7話『主人の最後の願い』
美穂は大福丸たちと共に、見慣れた畑の間を歩く。
異世界に来るに際し、元の世界から持ってきたのは家だけではない。
家の周囲にあった畑やビニールハウスもまた、植えていた作物ごと、こちらの世界に転移してきている。
しかし、見慣れた光景に少し見慣れない光景が混じる。
冬野菜を守るために畑を覆っていた黒マルチは、黒い布に、一般的なビニールハウスは、どこぞの富裕層の庭にあるガラス張りの温室に変わっていた。
唯一変わっていないのは、今は何もない水田。
春に植え付けを行えば一面に緑が広がり、秋には美しい黄金が風に揺られていることだろう。
そして、一番変わったのは……
(……変な感じ)
いつも見えていた山が、ないことだった。
美穂は立ち止まり、遠くを見つめる。
日本にいた頃は、どこを見ても山があった。
朝、窓を開けたときも、畑仕事をしていたときも、家族と散歩をしていたときも。
子供の頃から慣れ親しんできた山は、いつだってそこにあった。
今、その山はない。
美穂たちが転移したのは、郊外にある森の中だ。
(異世界、なんだ……)
背の高い木々と、聞き慣れない鳥の鳴き声が、もうここは日本ではないことを、静かに教えてくる。
家や畑は、あの頃のままなのに、家の外へ一歩出れば、そこは知らない世界だった。
静かで、人が滅多に来ない場所と希望を伝え、上げられた候補から選んだのは美穂自身。
それでも、見慣れた光景が変わったことに、小さな頃から慣れ親しんだ山がなくなってしまったことは……少し、ショックだった。
◇
大福丸たちは、敷地の中を歩き回る美穂の傍を、ゆっくりと歩く。
大福丸の体は、ずっと大きくなった。
大福丸たちよりも大きかったはずの美穂が、今はとても小さく、か弱く感じる。
幼体となった肉体に引きずられ、感情に素直になったきな吉が、先ほどの大福丸の説教なんてなんのその。
わふわふと興奮したまま畑の間を走っている。
見慣れたはずの住処。
しかし、この場所から一歩でも出れば、駆け回った庭のような山とは全く違う、見知らぬ景色が広がっているだろう。
一見、見慣れたはずの景色、嗅ぎ慣れたはずの匂い。
そこに、いつも見えていた山は消え、見知らぬ森の匂いが混じる。
『頼むよ……大福丸』
頭をそっと撫でたシワシワの手を思い出す。
『どうかあの子を頼む』
『少しでも長く生きて、あの子の心の支えとなってくれ』
『あの子が幸せになる姿を見守ってやってくれ』
美穂の祖父だった大福丸の主人は、最後にそう言って静かに息を引き取った。
ただの犬だったころには分からなかった、この言葉の意味。
ただ一つ。決して美穂の傍を離れてはいけないということだけ、理解していた。
昔のように元気に山の中を走り回れなくなり、足元もよたよたとして、体は重く、思うように動けない。
ただ、美穂の傍を離れてはいけないという本能のまま、大福丸たちは美穂に寄り添い続けた。
『君たちには異世界に行ってもらうよ』
そう告げた、神と名乗る超越者に最初に感じたのは、畏怖でも畏敬でもなく、感謝だった。
犬よりも、猫よりも、はるかに長い時を生きる存在に生まれ変わらせる。
そう言われ、何よりも喜びと安堵が胸に満ちた。
主人の──誠一郎の最後の願いを、叶えることができる
誠一郎と、その番である幸恵が残した大切な宝の傍に、これからも寄り添い続けることができる。
ただの犬だった頃にはかなわなかった、あの子を守る力を得ることができる。
『君たちの主人が、君たちにも願いがあったら叶えてくれって言うのだ。何か望みはあるか?』
ならばと大福丸は望んだ。
──あの子を守る力を
──あの子を守る手段を
──あの子を守る知恵を
もしもの時、共にあの子を守ってくれる……
──あの子の味方になる存在を
『ふむ、ならこれから向かう世界で君たちが生まれ変わることになる種族の長に話を通しておこう。いざというとき君たちに手を貸すように、とな』
『君たちの主人は、その身に私の加護を宿し、世界に安泰と豊穣を与える使徒だ。彼らも喜んで手を貸すだろう』
神という絶対なる支配者に感謝を捧げる。
『向かう世界の人間の庇護下に入らないことを選んだのは彼女が初めてだ。どうか支えてやってくれ』
草木の匂いがする。
風に揺れる草木の音、鳥の鳴き声が聞こえ、生命力に満ちた森の気配がした。
主人の孫娘が、大福丸にとって守るべき娘のような存在が、目の前にいた。
彼女が望むのは穏やかな生活。
──必ず、守り通して見せよう。




