春来たる? その1
ひどく飾り気のない静かな病室の中、簡易な椅子に座ったお父さんと杏先生は、どこか虚ろな視線を膝に落とし、しんみりといった様子で喋り始めた。
「まさか、こんなあっけない最後を迎えるとはな……」
「ほんとよね。正直、今でも信じられないわ……。ゴキブリも真っ青な生命力を誇っていたのに」
「ああ。俺だって信じられないよ」
二人の言葉がそこで途切れると、それを待っていたかのように、少し開いた窓からふわりと風が入ってきた。風は窓の端で佇んでいた遮光カーテンの端を小さく膨らませ、穏やかに揺らす。でも風はすぐに止み、カーテンはゆっくりと元に戻ていく。
その光景は、ささやかな出来事がまるで何事もなかったかのように巻き戻されていくようで、少しだけ胸がきゅっとなった。
出来ることなら、本当に時間を巻き戻して欲しい。でも、それは叶わない願い。過去はもう変えられないから。
「あいつは……、どれだけ殴られても、蹴られても、それで生死の狭間を彷徨っても、すぐに復活してた」
「そうね」
その姿は、私も何度も見てきた。物心着く前から、何度も何度も。
でも……。
「何があっても、復活してたってのに……。
どんなに水虫になっても、イボ痔になっても、円形脱毛症になっても、女に相手されなくても、目でカレーを食べても……」
「本気で息の根止めようとしても、結局、私には仕留められなかった……。本当、残念でしかたないわ……。でもまあ、だからこそ、あいつらしい最後なのかもね」
あ、重たい雰囲気からちょっと変わった。杏先生、天井見上げて、悲しいのに無理に微笑んでるっぽいし。そしてやっぱりお父さんも。
「そうだな……。タンスの角に足の小指をぶつけて、その痛みに片足で跳ねていたら、その足の小指までタンスの角にぶつけて、ショックのあまりそのまま逝っちまうなんて……」
「馬鹿だ馬鹿だと思ってたけど、散り際まで馬鹿のままなんて、どこまで馬鹿なのよ、陽平は……っ」
お父さんも杏先生も、悲しみに拳を強く握りしめている。
私だって、悲しい……。
「……あのー、いつまで続くンスか? 人をおちょくり倒したその芝居」
あ、ようやく陽平おじちゃんが喋った。しかも呆れ顔で。
「っていうか……、なんで汐ちゃんまでこいつらに乗っかってナレーションしてんのさ!」
「雰囲気出るかなーと思って」私は笑顔でぺろっと舌を出して答えた。
「お願いだから出さないでください!」
「うるせーぞ春原! 他の人に迷惑だろ!」
「そうよ陽平! ここをどこだと思ってるのよ!」
「それはあんたらでしょーがっ! つうかここ個室だし!」
ええと、とりあえずこの部屋の状況を説明します。
まずここは光坂病院の病室。部屋の中にいるのは、私とお父さんと杏先生と、そして入院患者の陽平おじちゃん。その陽平おじちゃんの右足のスネからつま先にかけてギブスで固められて、吊されている。
余談だけど、時間が巻き戻って欲しいとか悲しいとかっていうのは、昨日抜き打ちであった数学の小テストのこと。陽平おじちゃんのことを言ってたわけじゃないからね。
「だいたい、見舞いに来たなら手土産の一つも持ってこいよっ! なんでお前ら手ぶらなんだよっ!」
「なんで自爆した馬鹿に、そんなことしてやらなきゃなんねえんだよ」
「逆に、ここまでの交通費を出して欲しいぐらいよ」
お父さんも杏先生も、むすっとした顔で答える。
「だったら来なくてもいいでしょ!」
「俺も杏も、そう思ったんだけどな……」今度は、やや神妙な面持ちで。
「思うなよっ! 僕が寂しい人になっちゃうじゃん!」
「いちいちうっさいのよアンタは!」
杏先生が陽平おじちゃんを一喝して、喧噪が止んだ。といっても、陽平おじちゃんは不服そうにぶつぶつ小さな声で呟いているけど。そして、ほんの少し間を置いてお父さんが言った。神妙だった表情を一変させて、とても楽しそうに、音符が目に見えそうなほど声も弾ませて。
「こんな面白いイベントに参加しない手はないよなってことになってなあ」
「ボクは面白くねえ!」
「なに言ってんだお前」
また神妙な顔に戻った。しかも顔を近づけて、ヒソヒソ話をしようとしてるみだいだけど、声がダダ漏れ。っていうか意図的でしょ。お父さん。
「これで堂々と、杏に言いたいこと言えるんだぞ?」
「なんでだよ」
「よく考えてみろ。実の妹が勤めている病院で、その姉が入院患者にさらなる怪我を負わせるわけにはいかないだろ? だから、今お前がなにを言っても、殴られも蹴られもしないんだよ」
「マ、マジか!?」陽平おじちゃんが杏先生を見る。全部聞こえている杏先生は、にこりと微笑んでいる。
ごくり。という大きな音は陽平おじちゃんが唾を飲みこんだ音。
「ほ、本当に大丈夫なんだろうな」と不安げにもう一度お父さんを見る。そう言われたら、やっぱりこう言った。爽やかに親指を立てて。
「俺を信じろ」
「……それでけっこう失敗してきたんですけど。でも、こんなチャンスはもう二度とないかもしれないし……」
そして再度、杏先生をちらりと見る。微笑み具合が増していた。
「や、やっぱ無理でしょ! 絶対殴るでしょあの人!」
「大丈夫だって」
「いや、大丈夫じゃないッス! 無理ッス! あの顔は殴る気満々の顔ッス!」
確かに、杏先生の笑顔には「お姉さんに言ってごらん? 私の気持ちがスカッとするぐらい殴ってあげるから」という文字がくっきり浮かんでいる。これにはさすがに陽平おじちゃんも挫けざるを得なかった。
でもさ、仮に杏先生が本当に手を出せないとしても、退院後のことも考えてみようよ。
自分の誘導に引っかからなかった陽平おじちゃんに、お父さんは「ちっ」と舌打ち。
「なんスかその『ちっ』って」
「せっかく面白いもの見られると思ったのに」
「面白いのはアンタだけでしょ! まったく、さっきから……。嫌がらせに来ただけなら、もう帰ってよ」
「そう簡単に帰れるか。せっかく嫌がらせに来たのに」
「……はっきり言っちゃいましたね。あなた」
「ま、冗談はお前の顔だけにしといて、これからしばらく、看護師さんたちにお世話してもらえるんだから、そういう意味じゃ良かったじゃないか。って、なんで落ち込んでんだ? いつものお前だったら、底抜けなアホ面で大喜びするところだろ」
「底抜けのアホ面って、あんたねえ。それに、入院して良かったもクソもないでしょ。ってか、その話はしたくないよ」陽平おじちゃんの目から光が消えて、床が抜けてしまいそうなほど重いため息を吐き出した。
その件については、私もてっきり大喜びしているものだと思っていたのだけど、このリアクションは予想外。思わず、落胆した様子で横を向いてしまった陽平おじちゃんに「どうして?」と聞きたくなったところで、病室のスライドドアが開いた。
入ってきたのは、手にお見舞いの品を携えたお母さん。
「春原さん、お怪我の具合はどうですか?」
「渚ちゃん……。ボクもう、生きる元気を無くしたよ」
陽平おじちゃんは横を向いたまま答えた。お母さんは、「えっ!? 怪我の具合、そんなに悪いんですか?」と驚きの声を上げた。
「ああ。ボクの心は傷だらけなんだ」
「そんな大変な怪我だったなんて……」
お母さんの表情がとたんに沈んだ。
陽平おじちゃんの心の傷の理由が、怪我に寄るものじゃないだろうことは私にも分かる。当然、お父さんも杏先生も。
「渚、もう手の施しようがないの。陽平はもう……」
「そうなんだ。春原のアホアホ病は……」
たまらず、陽平おじちゃんが「ちょっとあんたら! さっきから失礼にもほどがあるでしょ! 少しはボクを気遣ったらどうなんスかっ!」と、がばっとこっちを向いた。
う~ん、お父さんと杏先生に喋らせていたら、永遠に話が進まないような気がする。お母さんもずっと勘違いしたままだろうし。
やっぱりここは私が。
「陽平おじちゃん。らしくないよ? 足の怪我の他に、何かあったの? もし私が力になれるようなことだったら協力するから、教えてくれない?」
「汐ちゃん……」私を見てそう言うと、俯いて「ありがとう。でも、こればっかりは」と悲しげに微笑んだ。でも私は諦めない。ここで諦めたら、お父さんたちのコントがまた始まって、話が足踏みし続けてしまう。お母さんのためにも頑張らないと。
「そんなの分かんないよ。ねえ、話してみて?」
「……もう、どうにもならないんだよ」
「どうにもって……、陽平おじちゃんの面倒を見てくれる看護師さんが、婦長さん命令で若くない人に限定にされたっていう話なら、私には何も出来ないけど……、でも――! って、あれ?」
陽平おじちゃんが口を大きく開いて驚いている。
「ひょっとして……、当てちゃった?」
「な、なんで知ってるのおっ!」
試しに一番可能性の高そうなものを言ってみただけだったんだけど、本当にそうだったなんて……。まあ、陽平おじちゃんらしいというか、お約束というか。
「どうせそんなこったろうと思ったわよ」と杏先生。お父さんも「アホらし」と呆れた様子。お母さん一人だけ、「心の傷って、そう意味だったんですか?」とちょっとびっくりしてから、「でも、怪我が理由じゃなくてちょっとホッとしました」と胸をなで下ろしていた。
「怪我っつったって、ほんのちょっとヒビが入っただけなんだから。心に傷を負うような代物じゃないし、それに、杏や智代にやられ慣れてる春原にとっちゃ、こんなのかすり傷程度さ。だから」
とお父さんが言って椅子から立ち上がると、吊されている陽平おじちゃんの右足のギブスに片方の手を添えて、もう一方は親指を立て、さわやかな笑顔でこう続けた。
「ここを思いっ切りチョップしても、痛くも痒くもない。なあ春原?」
「痛いに決まってるでしょ! つか痛みで死ぬわ!」
一瞬本気で、陽平おじちゃんなら大丈夫だよと思ってしまった。やばいぞ私。
さて、説明するのが遅くなったけど、陽平おじちゃんが怪我して入院したのは二日前の木曜日のお昼頃。入院先が椋ちゃんの働いているこの光坂病院だったから、すぐに私たちのところに連絡がありそうだけど、担当部署が違うっていう理由で、椋ちゃんが知ったのが昨日。それから杏先生の耳に入って、杏先生から私たちに。
最初、足を骨折して入院したって聞いたときは、軽く血の気が引いてしまったほど驚いた。頭の中でイメージしたものが、途中からあらぬ方向に折れ曲がった足だったから。でも杏先生がすぐに「ほんのちょっとヒビが入った程度で、たいしたことないらしいから、何の心配もないって」と説明してくれたのでそのイメージを振り払うことができて、驚きはだいぶ軽くなった。
でも先生。骨にヒビが入ってるって、たいしたことあると思うよ?
そして、お父さんと杏先生とでこの日のこの時間、言い換えると土曜日の二時ぐらいに、みんなで一緒にお見舞いに行こうという話になって、今こうしているところ。お母さんが少し遅れたのは、お父さんが急に「すまん、飲み物買っといてくれ。ああそれと、軽くつまめるようなやつ」とお母さんに言い出したから。しかも陽平おじちゃんへのお見舞いもお母さんに持たせて。
私も杏先生も、それぐらい自分で買いなさいと言ったのだけど、またもお父さんが「汐、杏。俺たちは、俺たちにしかできないことしよう」と言い出して、そんなお父さんの様子から何か企んでいることに気付いた私と杏先生は、お母さんに任せることにした。
で、お父さんの企みというのが、病室に入って、無言のまま椅子に座り、コントをするというもの。
いつも思うけど、お父さんのこういうところ、思いっ切り子供だよね。
好きだけど。
そのコントも一段落して、やっとごく普通のお見舞い風景になろうかというところで、さっきまでナース姿だった椋ちゃんがショルダーバッグを肩に掛けて病室に入ってきた。
「春原くん、どう? 具合は」
「どうもこうも、岡崎とお前の姉貴を摘み出してくれよ!」
「え? 何かあったんですか?」
「ひどいんだよこいつら、傷ついたボクの心を嘲笑うんだ!」
「お、お姉ちゃん! それに岡崎くんもっ! いくらなんでも嘲笑うのはひどすぎです! ただでさえ患者さんの心は、普段よりもずっとデリケートになるんですよ!」
強い口調で椋ちゃんが看護師さんらしいもっともなことを言ったのに対し、杏先生は「あっははあ。デリケートになってこの程度なんだってさ、陽平」と笑った。
「お姉ちゃんっ!」
「まあ待て、藤林。杏の言い分は間違ってないんだ。そうだろ? 汐」
え、えーっ!?
なんで私に振るのよおっ!




