、看護師さんになるのもいいかなあって思っている。
「やっぱり大変?」
「そうね……。私、看護師以外の仕事をよく知らないから比較できないけど……、大変だとは思うわ」
「例えば、どういうところが?」
「う~ん、やっぱり人の命に関わるお仕事っていうところかな。間違えましたでは許されないお仕事ですからね」
確かにそれは言える。
「だから、医学や医療に関するいろんな知識が必要だし、知識だけじゃなくて技術も必要だし、状況に応じた適切な対応が出来ないといけないから、もう毎日が勉強。その為には体力だって必要だし、とにかくやるべき事がとっても多いの。それに、患者さんの心のケアもね」
「うわあ……、大変そう……」
やっぱり、ハードル高いなあ……。
そんな気持ちが表情に出ていたようで、椋ちゃんが「でもね――」と続けようとしたところで、エレベーターのドアが開いた。中には、パジャマ姿の七十歳過ぎぐらいのおじいちゃんが一人乗っていて、椋ちゃんを見るなり「おや、野上さん」と快活に話し掛けてきた。
野上というのは、椋ちゃんの名字。
「あ、笹塚さん。今日もお散歩ですか?」
「ああ。せっかく元気が湧いてきたんだから、寝っ転がってちゃもったいない」
「そうですね。でも、無理は絶対に禁物ですよ?」
「分かってる分かってる。野上さんの言いつけは守るよ。でないと、ばあさんと娘にこっぴどく叱られちまうからね」
おじいちゃんはそう言って、目を細めて笑う。椋ちゃんも、「私にも叱られちゃいますからね」とにっこり微笑えむ。
「おお。野上さんに叱られるのはいいねえ」
「またそんなこと言って。おばあちゃんに言いつけちゃいますよ?」
「それは拙いな」
一階へ着くまでの僅かな時間の中、二人はそんな会話を楽しみ、私はそのやり取りを耳で楽しんでいた。
途中で止まることなく一階に到着すると、おじいちゃんは「それじゃあね」と元気に手を振って、病院のお庭へと向かった。すると、椋ちゃんが「今の人はね」と、関係者用の出入口へと歩きながら私に語り始めた。
「二ヶ月ぐらい前に、肺を患ってこの病院に入院してきた患者さんなの。手術は無事成功したんだけど、よほどショックだったみたいで、ベッドの上でずっとふさぎ込んでた。元気がなくて、食欲もなくて、生きる力を失ってしまった、そんな感じだった。
そんな笹塚さんをご家族の方が、毎日毎日病院に来て、一生懸命励ましたり、怒ったりしてた。なんで自分の気持ちを分かってくれないのかって、笹塚さんもおばあちゃんも泣いてたこともあったわ。
私も、笹塚さんには一日も早く元気になってもらいたくて、励ましたり怒ったり、……一度だけ口喧嘩みたいなこともしたのよ」
「椋ちゃんが喧嘩!?」
椋ちゃんからはまったく想像できない光景だ。
「ま、まさか、杏先生みたいなことも……?」
「さすがにお姉ちゃんみたいにはできないけど」
よかった。椋ちゃんが私の知らないところで杏先生みたいな打撃技をしてたら、ショックで卒倒していたところだ。だって、私にとって椋ちゃんは、白衣の天使そのものなんだから。
「その甲斐もあって、笹塚さんはすっかり元気を取り戻して、今はああしてリハビリ目的で散歩をするようにもなったの。そのとき、私ほんとうに嬉しかった。ご家族の方の心から喜ぶ顔ももちろんそうだけど、もう一つ。
『ありがとう』って、言ってもらえたことが。
命に関わるお仕事だから、辛いことや悲しいことは少なくない。わんわん泣いたことだって、何度もある。最初の頃なんて、それこそ泣いてばっかりだったしね。
それでもこのお仕事を選んで、本当に良かったって思えるのは、そういう喜びがあるからなの。ありがとうって言ってもらえて、私も、元気になってくれてありがとうって患者さんに感謝して、よおし、もっと頑張ろうっていう勇気も湧いてきて。
だから、大変だけど大変じゃない。何物にも代えられない大切なものが、そこにあるんですもの」
やっぱり椋ちゃんは白衣の天使様だあっ!
と心の中で叫ぶ私。まさかここで絶叫できないでしょ?
そうして関係者用出入口の手前までやってくると、ここでお別れ。椋ちゃんはこれから、四歳になる一人娘のゆかりちゃんを迎えに保育園へと行かなければならない。
余談だけど、ゆかりちゃんが産まれる前はパートじゃなかったけど、今はパートで働いている。看護師の仕事も大切だけど、娘も大切だからということで。
「ねえ、汐ちゃん」
「うん?」
「ありがとうっていう言葉って、すごい力を持ってると思わない?」
「まあ、言われて嬉しくはなるけど……、すごい力かどうかは、どうだろう」
椋ちゃんみたいな経験なんて無いから、正直なんとも言えない。
「そうね。まだ実感として分からないかもね。でも、これだけは覚えておいて欲しいな。
思いを込めた『ありがとう』の言葉は、必ず幸せな気持ちを運んできてくれる。言われた相手にも、言った本人にも。大切に想う人が相手であればなおさら」
幸せを運んでくれる、か。大切な人であればなおさら。
やっぱり椋ちゃんとお話しして良かったな。
私は椋ちゃんの言葉をしっかりと胸に刻んで、バイバイと手を振り、踵を返した。
来た道をなぞるようにして陽平おじちゃんの病室に戻り、スライドドアを開ける。その音にお父さんたちが私の方へと顔を向けたのだけど、このとき、私は背後に人の気配を感じたので、何の気なしに振り返った。
そこにいたのは、ナース服ではなく私服を着た二十歳前後らしき、私の知らない女の人。その手にはお見舞いの品だろうものがある。そしてその女の人は、けっこう可愛かった。
え~と、どちら様?




