第七話 鴉
三日後の逢魔が時、澪は、千引岩の庭に、いた。
行かない、と決めていた。決めていたのに、足は、またあの渡殿の奥へ、向かっていた。雛のことを、考えなかったわけではない。
考えた。考えて、なお、行った。それが、澪をいちばん、怖がらせた。
斎は、来ていた。物忌みの装束で、暮れの空の下に。澪を見ると、何も言わずに、ほんの少し、横へずれた。隣を、空けるように。
三尺の、距離を保ったまま。澪はその空いた場所に、立った。触れない。並んで同じ空を、見た。
それだけで、その日は終わった。言葉はほとんど、なかった。けれど、何かが確かに、交わされていた。
それから、鏡断ちは、二人の、習いになった。
逢魔が時のたびに、澪は抜け出した。墨を一滴、落としたような、水鏡の濁りの、その隙間に。長くて、息を二十も数えるあいだ。短ければ、二つ。
それだけの時間に、二人は言葉を、交わした。澪は雛のことを、話した。咳のこと。米を半分こにすること。
斎は宮のことを、話した。生まれてから、一度も外へ出たことがないこと。空の色が、毎日、違うのを、最近、知ったこと。
互いの話は、どこも噛み合わなかった。穢野の娘と、神の器。生きてきた場所が、違いすぎた。
それなのに、話は尽きなかった。尽きないことが、不思議だった。
一度、斎が、澪に尋ねたことがある。穢野は怖くないのか、と。死人の流れ着く水に、毎朝、潜るのは。
澪は答えた。怖いのは水じゃない。水から上がって、また村の顔をして歩くことのほうだ、と。
斎はしばらく黙って、それから小さく言った。俺も、同じだ、と。御簾を上げられて、神の器の顔をするときが、いちばん息が苦しい、と。
そのとき澪は、初めて思った。この少年と自分は、住む世界は何もかも違うのに、いちばん深いところだけが、同じ形をしている。隠して生きる者の形だ。
見られながら、本当の自分を誰にも見せずにいる者の形。話が尽きないのは、そのせいだった。互いの隠しごとの重さだけは、同じだったから。
昼間は二人は、他人だった。
宮の廊下で、すれ違っても、澪は目を伏せた。斎は、御簾の奥で、何も映さない顔を、していた。水鏡が二人を、映していた。
国じゅうが、見ていた。だから、視線ひとつ、交わさなかった。交わせなかった。
ただ、一度だけ。坂人の点呼で、斎の前を通ったとき。澪が頭を下げて、上げる、その一瞬。斎の視線が、澪の上を流れた。
誰にもわからないほど、短く。澪も、応えなかった。応えれば、見つかる。
けれど、その一瞬の、視線の重さだけで、澪はわかった。今夜もあの庭で、と。言葉のない、約束だった。
見られないところで、繋がって。見られるところで、他人のふりをする。
その落差が、澪の中の、何かを、毎日、少しずつ、削っていった。削られた分だけ、斎のことが、近くなった。危ない、と頭の隅で、声がした。
鶚の声に、似ていた。見つかれば、死ぬ。雛が、墨に落ちる。
わかっている。わかっているのに、止められない。澪は初めて、自分で自分を、止められなくなっていた。
神楽の儀が、来たのはそんなときだった。
禊の次の、関だった。坂人がひとりずつ、舞を奉納する。清い心を、舞で示すのだという。庭に、篝火が焚かれ、神官が、笛を吹いた。
坂人たちは、白い衣でひとりずつ、舞った。織部の娘たちは、幼いころから、習っていたらしい。指の先まで、揃った、美しい舞だった。寵が、また、生まれていく音がした。
澪は、舞を知らなかった。葦境に舞など、なかった。あるのは穢野の、水の中の、動きだけだった。
だから、澪はそれを、舞った。水を掻く手。息を、止める間。
底から、浮かび上がる、その動き。それは舞には、見えなかったかもしれない。けれど、澪の体が覚えている、ただひとつの、動きだった。
笛の音は、澪の動きに合わなかった。澪の舞は、笛ではなかった。誰にも聞こえない、穢野の水の音で、舞っていた。織部の娘たちの揃った舞のあとでは、それは、ひどく不格好に見えたかもしれない。
けれど、庭がふいに、静かになった。笑っていた者も、黙った。澪の舞は、美しくはなかった。
ただ、嘘がなかった。清い心を示せと言われて、澪が示せたのは、清さではなかった。穢野の底で、それでも生きてきた、ただの本当の動きだった。
舞いながら、澪は気づいた。
民の目が、舞に集まっている。水鏡も舞う坂人を、映すのに忙しい。今が鏡断ちだ、と。誰もその隙に、誰が誰を見ているかなど、見ていない。
澪は、舞の、その一瞬。御簾の方へ、目を上げた。
斎が、見ていた。
ほかの坂人の舞は、見ていなかった。澪の、水を掻くような、その動きだけを。何も映さないはずの目が、その一瞬だけ、何かを宿していた。澪にはそれが、わかった。
きれいだ、とは、たぶん、思っていない。懐かしい、という顔だった。穢野を知らない少年が、なぜか、穢野の水の動きを、懐かしむ顔。会う前から、知っている、と言った、あの顔。
澪は、目を伏せた。一瞬で。けれど、その一瞬で、十分だった。
舞い終えて、澪が列に戻ったとき。
庭の、いちばん端に、見慣れた影が、立っていた。
新しく、宮へ来た坂人たちの中に、まじって。白い衣を、着せられて。けれど、その立ち方を、その、こちらを見る目を、澪は知っていた。十六年、知っていた。
直だった。
澪の足が、止まった。心臓が禊のとき以上に、跳ねた。なぜ。なぜ、ここに。
直は、選ばれなかった。大選りで呼ばれたのは、雛の名だけだった。それなのに。
直は、澪と目が合うと、笑った。穏やかに。困った人を見つけた、というふうに。
それから、ゆっくりと、人垣を縫って、近づいてきた。坂人の列の、澪の、すぐ後ろまで。
「やっと、追いついた」と、直は囁くより、低い声で言った。「探したぞ、澪」
「……なんで」
「お前が、行っちまったからだろう。俺に、相談もなしに。だから、追ってきた。それだけだ」
「坂人は、選ばれた者しか」
「金を、積んだ」直は、あっさりと言った。「北の、貧しい村の、戸の帳を、ひとつ、書き換えてもらった。死んだ若者の名を、俺のものに。簡単だったよ。神都ってのは、上のほうが、いちばん、汚れてる」
澪は言葉を、失った。直が、何をしたのか。死人の名を、買って、死地へ自分から、入ってきた。澪を、追うためだけに。
直が、何でできているのか。澪は今になって、思い知った。幼いころ、籠を蹴った子の筌が、一夜で切り裂かれた、あの朝。司を夜の道で消すつもりだった、と言った、あの声。
直の優しさは、いつも、その上に薄く張られた、氷のようなものだった。踏めば、いつ割れて、下の黒いものが覗くか、わからない。澪は、ずっとそれを、知らないふりをしてきた。幼馴染だから。
差し出される手だから。けれど、ここまで来て、もう知らないふりは、できなかった。死人の名を買ってまで追ってくる男を、ただの幼馴染とは、もう呼べなかった。
「お前のいるところに、俺がいる」直は、笑った。「ずっと、そう言ってきただろう。本気だって、わかったか」
「……帰れ。あんたがここにいる理由は、ない」
「あるさ」直の声は、やわらかかった。「お前が、いる。それが、理由だ」
直が、ふと視線を、動かした。
澪の、肩越し。庭の、奥のほう。御簾の、下りた、あの場所へ。さっき、澪が目を上げた、その方角へ。
直の、笑みは消えなかった。けれど、その目だけが、動かなくなった。瞬きが、止まった。穏やかに笑ったまま、瞳だけが御簾の奥の、白い影を見据えていた。
澪が舞の一瞬に、目を上げた、その先を。直は、見ていたのだ。澪が、誰を見たかを。
「……澪」直が、言った。声は変わらず、やわらかかった。「あれは、依代か」
「直」
「お前、さっき、あれを見たな。舞いながら」
「見てない」
「見たよ」直は、笑った。「俺は、お前のことなら、わかる。お前が、誰を見てるか。十六年、見てきたからな。お前があんな目で、何かを見たのは、初めてだ」
澪の、背を冷たいものが、伝った。直はゆっくりと、息を吸い込んだ。長く、深く。
澪の、舞ったあとの、火照りごと、吸い込むみたいに。それから、いつもの直に、戻った。眉が下がり、声が軽くなる。
「水無瀬で、餓鬼のころ、俺のことなんて呼んでたか、覚えてるか」
「……鴉」
「そうだ。鴉だ。黒くて、いつもお前を見てる、って。気味悪がられてたよな」直は、楽しそうに、言った。「でも、鴉ってのは、賢いんだぜ。光るものを、見つけたら、ずっと覚えてる。誰にも、渡さない。巣に隠して、守るんだ」
直は、澪の、耳元に口を寄せた。三尺など、関係なかった。直は、澪に触れることを、許された、ただひとりの男だった。穢れも、何も気にせずに。
「俺がいれば、お前も、雛も、守ってやれる」直の声は、ひどく優しかった。「雛は、まだ、葦境にいる。病の体で、ひとりで。心配だろう。大丈夫だ。俺の家の者に、見させてる。何かあれば、すぐ、わかる。だから、安心しろ」
澪の、息が止まった。
それは優しさの、形をしていた。けれど、その底に別のものが、沈んでいた。雛を、見させている。
何かあれば、わかる。それは――雛が、直の、手の内にある、ということだった。澪が言うことを聞かなければ、いつでも。
「だから」直は、続けた。同じ、優しい声で。「あの依代には、近づくな。澪。お前の、いちばん大事なものが、どこにあるか。忘れるな」
篝火が、爆ぜた。
直は、身を引いた。何ごともなかったように。穏やかな、幼馴染の顔で。坂人の列に、まじって。
澪は、動けなかった。御簾の奥の、斎の視線も。耳元に残る、直の声も。
どちらも、澪の、皮膚の上に、置かれたままだった。触れていいものと、触れてはいけないもの。けれど、澪をいちばん、震えさせたのは――触れていいはずの、直の声の、ほうだった。
その夜、水鏡はいつものように、宮を映していた。
昼の舞の評判は、もう国じゅうに広まっていた。穢野の娘の、不格好な、けれど目の離せない舞。供物が、これまででいちばん多く、澪のもとへ届いた。
寵が、上がった。雛を守る力が、また少し、増えた。喜ぶべきことのはずだった。
けれど澪は、反物の山を見られなかった。寵が上がるほど、水鏡の目は澪に集まる。嘘のない舞を見せた代わりに、澪はまた一歩、隠れられない場所へ出てしまった。本当のものを見せれば、人はもっと見たがる。
それが、この宮のいちばん厄介なところだった。そして今、その集まる目の中に、直の目が加わった。誰よりも近くから、誰よりも長く、澪を見る目が。
水鏡は、遠くから澪を見る。直は、すぐ隣から。斎は――見てはいけない場所から。
三つの視線に、澪は囲まれていた。逃げ場は、鏡断ちの、あのわずかな隙間にしかなかった。けれど、その隙間さえ、もう安全ではない。
直が、宮に入った。鴉は、夜目が利く。鏡断ちの闇も、いつか見つけるだろう。
澪は布団の中で、雛の顔を思い浮かべようとした。けれど、浮かんだのは、雛の、髪に結んだ、あの紐のことだった。澪が編んでやった、古い紐。あれが今、誰の手の届くところに、あるのか。
鴉は光るものを、巣に隠して、守る。誰にも、渡さない。
澪は初めて、雛を、葦境に残してきたことを――守るためにしたはずの、その選択を、悔いた。
雛を葦境に置いてくれば、安全だと思っていた。水鏡にも映らない、誰の目にも留まらない、貧しい村の隅に。けれど、いちばん近くに、いちばん危ういものが、いた。鴉が、ずっと、巣の場所を知っていた。
澪は、闇の中で、決めるべきことを、また数えなおした。寵を保つ。雛を守る。
無事に還る。誰にも心を許さない。
四つとも、もう揺らいでいた。斎のことで、ひとつ。直のことで、また、ひとつ。
澪が十六年かけて積み上げた、隠れて生きるための壁は、この宮に来て、たった半月で、二人の男に、別々の場所から崩されはじめていた。片方は、放つように。片方は、囲うように。
澪は、目を閉じた。眠りは、来なかった。穢野の底より、深いところへ、沈んでいくようだった。
沈みながら、澪は、次の逢魔が時のことを考えていた。行ってはいけない。直が見ている。
斎が危ない。雛が人質だ。理由なら、いくつでもあった。
それでも、行く、と。澪の体は、もう決めていた。頭より、先に。




