第一部 はじめまして
西暦2081年の秋。渡部夏世奈は、庭に据えられた望遠鏡を覗き込みながら、父の上着の裾を引っ張っていた。夜風は少し冷たかったが、そんなことを気にしている様子はない。父の渡部昴は、片手に持ったコーヒーをこぼさないよう注意しながら、娘の小さな手に応じて腰をかがめた。
「ねえ、お父さん。お星さまって、いくつあるの?」
「さあ、いくつだろうな。お父さんにも全部は数えられないよ」
「えー! お父さん、宇宙のお仕事してるのに?」
「宇宙の仕事をしているからこそ、わからないことが山ほどあるんだ」
夏世奈は不思議そうに父を見上げた。彼女にとって昴は、星の名前を何でも知っている物知りだった。その父にもわからないことがあるというのは、少々納得がいかないらしい。昴は苦笑しながら望遠鏡の向きを調整し、今度は別の星を覗かせてやった。
「見えるかい? あの明るい星」
「うん! きらきらしてる!」
「今、夏世奈が見ている光はね、ずっと昔にあの星を出発した光なんだよ」
「ずっと昔って、何十年前?」
「もっと昔だな。何百年も、何万年も前かもしれない」
「そんなに!? じゃあ、お星さまって、すっごく遠いんだね!」
昴は頷き、冷えかけたコーヒーに口をつけた。星までの距離を光年という単位で表すことも、光には限られた速さがあることも、いずれ娘は学ぶだろう。今はただ、目の前で輝いているものが途方もなく遠くにあると知ってくれれば、それで十分だった。
夏世奈は再び望遠鏡を覗き、しばらく黙っていた。やがて何かを思いついたように顔を上げる。
「ねえ、お父さん。あのお星さまにも、人が住んでるの?」
「どうだろうね。まだ誰にもわからないんだ」
「じゃあ、いるかもしれないの?」
「そうだね。いるかもしれない」
その答えを聞いた夏世奈は、ぱっと表情を明るくした。昴は娘が次に何を尋ねるのか、少し楽しみになっていた。
「もし宇宙のどこかに誰かがいたら、夏世奈は何を伝えたい?」
「えっとね……」
少女はほんの少し考えると、両手を広げて元気よく答えた。
「おともだちになってください!」
昴は思わず笑った。宇宙に知的生命が存在するかどうか、人類は長い年月をかけて調べ続けている。仮に発見できたとしても、言語も文化も、生きている環境さえ違うかもしれない。それなのに、この小さな娘にとっては、友達になりたいと伝えるだけで十分なのだった。
「いいね。それなら、手紙を書いてみようか」
「ほんと!? お星さまに届くの?」
「届くかどうかは、まだわからない。でも、送ってみることはできるかもしれないよ」
「お返事も来る?」
「それもわからないな。相手がいないかもしれないし、いたとしても、こっちの言葉がわからないかもしれない」
夏世奈は少しだけ唇を尖らせた。どうやら手紙というものは、出せば必ず返事が来ると思っていたらしい。昴は娘の頭を撫で、星空へ目を向けた。
「でもね、夏世奈。返事が来なくても、手紙は手紙なんだよ」
「……どういうこと?」
「誰かに伝えたいことがあって、それを言葉にして送る。それだけでも、ちゃんと意味があるんだ」
夏世奈は首を傾げたまま、もう1度望遠鏡を覗いた。父の言葉をどこまで理解したのかはわからない。それでも、しばらくすると「じゃあ、書く!」と元気よく宣言し、昴の手を引いて家の中へ戻っていった。
その夜、夏世奈は机に向かい、覚えたばかりのひらがなで手紙を書いた。途中で何度も消しゴムを使い、父に字を尋ねながら、ようやく短い文章を書き上げる。
「できた!」
差し出された紙には、少し不揃いな文字が並んでいた。
『わたなべかよな、6さいです。おともだちになってください』
昴はその手紙を受け取り、しばらく眺めてから、大切そうに机の上へ置いた。
もっとも、その時点では、この手紙を宇宙の誰かへ届ける方法など見つかっていなかった。
昴が奇妙な信号に気づいたのは、それからしばらく後のことだった。
勤務先の観測施設で電波観測データを調べていた彼は、雑音に埋もれた微弱な信号の中に、不自然なほど整った反復を見つけた。最初は機器の誤作動を疑い、別の観測装置の記録と照合した。地球上の通信設備による干渉も調べたが、いずれも決定的な説明にはならなかった。
さらに過去の記録を洗い直すと、同じ特徴を持つ信号が以前から繰り返し観測されていたことがわかった。あまりに弱く、既知の天体現象とも一致しなかったため、長年にわたって雑音として処理されていたのである。
昴は観測時刻と信号の周期を並べ、反復する数列を抽出した。そこには偶然とは考えにくい規則性があったが、それだけで知的生命からの通信と結論づけることはできない。自然現象にも数学的な規則は現れる。未知の現象ならばなおさら、慎重に調べる必要があった。
昴たちは解析結果を他の研究機関にも送り、独立した観測記録との照合を進めた。異なる設備で得られたデータにも同じ特徴が見つかり、観測装置の内部で生じた雑音だけでは説明しにくいことがわかってきた。しかし、信号が人工的なものだという証拠には、まだならなかった。
調査を重ねるうちに、信号の一部に一定の間隔で繰り返される同期パターンが見つかった。昴たちはその周期と変化を分析し、信号が現れる条件に合わせて、こちらから同じ形式のデータを送り出す方法を検討した。
観測設備がなぜその信号を捉えられるのか、どこへつながっているのかは、依然として不明だった。送信した情報が届く保証もない。それでも、試してみる価値はあった。
昴は娘が書いた手紙を思い出した。
もちろん、ひらがなの文章をそのまま送っても、相手に意味が伝わる保証はない。そもそも相手が存在するかどうかさえわからないのだ。それでも昴は、娘の書いた文字を日本語のままデータに変換し、数列と同期信号に続けて送信することにした。
文字の意味を勝手に置き換えるよりも、まずは送った情報そのものが相手に届くかを確かめたかった。
送信に用いた数列と文字データは、観測記録とは別に保存された。もし同じ情報が戻ってきたとしても、それが装置内部の反射や地球上の干渉ではないと確かめなければならない。昴たちは、受信後の照合方法についても確認を重ねた。
やがて送信の条件が整い、信号に合わせてデータが送り出された。
送信が完了すると、昴はしばらく画面を見つめた。観測装置には、いつもと変わらない数値が流れ続けている。宇宙のどこかへ娘の手紙が届いたという証拠は、まだ何もなかった。
だが、数日後。
昴たちの知らない、別の宇宙で、そのデータを受け取った科学者がいた。
彼のもとへ届いたのは、規則的な数列に続く、意味のわからない文字情報だった。未知の通信経路から届いたそのデータを何度も解析したが、文字の意味は解読できない。それでも、既知の信号とは異なる構造を持つことは確かだった。
彼は送信元が情報を受け取れるか確かめるため、受信したデータの一部をそのまま返信した。
それは相手の言葉を理解した返事ではなかった。ただ、届いた情報を返すことで、通信が一方通行ではないかもしれないと示す試みだった。
さらに数日が過ぎた地球で、昴は新たな信号を受信した。
記録には、自分たちが送った数列と文字データの一部が、同じ順序で含まれていた。昴たちは保存していた送信記録と照合し、別の観測設備でも同じ信号が検出されていることを確かめた。
偶然の一致や装置内の反射ではないかと何度も検証した末に、昴は少なくとも送信した情報が何らかの経路を通って戻ってきた可能性を認めざるを得なくなった。
だが、それだけで未知の知的生命が存在すると証明されたわけではない。まして、娘の書いた言葉を誰かが理解したという証拠もなかった。
その知らせを聞いた夏世奈は、父の説明が終わるのも待たずに飛び跳ねた。
「お返事!? お父さん、お返事が来たの!?」
「そうかもしれない。でもね、夏世奈。まだ相手が何を言っているのかはわからないんだ」
「じゃあ、またお手紙書こうよ!」
昴は娘の笑顔を見つめ、やがて小さく頷いた。科学者として確かめなければならないことは山ほどあった。送信した情報がなぜ戻ってきたのか、その相手は何者なのか、そして、この通信がどのような仕組みで成立しているのか。答えは何も得られていないに等しかった。
それでも、6歳の少女はもう次の手紙のことを考えていた。
こうして、互いの存在すら知らなかった2つの宇宙の間で、初めて情報が行き交った。
まだ言葉は通じず、相手の姿も名前もわからない。ただ、遠いどこかへ向けて送った小さな手紙が、誰かの手に届いたかもしれない。
その可能性だけで、夏世奈には十分だった。




