第八話 神喰み
澪は、鶚を、捕まえた。
夜更けの、宮の裏手。坂人たちが寝静まったあと、鶚がひとりで酒を舐めている、その場所で。
「教えてください」澪は、言った。「神降ろしで、何が、起きるんですか」
鶚の手が、止まった。欠けた湯呑みの縁で。
「藪から棒だな」
「斎は」言いかけて、澪は、名を呑んだ。「依代は、言いました。儀の終わりに、神に捧げられて、器は空になる、と。中身は戻らない、と。直は依代に近づくな、と言いました。あなたも、近づいた坂人は保たない、と。みんな、同じことを、別の言い方で、言う。何かを、隠している」
「隠してるのは、お前のほうだろう」鶚は、湯呑みを置いた。「もう、近づいてるな。器に」
澪は、答えなかった。答えは沈黙の中に、あった。
鶚は長いあいだ、澪を、見た。今度は、横を向かなかった。
「……いいだろう」鶚は、低く、言った。「どうせ、お前は止まらない。なら、知って、止まらないほうが、まだましだ。聞け。これは、還り人しか、知らない話だ」
夜気が、重くなった。穢野の匂いに、似ていた。
「神降ろし、ってのは、聞こえはいい」鶚は、語りはじめた。「神を、地に降ろす。そのための、器が依代だ。みな、そう信じてる。比良坂の儀は、世界の綻びを、繕う、尊い神事だ、ってな。坂人は、その供物。死ねば、世界が、一年、保つ。誉れだ、ってな」
「違うんですか」
「降りてくるのは、神じゃない」
鶚の声が、掠れた。
「魂だ。御魂、っていう。儀のあいだに、死んだ坂人の。比良坂で坂人は、次々に、死ぬ。その、死んだ者の魂を、神官どもは、集める。一つ残らず。そして、神降ろしで、それをぜんぶ、依代の器に、注ぎ込む」
「……注ぎ込んで、どうするんです」
「喰うのさ」鶚は、言った。「上の連中が。日継だの、織部だの、大織主だのっていう、清い血の連中が。集めた魂を、依代を通して、喰う。それであいつらは、長生きする。力を、保つ。世界を、繕ってるんじゃない。世界から、死んだ者の魂を、毎年、毟り取って、自分らの腹を、肥やしてる。それだけだ」
澪は、息を止めていた。
「だから、依代は」鶚は、宙を見たまま言った。「魂を、注がれる、その器だ。何百もの、死んだ魂を、いっぺんに、流し込まれる。器はそれに、保たない。砕ける。中身は――もとの、その子の、心は押し流されて、消える。神に嫁いだ、と神官どもは言う。きれいな言い方だ。本当は、ただ喰われるための、皿だ。神に、喰われる。俺たちはそれを、神喰み、と呼ぶ。下々の、言葉でな」
神喰み。
澪の口の中で、その言葉は、鉄の味が、した。
頭の中で、いくつもの絵が、繋がっていく。穢野に流れ着く、引き取り手のない死人たち。村が墨に落ちると恐れる、穢れというもの。それを、いちばん溜め込んで肥えているのが、いちばん清いと言われる、上の連中だった。
澪が十六年、頭を低くして恐れてきた「清さ」の正体が、たった今、裏返った。清いから喰うのではない。喰うために、清いふりをしているのだ。慈悲だ、秩序だ、と、あの司は言った。
世界を繕う、と。違った。世界から、死んだ者を毟って、自分たちだけが長らえている。それだけの仕組みに、きれいな名を、被せていただけだった。
「あの子は」鶚の声が、また、掠れた。「生まれたときから、それを知って、育てられた。喰われるために。逃げないように、人らしいものを、ぜんぶ、削がれて。触れさせず、愛させず、ただ清いまま、肥えた皿に、なるように。……あれが、十七年、どんな気持ちで、生きてきたか。考えるだけで、俺は、酒が、要る」
澪はようやく、尋ねた。
「あなたは、なぜ、それを、知っているんですか」
「還ったからだ」鶚は、空の湯呑みを、見た。「俺は、比良坂から、生きて還った。数少ない一人だ。けど、ただでは還れない。還り人ってのは、見たんだ。神降ろしの、いちばん奥を。器が、砕けるところを。注ぎ込まれる、魂の中に――」
鶚はそこで、言葉を切った。長い、沈黙だった。
「俺の、連れがいた」鶚は、やがて、言った。横を、向いて。「同じ村から、選ばれた、娘だ。寵をいちばん、集めた。だから、神降ろしで、器に侍る、栄誉をもらった。最も清い坂人として。……侍る、ってのはな。器と一緒に、喰われるってことだ。勝者の、褒美がそれだ。俺はそれを、止められなかった。あの娘の魂も、あの器に注ぎ込まれた。俺はその隣で、生きて、還った」
鶚は、湯呑みに、また酒を注いだ。手が、わずかに震えていた。皮肉屋の、いつもの手ではなかった。
「あの娘はな、最後まで、笑ってた。器に侍れることを、誉れだと思ってた。喰われるとも知らずに、いちばん清い娘として選ばれたことを、喜んでた。俺は、知ってた。知ってて、言えなかった。言えば、あの娘の最後の誇りまで、奪う気がして。だから黙って、見送った。それが正しかったのか、今でも、わからん。だからお前には、言った。せめて、知って、選べ。笑って喰われるか、足掻くか。それくらいは、自分で決めろ」
澪は、わかった。鶚が、ずっと横を向いていた理由が。置いてきたものを、探す目の、理由が。
「お前は」鶚が、澪を、見た。今度は、まっすぐに。「今、寵を集めてる。判官贔屓で、いちばん上に、いきかけてる。このままだと、お前が、次の、侍る娘になる。器と一緒に、喰われる娘に。だから、言ったんだ。器に近づくな、と。寵を集めろ、と言ったのも、雛のためだ。けど、集めすぎるな。いちばんには、なるな。いちばんになった者から、喰われる」
寵を集めなければ、雛が墨に落ちる。
寵を集めすぎれば、自分が喰われる。
そして、その喰われる場所には――斎が、いる。
澪はその夜、鏡断ちへ、行った。
止めるべきだった。直が、見ている。見つかれば、死ぬ。けれど、もうそんなことは、どうでもよかった。
澪は確かめなければ、ならなかった。鶚の話が、本当かどうかを。あの少年の口から。
逢魔が時。千引岩の庭。斎は、いた。いつものように、暮れの空を、見上げて。
「本当ですか」澪は、前置きもなく、言った。「あなたは、神降ろしで、喰われる。何百もの、死んだ魂を、注ぎ込まれて。器が、砕けて。あなたの心は、消える。本当ですか」
斎は、振り返った。澪の顔を、見て、それから、静かに頷いた。
「知って、しまったのか」
「いつから、知っていたんですか」
「物心が、つく前から」斎の声は、平らだった。いつものように。自分の死を、明日の天気のように、語る声で。「俺は、そのために、生まれた。喰われるための、器として。だから、誰にも触れさせない。穢れた皿は、神が喰わない。俺はいちばん清いまま、その日を、待つ。それだけの、ために、生きてきた」
「それだけの、ために」
「だから、来るな、と言った」斎は、目を逸らした。足元へ。「お前が、俺に近づけば、寵が上がる。寵が上がれば、お前は侍る娘に、選ばれる。俺と一緒に、喰われる。お前を、巻き込みたくなかった。お前には、妹がいる。守るものが、ある。だから――俺のことは、忘れて、寵だけ、ほどほどに、保って、生きて、還れ」
放つ愛だった。
斎が、ずっと、澪を突き放してきた理由。来るな、と言いながら、次の鏡断ちを、教えてしまった、あの矛盾の、底にあったもの。この少年は、自分が喰われることより、澪が巻き込まれることのほうを、恐れていた。喰われる定めの少年が、喰われない方法を、澪にだけ、必死に教えようとしていた。
誰にも望まれずに育った少年が。望むことを禁じられて育った少年が。たった一つ望んだことが、それだった。
自分ではなく、澪が生きること。喰われる皿が最後に望んだのが、誰かを、喰わせないこと。
澪は、雛のことを思った。すぐ帰る、と嘘をついて、いちばん遠くへ行った、あの矛盾を。守るために、突き放す。手放せないのに、遠ざける。
斎のしていることは、澪が雛にしてきたことと、同じだった。だから澪には、わかってしまった。この少年が、どれだけ本気で、自分を諦めているかを。
澪の中で何かが、決まった。
それは迷いの、ない決まり方だった。代わり立ちを、志願したときと、同じだった。雛の咳が止むなら、自分の名がどこへ書かれてもいい、と思った、あのときと。
「いやです」と、澪は言った。
「……何」
「わたしは、忘れません。あなたのことも、この話も。寵をほどほどに保って、あなたを置いて、ひとりで還る。そんなこと、しません」
「澪」斎の声に、初めて、焦りのようなものが、混じった。「お前は、わかっていない。これは、神事だ。何百年も、続いてきた。大織主が、いる。神官が、いる。国じゅうが、見ている。止められるものでは」
「止めます」
澪は、言った。三尺の、向こうの、少年に。
「どうやってかは、まだ、わかりません。でも、止めます。あなたを、喰わせない。あなたの心を、あの器のまま、消させたりは、しません。わたしは穢野で、死人を見送ってきました。引き取り手のない、誰にも見送られない者を。でもあなたは、まだ死んでいない。まだ、ここに、いる。死んでいない者を、見送る気は、ありません」
風が、止まった。
斎は、澪を見ていた。何も映さないはずの、あの目で。けれど、もう何も映していない、わけではなかった。
その目の奥で、何かが崩れていく音がした。十七年、誰にも触れさせず、何も望まず、ただ清く、喰われるのを待ってきた、その器の、いちばん硬い殻が、ひびを入れていく音が。
斎の、肩が上下した。半呼吸では、なかった。今度は、整えられなかった。
乱れた呼吸が、そのまま、続いた。律儀な、あの少年が、初めて、自分の息を、整えるのを、忘れていた。
「……なぜ」斎の声が、震えた。生まれて初めて、震える、という声で。「なぜ、俺なんかの、ために。お前は、妹を守るために、来たんだろう。俺は、ただの、器だ。喰われるための、皿だ。お前が、命を賭けるような、ものじゃ」
「あなたは、皿じゃ、ありません」澪は、言った。「あなたは、斎です。空の色が毎日違うのを、最近知った、斎です。それをわたしは、知っています。皿は空の色を、覚えたり、しません」
斎の目から、何かがこぼれそうに、なった。
けれど、こぼれはしなかった。こぼし方を、知らないのだ。澪には、わかった。
泣き方を、教わらなかった少年。澪が笑い方を、忘れたように。斎は泣き方を、知らないまま、十七年、生きてきた。
その、こぼれかけて、行き場を失ったものを、澪は、ただ見ていた。三尺の、向こうで。触れることも、拭うことも、できないまま。
それでも、澪は、その場を動かなかった。逃げかけた者の、こぼれそうな何かを見届けるのが、せめてものつとめだと思った。穢野で、死人にしてきたように。
けれど斎は、死人ではなかった。生きていた。生きていて、初めて、生きたいと思いはじめていた。
何も映さなかった目が、今は必死に、いちばん人間らしいものを、こらえている。消えたくない、という願いを。十七年それを封じてきた殻が、澪のたった一言で、砕けかけていた。
皮肉な話だった。澪は、この少年を救うと言った。けれど救うと言ったことで、この少年に、初めて失う怖さを与えてしまった。
望まなければ、奪われても平気だった。望んでしまえば、奪われるのが怖くなる。澪は斎に、生きたい、という、いちばん残酷な望みを、与えてしまった。
逢魔が時が、終わる。水鏡の、濁りが晴れる。
「行きます」と、澪は言った。「でも、また来ます。今度は忘れるためじゃ、ありません」
斎は、何も言えなかった。震える息を、整えることも、できないまま。ただ、澪が去っていくのを、見ていた。
来るな、とは、もう言わなかった。言えなかった。
生まれて初めて、誰かに喰われたくない、と。生きていたい、と。そう思ってしまった顔を、澪に見られたくなかったから。
渡殿を戻りながら、澪は、自分が何を背負ったのかを数えた。雛を守る。それだけだったはずの命に、もう一つ、不可能なものが加わっていた。
神事を止める。神に喰われる少年を、喰わせない。大織主も、神官も、国じゅうの目も、敵に回して。
できるはずが、なかった。
それでも、澪は、もう引き返さないと決めていた。代わり立ちのときと、同じだった。守ると決めたものを、澪は一度も、手放したことがない。たとえ相手が、神でも。




