第九話 慈悲
止める方法を、澪は、探しはじめた。
けれど、探せば探すほど、壁ばかりが、見つかった。
「ないね」鶚は、あっさりと言った。澪がそれとなく、神降ろしの段取りを、聞いたときだ。「神降ろしは、何百年もこうやって続いてきた。神官が何十人と、いる。大織主が、いる。お前ひとりが、何をしたって、儀は止まらない。止めようとしたのが、ばれた時点で、お前はその場で、首を刎ねられる。雛とかいう妹も、もちろん、墨に落ちる」
「逃げるのは」
「依代を、連れてか?」鶚は、笑った。「無理だな。器は、宮の、いちばん奥に、いる。番が、何重にもつく。それに――逃げたところで、行く先が、ない。あれの顔は、国じゅうが、知ってる。水鏡に、毎日、映ってきたんだ。どこへ逃げても、穢れた皿を、隠す場所なんて、この国には、ない」
澪は、黙った。鶚の言うことは、ぜんぶ、正しかった。正しすぎて、息が詰まった。
それでも、澪は諦めなかった。諦め方を、澪は知らない。十六年、諦めずに、雛を守ってきた。穢野の底で、爛れない指で。
だから、今も探しつづけた。儀の、隙間を。鏡断ちのような、誰も見ていない、わずかな隙を。
けれど、隙は、どこにもなかった。儀の段取りは、何百年もかけて磨き上げられていた。ほつれ一つない布のようだった。澪が持っているのは、穢野で魚の通り道を読む目だけだった。
水の流れの、わずかな淀みを見つける目。けれど、この宮には淀みがなかった。あるのは鏡断ちだけ。それも、二人が逢うための隙であって、儀を止めるための隙ではなかった。
澪は初めて、自分の手が何にも届かないことを知った。穢野の底には、いつも何かしら、掴めるものがあった。ここには、掴むものすら、なかった。
斎との逢瀬は、危ういほど、近くなっていた。
逢魔が時のたびに、二人は会った。斎は相変わらず、来るな、と言った。けれど、その言い方が、変わっていた。
前は、突き放す声だった。今はすがるのを、こらえる声だった。生きたい、と思ってしまった少年は、突き放すのが、前より、ずっと下手になっていた。
「お前が、止めようとすればするほど」斎は、ある日、言った。「お前が、危なくなる。わかっているのか。俺は、もう、いい。十七年、待ったんだ。けど、お前は」
「あなたは、よくない」澪は、遮った。「もう、いい人間なんて、いません。生きたい、って思ってしまった人は、もういいなんて、言っちゃいけない」
斎は、黙った。図星を、突かれた顔で。澪に生きたい、を教えられた少年は、もうそれを、なかったことには、できなかった。
それが二人を、より深く、結びつけた。同時に、より、危うくした。
ある日、斎は、自分の手を、衣の内から少しだけ出した。三尺の向こうで。痩せた、白い、何も掴んだことのない手。
「これを」斎は言った。「お前は、撫でたいと思うか。雛にするように」
澪は、答えなかった。答えはわかっていた。けれど、口にすれば、二人とも終わる。
「思うなら、やめておけ」斎は、手を引っ込めた。「撫でれば、お前の指が灰になる。俺は、お前の灰になった指を見たくない。だから、こうしている。手を隠している。お前が、馬鹿なことをしないように」
それは、突き放しの言葉だった。けれど、その手は、引っ込める間際、ほんの少し、澪のほうへ伸びていた。本人も気づかぬほど、わずかに。
突き放したいのに、伸びてしまう手。澪の右手が、闇の中で勝手に動くのと、同じだった。二人とも、自分の手を、もう信じられなくなっていた。
呼び出しが、来たのはそんなときだった。
白い衣の者が、澪を迎えに来た。大織主がお呼びだ、と。坂人ひとりを、大織主が名指しで呼ぶ。あり得ないことだ、と鶚の顔が、こわばった。
気をつけろ、と、目で言った。何に、とは言わなかった。言えば、それも聞かれる気が、したのだろう。
通されたのは、宮の、いちばん奥の、白い間だった。
冬が、そこにいた。
大織主・冬。国の、いちばん上に立つ、神官。澪は水鏡で、遠くから、見たことしか、なかった。
近くで見る冬は、思ったより、ずっと穏やかな顔を、していた。緋の袍ではなく、白い、簡素な衣。手に一本の、笏。
年は、わからなかった。若くも、老いてもいない。時に忘れられた人のような、顔だった。
「掛けなさい」冬は、言った。声は、低く、柔らかかった。叱るための声では、なかった。「茶を、淹れさせよう。穢野の、水しか知らぬ娘には、珍しかろう」
澪は、座らなかった。座れば、何かを許してしまう気がした。
冬はそれを、咎めなかった。むしろ、面白がる目で、澪を、見た。
「お前が、来てから」冬は、笏で、自分の掌を、ゆっくりと、撫でながら、言った。「器の、様子が、おかしい」
澪の、息が止まった。
「長年、わしが見てきた器だ。人形のように、静かだった。何も望まず、何も恐れず。完璧な、皿だった。それが近ごろ、夜に寝つけぬらしい。物忌みの庭で、ひとり、空を見上げているそうだ。誰かを、待つように。……心当たりは、あるか」
「ありません」
「そうか」冬は、頷いた。信じた顔では、なかった。けれど、責めもしなかった。「不思議なものだな。喰われるために生まれた器が、儀の、間際になって、生きたがる。お前が、来てから。お前が何をしたかは、知らぬ。だが、ひとつ、確かなことが、ある。お前は、世の理を、乱しはじめている」
世の理。
「秩序の、ことだ」冬は、穏やかに言った。「お前は、たぶん、もう知ったのだろう。神降ろしが、何であるかを。器が、どうなるかを。そして、それをおぞましいと、思っている。顔に、書いてある」
澪は表情を、消そうとした。けれど、冬の目の前では、それがうまく、いかなかった。
「おぞましい、と思うのは、正しい」冬は、言った。「わしも、若いころは、そう思った」
澪は、顔を上げた。冬は、笑っていた。優しく。
「だが、娘よ。考えてみよ。なぜ、こんな、おぞましいことを、何百年も続けてきたか。物好きで続けてきたと、思うか。違う。続けねば、ならぬからだ。世界は、綻びている。少しずつ、ほつれている。境が、薄れ、季節が、狂い、黄泉が、滲み出てくる。それを繕うには、力が、要る。清い血の、力が。その力を保つために、贄が、要る。誰かの、死が」
「それは」澪は、言った。声が、掠れた。「あなたたちの、ための、嘘です」
「嘘だと、思うか」冬は、笏を置いた。「では、聞こう。お前の村に、流行り病は、なかったか。穢野が、年々、広がってはいなかったか。冬が、年々、長くはなかったか。あれが、綻びだ。わしらが繕いを、怠れば、いずれ、国じゅうが、穢野になる。お前の、妹の住む村も。万人が黄泉に、呑まれる。それを防ぐために、毎年、ひと握りの、贄が、要る。万人の命と、ひと握りの命。どちらを、選ぶ。お前なら」
澪は、答えられなかった。
答えがわからなかったのでは、ない。答えが冬の言うとおりに、聞こえてしまうのが、怖かった。万人と、ひと握り。秤にかければ、答えは明らかだった。
澪が十六年、雛ひとりを、守るために、ほかのすべてを、見ないふりをしてきたのと、それは、同じ、形をしていた。冬は国じゅうの雛を、守るために、ひと握りを、切り捨てている。澪と冬の違いは、守る数の、大きさだけだった。
けれど、と、澪は心の奥で抗った。だったら、なぜ。なぜ、清い血の連中だけが、長生きする。なぜ、贄になるのは、いつも、いちばん貧しい、いちばん下の者ばかりなのか。
万人のため、というなら、なぜ織部の娘ではなく、穢野の娘が喰われる。冬の論理は、途中までは正しかった。けれど、その正しさの果てで得をするのは、いつも、同じ顔ぶれだった。万人のため、と言いながら、肥えているのは、ひと握りのほうだ。
澪は、そのことを言いたかった。けれど、言葉にならなかった。冬の穏やかな目の前では、その抗いさえ、子どもの駄々のように思えてしまった。
「秩序とは、慈悲だ」冬は、言った。慈しむような、声で。「混沌に、万人を放り込むより、誰かを区分けして、犠牲にするほうが、苦しみの総量は、少ない。わしは、誰も憎んではおらぬ。器のことも、心から、慈しんでいる。だからこそ、いちばん清いまま、神に返してやりたいのだ。これは、罰ではない。慈悲だ」
澪は、震えていた。
怒りで震えているのか、恐怖で震えているのか、自分でもわからなかった。いちばん、怖かったのは――冬が、嘘をついていないことだった。この男は本気で、信じている。自分が世界を救う、慈悲深い者だと。
器を心から、慈しみながら、喰わせる準備を、している。そこに悪意は、なかった。悪意がないことが、いちばん、おぞましかった。
冬がふいに、笑みを深くした。
そして、澪を、見た。その目が、変わった。穏やかな、慈しみの眼差しのまま、瞳の動きだけが、止まった。
澪を人として、見ていない目だった。秤に載せた、ひと握りの重さを、量る目。あるいは――器に、注ぎ込む、もうひとつの魂の、目方を量る目。
「お前は、禊で、水を弾いたな」冬は、言った。
澪の、心臓が止まりかけた。
「神官が、見逃したと、思ったか。水鏡は、見逃さぬ。わしも、見ていた。穢れた血は、水を弾く。だがお前のは、違った。穢れより、もっと奥のものだ。黄泉に、近いものだ。……面白い。お前はいったい、何でできている」
「……わたしは、ただの」
「ただの、穢野の娘か?」冬は、笏を、また手に取った。「そう思っておこう。今は。だが、覚えておけ。器がお前を、視ている。生きたがるほど、強く。それは――惜しいことだ。実に、惜しい」
惜しい。
その言葉の意味が、澪にはわかった。冬はすでに、見抜いていた。澪と、斎の間にあるものを。そして、それを惜しいと言った。
引き裂くのが、惜しい、という意味では、ない。二つ、まとめて、器に、注ぎ込むのが――勝者の娘として、侍る役を、澪に与えるのが、いちばん、収まりがいい。そういう、惜しさだった。
冬は、もう用は済んだ、というふうに、笏を振った。
「下がってよい。茶は、また、いつか。……逃げようなどとは、思わぬことだ。お前の妹は、葦境にいる。器は、宮の奥にいる。どちらもわしの、手の届くところに、な」
冬は、それきり澪を見なかった。澪がそこにいることを、もう忘れたように。けれど、忘れていないことを、澪は知っていた。この男は、何ひとつ忘れない。
雛のことも、斎のことも、澪の腕が水を弾いたことも、ぜんぶ、あの穏やかな顔の奥の秤に、載せてある。いつでも量れるように。澪が少しでも儀を乱せば、その秤は、すぐに動く。雛を、墨に。
斎を、より早く器へ。そういう脅しだった。声を荒らげない、いちばん静かな脅し。
澪はその間を、出た。
廊下を歩きながら、足が震えていた。今度は恐怖を、後回しにできなかった。冬は、全部、知っていた。澪が、斎を救おうとしていることも。
澪が、何か、おかしな血を引いていることも。雛が、どこにいるかも。何ひとつ、隠せていなかった。澪が十六年かけて、磨いてきた、隠れる術が、この男の前では、ガラスのように、透けていた。
それでも、と、澪は思った。廊下の、いちばん暗いところで、足を止めて。
冬は、間違っている。
どこが、とは、まだ言えなかった。万人と、ひと握り。論理は冬のほうが、正しかった。それでも、澪は知っていた。
雛はひと握りの、ひとりでは、ない。雛は、雛だ。斎も皿では、ない。斎は、斎だ。
秤に載せた瞬間に、見えなくなるものが、ある。冬はそれを、見ないことに、した男だった。澪は――それを、見るために、穢野に潜ってきた女だった。
冬は、世界を上から見ている。塔のいちばん高いところから。そこからは、人は、数にしか見えない。万人。
ひと握り。けれど澪は、いつも底から見てきた。穢野の、水の底から。
そこから見える人は、数ではなかった。みんな、顔があった。引き取り手のない死人にも、誰かの子だった頃があった。
冬には、それが見えない。見ないと決めたから。高すぎる場所からは、ひと握りの命の、ひとつひとつの顔は、見えないのだ。
だから、と澪は思った。わたしは、底にいる。底にいる者にしか、できないことが、あるかもしれない。冬に見えないものが見える場所に、わたしは、いる。
論理では、勝てない。
それでも、澪は、まだ負けては、いなかった。




