第二部 君の言葉を知りたい
西暦2082年。渡部夏世奈が宇宙へ最初の手紙を送ってから、1年が過ぎようとしていた。
彼女は7歳になり、小学校へ通うようになっていたが、帰宅すると決まって父の書斎を覗いた。学校で覚えた漢字を披露する日もあれば、友達と喧嘩したことを報告する日もある。そして、どんな話をした日でも、最後には必ず同じ質問をした。
「お父さん、今日はお返事来た?」
「来たよ。ただし、今日のも数字ばかりだ」
「えー! また数字なの?」
夏世奈は頬を膨らませた。自分はちゃんと文字を書いて送ったのに、相手は数字しか寄こさない。少々不公平ではないかと訴える娘に、昴は笑いながら受信データを見せてやった。画面には規則正しく並んだ数列が表示されている。夏世奈には意味がわからなかったが、昴にとっては、その規則性こそが何より重要だった。
最初の往復通信が確認されて以来、昴たちの研究は新しい段階に入っていた。
当初、返ってきたのは、こちらから送信した情報の一部だった。それは通信経路の存在を示唆するものではあっても、相手が言葉を理解した証拠ではない。
しかし、その後も数理的な情報の交換は続いた。整数の並び、四則演算、等号、図形の関係。相手が提示した規則をこちらで再現し、別の条件を加えて送り返す。返ってきた数列が予測と一致すれば、少なくとも同じ数学的概念を共有できている可能性が高まる。
もっとも、数字が一致したからといって、その意味まで理解できたことにはならない。研究者たちは人工知能による解析も利用しながら、推定した解釈を通信によって繰り返し検証していた。
やがて、交換される情報は数学から物理へ広がった。
原子の構造、恒星の性質、時間の順序、観測された現象の変化。数値の並びだけでは曖昧だった関係も、図形や観測条件を組み合わせ、互いに予測を確かめることで少しずつ意味を持ち始めた。
相手の宇宙には地球と共通する物理法則があるらしい一方、どうしても一致しない観測値もあった。その違いが観測誤差によるものなのか、環境の違いなのか、それとも根本的な何かを示しているのか、当時は誰にもわからなかった。
夏世奈にとって、そんな研究の進展は少し退屈だった。
父から説明を受けても難しい話ばかりで、肝心の相手が何を考えているのか、さっぱりわからない。それでも手紙を書くことはやめなかった。学校で育てた朝顔が咲いたこと、冬に雪が積もったこと、父と見た流星のこと。最初はひらがなばかりだった文章に漢字が増え、やがて自分で調べた星の名前や、覚えたばかりの科学用語も交じるようになった。
遠い宇宙の科学者もまた、その手紙を受け取り続けていた。
彼の文明では、数値や演算、関係性を組み合わせた数列言語が用いられていた。地球から届く文字情報は、それとはまったく異なる構造を持っている。最初の頃は規則を見つけることすら難しかったが、長年の通信で蓄積された対応関係と、双方の研究者による検証が、少しずつ未知の文字に意味を与え始めていた。
彼は自分の宇宙の恒星や空の様子を、数列と図形に置き換えて送った。夏世奈が送った地球の季節の記録と比較すれば、似ているところも、まるで違うところもある。少女は返事に添えられた図形を眺め、父に何度も質問した。
あるときは難しい説明を最後まで聞いたあと、「つまり、そっちのお空もきれいってこと?」と尋ね、昴を笑わせた。
その質問を、長年の通信で確かめられた対応関係をもとに翻訳して受け取った科学者も、しばらく解析画面を見つめていた。
数式の正しさを確かめることに夢中になっていた自分は、空が美しいかどうかなど、考えてもいなかったのである。
少女の思いがけない言葉は、ときおり彼に遠い昔の記憶を呼び起こした。かつて同じように、彼の難解な説明を聞いてから、まったく別の角度で問いを投げかける女性がいた。
もう会うことのできない、夏世奈という名の恋人だった。
だが、通信の向こうにいる少女は、その女性ではない。
彼は懐かしさに戸惑いながらも、まだ知らないことばかりの小さな友人に、次は何を教えようかと考えるようになっていた。
それからも年月は過ぎ、夏世奈は背が伸び、父の望遠鏡を自分で扱えるようになった。通信記録は膨大な量に達し、解読の精度も着実に向上していた。
そして、長いあいだ意味のわからないまま保存されていた、2081年の最初の手紙にも、ようやく確かな解釈が与えられた。
『わたなべかよな、6さいです。おともだちになってください』
彼は復元された文章を何度も読み返した。
最初に受信したあの奇妙な文字列は、科学的な問いでも、観測結果でもなかった。6歳の少女が、自分と友達になりたいと願って送った手紙だったのである。
そして、その少女の名前が、渡部夏世奈だった。
彼は思わず解析の手を止めた。かつて愛し、失った女性と同じ名前。偶然であることは理解しているし、2人が別の存在であることも疑いようがない。
それでも、長い年月を経て解読された最初の言葉が、その名を伴っていたことに、彼はしばらく返事を書くことができなかった。
やがて届いた彼の返信には、少女の手紙を理解できたことと、友達になりたいという願いを受け取ったことが記されていた。
夏世奈はその返事を読んで、嬉しそうに笑った。
「ねえ、お父さん。お友達になれたんだよね?」
「そうだね。ずいぶん時間がかかったけれど、ちゃんと伝わったみたいだ」
「でも、ずっとお名前がわからないのって、変じゃない?」
相手の文明にも個人を識別する方法はあったが、その呼称を地球の言葉でどう表せばよいのか、まだ定まっていなかった。
夏世奈はしばらく考え、机に向かって紙を広げた。遠い宇宙の光を思い浮かべ、通信を通して響き合う言葉を思い浮かべる。そうして選んだのが、「陽呂」という2文字だった。
「陽呂。ヒロって読むの。どうかな?」
昴は娘の書いた文字を眺めた。幼い頃、ひらがなで最初の手紙を書いた少女は、今では自分の考えで言葉を選び、その意味を説明できるようになっていた。
「いい名前だと思うよ。本人にも聞いてみようか」
数日後、届いた返信には、贈られた名前を受け入れるという意思が示されていた。
それ以来、夏世奈は手紙の書き出しに必ず「陽呂へ」と記すようになった。彼もまた、その呼び名を使って自分を示すようになった。
名前を知ったからといって、相手のことがすべてわかるわけではない。通信の仕組みも、2つの宇宙の違いも、解かなければならない問題は増えるばかりだった。
しかし、夏世奈はそれを不思議と苦痛には感じなかった。知らないことがあるなら、調べればいい。理解できないことがあるなら、何度でも質問すればいい。
父が星空の下で教えてくれたその楽しさを、今度は自分の力で追いかけてみたかった。
進路を考える年齢になった頃、夏世奈は父に宇宙物理学を学びたいと告げた。
陽呂ともっと話したいという気持ちは、もちろんあった。だが、それだけではない。彼女は、自分たちが暮らす宇宙がどのように生まれ、なぜ遠いどこかの宇宙と情報を交わせるのか、その答えを知りたかった。
昴は娘の決意を聞き、あの秋の夜を思い出した。望遠鏡を覗いていた6歳の少女は、宇宙のどこかにいる誰かと友達になりたいと言った。
その願いは、いつしか自分の知らない世界を、自分の力で理解したいという夢へ育っていた。
夏世奈は机に戻り、新しい手紙を書き始めた。
『陽呂へ。今日は、私の将来の夢についてお話しします。』




