第六話 鏡断ち
「眠れなかった顔だな」
朝、鶚が、澪の顔を見て、そう言った。例によって、澪のほうは、まっすぐ見ずに。
「夜中に、誰か、来ただろう。お前の、戸の前まで」
澪の、息が止まった。鶚は、知っている。あの足音を。あの、白い気配を。
「……知りません」
「だろうな。俺も、何も見てない」鶚は、欠けた湯呑みに、白湯を注いだ。「けど、ひとつだけ、教えといてやる。世話役の、最後の親切だ。聞きたくなきゃ、聞くな」
澪は聞かない、とは言わなかった。
「水鏡は、万能じゃない」鶚は、白湯をひとくち、すすった。「神都の目は、この宮の、ぜんぶを四六時中、映してる。けど、映せない刻と、場所が、ある。古い言葉で、鏡断ち、っていう。鏡の、視が、断たれる隙間だ」
「隙間」
「逢魔が時。昼と夜の、境目だ。あのとき、水鏡はいっとき、濁る。墨を、一滴、落としたみたいにな。息を二つ数える、そのあいだだけ、誰にも見られずに、いられる。ほかにも、ある。禊みたいに、慎みで目を逸らす刻。器が、物忌みに籠る、奥の間。それから――千引岩の、奥宮。あそこは黄泉に、近すぎて、神都の目も、届かない」
鶚はそこで、言葉を切った。澪を、見た。今度は、まっすぐに。珍しいことだった。
「なんで、こんなことを、お前に話すか。わかるか」
「……わかりません」
「お前が、馬鹿なことを、しそうだからだ」鶚は、湯呑みを置いた。「するな、とは言わない。言っても無駄なのは、こういう目を、俺は何度も、見てきたからな。だから、せめて、見つかるな。見つかれば、お前も相手も、死ぬ。お前の妹も、墨に落ちる。それだけは、覚えとけ」
鶚の声に、いつもの皮肉がなかった。澪は、ふと思った。この男も昔、こういう目をしていたのだろうか。還り人。
比良坂からひとりだけ生きて還った男。還ってきたのに、その目はどこか、置いてきたものを探しているようだった。誰を置いてきたのか、とは聞かなかった。
聞けば、たぶん鶚は、また横を向く。澪は、その横顔を、覚えのある顔だと思った。母の背中に、少し似ていた。
それだけ言って、鶚は立ち上がった。出ていく間際、背中で言った。
「逢魔が時は、もうすぐだ」
その日の夕方、空が藍に傾きはじめたころ。
澪は、宮を抜け出していた。
行かない、と決めていた。誰にも、心を許さない。器にだけは、近づかない。鶚も、そう言った。
雛が、墨に落ちる。それは、わかっていた。わかっていて、澪の足は、奥の渡殿のほうへ、向いていた。
理由なら、あった。澪は、知りたかった。あの少年が、なぜ、夜中に戸の前まで来たのか。なぜ、自分を知っている者のように、見るのか。
そして――禊で、水を弾いた、自分の腕のことを。あの少年は、見ていた。たぶん、答えを持っている。澪の、与り知らぬ、自分の答えを。
知りたい、という気持ちは、澪にとって、珍しいものだった。十六年、澪は知らないほうが、いいことばかりを、抱えて生きてきた。知れば、隠さなければならない。隠すのは、疲れる。
だから、知ろうとしなかった。それなのに、今は知りたかった。それが、もういつもの澪では、なかった。
渡殿の、いちばん奥。簀子の途切れた先に、小さな庭があった。
千引岩の、近くだった。空気がひやりと、重い。穢野の匂いに、少し、似ていた。
神都の目も、届かない場所。そして、その庭の、隅に。
白い影が、ひとつ、立っていた。
斎だった。
物忌みの装束のまま、ひとりで暮れていく空を、見上げていた。御簾も、神官も白い衣の者も、いなかった。誰も、見ていなかった。崇める者も、傅く者もいない。
ただひとりの少年が、藍の空の下に、立っていた。神の器ではなく。誰の器でも、なく。
斎が、振り返った。
澪を見ても、驚かなかった。来ると、知っていたみたいに。あるいは誰が来ても、同じ顔をするのか。
整いすぎた顔は、相変わらず、何も映していなかった。けれど、その手が――衣の内の、両の手がわずかに、開いて、また握り込まれた。触れてはいけないものを、自分で押し止めるように。
「来るな、と」斎が、言った。声は、静かだった。「言ったはずだ。戸の前で」
「声は、聞こえませんでした」
「……」
「でも、来たことは、わかりました。だから、返しに来ました」
「返す」
「あなたが、わたしの前に、来た。だから、わたしもあなたの前に、来た。それだけです」
斎はしばらく、黙っていた。それから、わずかに、目を細めた。笑った、のかもしれない。
澪には、わからなかった。この少年も、笑い方を、忘れているのかもしれなかった。澪と、同じように。
「なぜ、俺を、視る」斎が、言った。「みな、俺を崇める。傅く。けれど、視はしない。器を視る者は、いない。お前は、なぜ」
「……あなたが」
言いかけて、澪は、口をつぐんだ。言わなくていいことだ。けれど、この少年の、何も映さない目を見ていると、嘘が置きにくかった。穢野の、死人の前で、嘘をつかないのと、同じだった。
「あなたが、ひとりに、見えたから」
風が、止まった。
斎の、肩が半呼吸だけ、上下した。整った呼吸が、一度、乱れて――そして、すぐに整えられた。律儀なほど、すぐに。まるで乱れたことを、誰かに咎められる前に。
それから、斎は、目を逸らした。澪から、足元の、白い砂利へ。
「来るな」斎は、もう一度、言った。「お前まで、喰われる」
「喰われる」
「俺は、依代だ。儀の、終わりに、神に捧げられる。器は、空になる。中身は――もう、ここには戻らない。生まれたときから、その日が決まっている。俺はそれを、知って、育った」
斎の声は、平らだった。自分の死を、語っているのに。明日の天気でも、告げるように。
「近づいた坂人は、長く保たない、と。世話役に、聞いただろう。本当だ。俺に関わった者は、巻き込まれる。喰われる側に。だから、来るな。お前は妹のために、来たのだろう。なら、なおさら」
澪は、答えなかった。代わりに、一歩、踏み出した。
三尺。触れれば、死ぬ距離。澪はその境を、知っていた。
だから、その手前で、止まった。けれど、止まる前より、ずっと、近く。指一本分だけ、近く。
触れない。触れないまま、澪は、斎と同じ夜気を、吸った。藍の、冷たい、千引岩の夜気を。斎がわずかに、身を引いた。
けれど、逃げはしなかった。逃げられない、というふうに。誰かがこんなに近くに来たのが、生まれて初めて、というふうに。
近くで見る斎は、思ったよりずっと痩せていた。白い衣の内で、骨ばった肩がわずかに引かれている。誰の手も届かぬよう、自分の輪郭を薄く保とうとする者の肩だった。その肩に、もし手を置いたら。
澪は、ふと思った。きっとこの少年は、どうしていいかわからない。撫でられたことも、抱きしめられたこともない肩だ。澪が雛にするように、その背をゆっくり叩いてやることも、できない。
三尺。その距離が、こんなに遠いと、澪は初めて思った。穢野のどんな深みより、遠かった。
「あなたは」澪は、言った。「触れられたことが、ないんですね」
斎の目がはじめて、揺れた。
「一度も。崇められて、傅かれて、それなのに、誰もあなたに、触れない。触れたら、死ぬから。あなたは、ずっとひとりだった。神に、捧げられる日まで」
「……お前は」斎の声が、わずかに掠れた。「俺を、憐れんでいるのか」
「いいえ」
澪は、首を振った。
「わたしは、穢野で引き取り手のない死人に、手を合わせます。憐れんでいるんじゃ、ありません。ただ誰にも、見送られない者を、せめて、自分だけは、見ておく。それだけです。あなたを見ているのも、同じです。憐れんではいません。ただ、見ています。あなたがちゃんと、ここに、いることを」
斎の喉が、一度、上下した。何かを飲み込むように。あるいは、こらえるように。澪の言葉は、たぶん、この少年が生まれてから一度も、言われたことのない種類のものだった。
崇める。傅く。けれど、ここに、いる、と。お前はちゃんと、いる、と。
誰も言わなかった言葉だ。器に中身があることを、認める言葉だから。斎の白い指が、衣の内で、また、ひらいた。今度は、すぐには握り込まれなかった。
ひらいたまま、行き場をなくして、震えていた。澪は、その指を見ないようにした。見れば、自分の手も、また伸びてしまう。
斎は長いあいだ、何も言わなかった。
藍が、濃くなっていく。逢魔が時が、終わりかけていた。水鏡の濁りが、晴れる刻が、近い。
澪には、わかった。もう、行かなければ。見つかれば、二人とも、死ぬ。
雛が、墨に落ちる。けれど、足が動かなかった。この少年を、ひとりにして、立ち去ることが、できなかった。
「お前の腕」斎が、ふいに言った。「禊で、水を、弾いた」
「……はい」
「あれが、何か、俺にもわからない。けれど、知っている。あの感じを。千引岩の、向こうの、匂いに似ている。黄泉の、匂いに。お前は――何かに、近い。生きている者より、もっと、向こうの何かに」
「それは」澪は、尋ねた。「悪いもの、ですか」
「わからない」斎は、また、目を逸らした。「ただ、俺と同じだ。お前もどこかへ、属している。自分の、知らないところで。だから、たぶん、俺はお前を、知っている気がする。会う前から」
その言葉を、澪は信じなかった。信じたくなかった。会う前から知っている、なんて、運命みたいな言い方は、澪のいちばん嫌いなものだった。神も運命も、澪を一度も救わなかった。
けれど、斎の目は嘘をついていなかった。何も映さないあの目が、ただまっすぐ、澪を見ていた。ずっと待っていた者を、見るように。澪の腕の、水を弾いた跡が、その目の下で、かすかに疼いた。
会う前から。
澪の胸の奥で、何かが灯った。穢野の底でも、消えなかった、小さな火のような、何かが。
水鏡の、濁りが晴れる。澪はそれを、肌で感じた。
「行きます」と、澪は言った。
「ああ」
「もう、来ません」と、澪は言った。斎がそう言わせたかったはずの、言葉を、先に。
「……ああ」斎は、頷いた。それで、いい、というふうに。
澪が、踵を返したときだった。
「三日後」
背中に斎の声が、落ちた。
澪は、足を止めた。
「三日後の、逢魔が時。俺は、またここで、物忌みに、籠る。誰も、来ない。水鏡も、濁る」
澪は、振り返らなかった。振り返れば、たぶん、この少年の、顔を見てしまう。今、どんな顔で、それを言ったのかを。来るな、と言った口で、次に会える刻を、教えてしまう顔を。
「もう、来ないと、言いました」
「ああ。聞いた」斎の声は、静かだった。「ただ、言っただけだ。三日後だと。来るかどうかは、お前が、決めればいい」
来るな、と彼は言う。けれど、来る道を開けておく。守りたいのに、手放せない。突き放したいのに、引き止める。
澪はその矛盾を、知っていた。ずっと自分が、雛にしてきたことだったから。すぐ帰る、と嘘をつきながら、いちばん遠くへ、行ってしまう、あの矛盾と、同じだった。
澪は、何も言わずに、渡殿を戻った。
宮へ着くころには、空は、もう夜だった。水鏡は晴れて、また宮じゅうを、映していた。澪は何食わぬ顔で、坂人たちの間に、戻った。
誰も、気づかなかった。澪が、どこへ行っていたかを。澪の胸の奥で、小さな火が、まだ灯っていることを。
布団に入って、澪は決めるべきことを、もう一度、数えた。
寵を、保つ。雛を、守る。無事に、還る。誰にも、心を許さない。
四つ目だけが、もう数のなかに、うまく、収まらなかった。
誰にも、心を許さない。十六年、澪がいちばん得意だったことだ。穢野の底で息を止めるように、心も止めて生きてきた。それなのに、たった一度、ひとりの少年に「ひとりに見えた」と言っただけで。
澪の中の、止めていたはずの何かが、動きだしていた。止め方を忘れていく音が、した。怖かった。けれど、その怖さは、禊の水を弾いたときの怖さとは、どこか違っていた。
三日後。
澪はその言葉を、いちばん深いところに、沈めようとした。穢野の底へ、雛を沈めたときのように。
けれど、それは沈まなかった。
水を弾く、あの腕みたいに。何度沈めても、ぷかりと浮かんできた。
澪は、目を閉じた。三日後の逢魔が時。行くつもりは、ない。行ってはいけない。
雛のために。けれど、闇のなかで、澪の指は、いつのまにか、その三日を数えはじめていた。穢野で、息を数えるときのように。
ひとつ。ふたつ。眠りに落ちる、その間際まで。




