第五話 禊
禊の朝、鶚は、いつもより早く宮へ来た。
「今日が、最初の関だ」坂人たちを、ぐるりと見回して、鶚は言った。声に、昨夜までの皮肉がない。それが、かえって澪の背を固くした。「禊ってのは、清めの水を浴びて、生まれに穢れがないことを、国の前で示す儀だ。お前らの体が、水鏡に映る。国じゅうが、見る」
「見て、どうするんですか」北の家の娘が尋ねた。
「品定めするのさ。誰が清いか。誰が好きか。気に入った坂人には、供物が届く。届いた数が、寵になる。今日で、だいたいの序列が決まる」
寵が高い者は、儀のあいだ守られる。低い者は祓い落とされて、家ごと穢人に落ちる。鶚は、もう一度、それを念押しした。澪はその言葉を、腹の底に、錘のように沈めた。
雛のことだ。今日、自分がどう映るかで、葦境に残した妹の行く末が、決まる。米を研ぐ手も、薬を煎じる火加減も、何もかもが、この清めの水ひとつに、かかっている。
「ひとつだけ、言っとく」鶚の目が、坂人をひとりずつ撫でた。最後に、澪のところで止まりかけて、やはり横へ逸れた。「水の前では、何も考えるな。脛に傷がある奴ほど、考える。考えると、顔に出る。顔に出たら、終わりだ。隠し事のある奴は、今日は、それをいちばん深いところに、沈めとけ」
澪は、袂の内で、親指の爪を、人差し指の腹に立てた。
鶚は、自分を見ていない。けれど、今の言葉は、澪に向けられている気がした。代わり立ちの娘。父の死を隠した家。
還り人の目は、節穴ではない。たぶん、この男は何かを勘づいている。澪は何も言わず、頷きもせず、ただ水の支度のされる方を見た。
着替えの間に、織部の娘のひとりが、すれ違いざま、声をひそめた。
「楽しみねえ。あなたの腕、どう映るのかしら。穢野の泥、ちゃんと、落ちるといいけど」
澪は、答えなかった。答えれば、覚えられる。覚えられれば、的になる。
ただその娘の声が、妙に弾んでいたことだけ、頭の隅に留めた。あの娘は、澪がしくじるのを、待っている。
禊の庭は、白い砂が敷き詰められていた。
中央に清水を湛えた、大きな水盤。その縁に、緋の衣の神官たちが並んでいた。そして、庭のいちばん奥、一段高くなった場所に、御簾が下りていた。その奥に、白い影。
依代だ。禊を見届ける役なのだという。神の器の前で、坂人は生まれの清さを証す。
澪は、その御簾を見ないようにした。見れば、昨夜の、自分の右手のことを思い出す。畳をすべった、あの手のことを。
坂人がひとりずつ、水盤の前へ呼ばれた。
神官が、柄杓で清水を掬い、坂人の剝き出しの腕にかける。水は肌を伝って、砂に落ちる。それだけのことだった。けれど、その水の流れ方を、神官はじっと見ていた。
穢れた血は、清めの水を弾く。古くから、そう言われている。清い者の腕では、水はすんなりと肌に馴染んで、流れる。
最初の坂人は、痩せた、どこかの村の少年だった。水が骨ばった腕を伝うと、少年はほっとした顔をした。馴染んだのだ。
神官が、短く「常」と言った。それだけのことで、少年の村は、墨を免れた。少年が泣きそうな顔で、退がっていく。
澪にはその気持ちが、わかった。清いと言われることが、嬉しいのではない。穢れと言われなかったことに、ただ、安堵しているのだ。
三人目は、東の村の若い娘だった。神官が水をかけると、その腕の上で、水がわずかに玉になった。ほんの少しだった。けれど神官は見逃さなかった。
「穢」
娘が悲鳴をあげた。違う、母は病で死んだだけだと。けれど白い衣の者が娘の腕を取り、墨の衣のほうへ引いていった。水鏡が、その姿を国じゅうへ映す。
生まれの汚れた娘として。娘の家は、これで墨に落ちる。一家まとめて。
澪は、それを見ていた。あの、わずかに玉になった水を。背を、冷たいものが伝った。あれは次の、自分かもしれない。
いや、かもしれない、ではない。澪の番は、すぐそこだった。あの娘の水は、ほんの少し弾いただけで、穢れと言われた。では、ぜんぶ弾いたら、どうなる。
織部の娘たちの番が来た。
水は白い腕を、なめらかに伝った。当然、という顔で、娘たちは腕を差し出した。水鏡の面が、その姿を国じゅうへ映していく。
きれいだ、という、声にならぬ声が、庭に満ちた。寵が生まれる音だった。澪には、それがわかった。
さっき澪に囁いた娘も、得意げに腕を晒していた。彼女の腕には、傷ひとつ、なかった。守るもののために、汚れたことのない腕だった。
「真葦の、澪」
名を、呼ばれた。
澪は、立ち上がった。砂を踏んで、水盤の前へ進む。腕をまくる。十六年、穢野に潜ってきた腕だ。
あかぎれと、古い傷の目立つ腕。織部の娘たちの白い腕とは、何もかもが違った。庭の隅で、くすくすと笑う声がした。
澪は、聞かなかった。今は、水のことだけを考える。いや、考えるな、と鶚は言った。
澪は、息をふたつ数えた。
そして、何も考えないことにした。穢野の底で、水に潜るときのように。心を、空にする。
父の死も雛の咳も、昨夜の右手も、ぜんぶ、底へ沈める。残ったのは、ただ差し出された、一本の腕だけだった。
神官が、柄杓を傾けた。
清水が、澪の腕に落ちた。
冷たかった。穢野の水より、ずっと澄んでいた。澪はその冷たさを、ただ感じた。それだけの、はずだった。
水が、肌を弾いた。
馴染まなかった。澪の腕の上で、水は玉になった。蓮の葉の上の露のように。
ころころと、肌の上を転がって、ひとつも染み込まずに、砂へ落ちた。まるで澪の肌が、水を拒んでいるみたいに。あるいは水のほうが、澪に触れたがらないみたいに。
澪の心臓が、一度だけ、跳ねた。
知らなかった。自分の腕が、こんなことをするなんて。穢野で爛れないのと、同じことなのか。考えるな。
考えれば、顔に出る。顔に出たら、終わりだ。雛が、墨に落ちる。澪は、息を止めた。
そして、まだ玉のまま、肌の上に残った水を、もう片方の手で、ぐい、と拭った。汚れを拭うように。あたりまえの、しぐさで。
「指の傷に、水が染みました」と、澪は言った。声は震えなかった。「拭かないと、しみるので」
神官が、澪の腕を見た。一拍。長い、一拍だった。
澪はその目を、まっすぐには受けなかった。神官の、緋の衿の結び目あたりに、目を置いた。穢野で死人を見るときの、目の置き方で。
心臓は、まだ跳ねている。けれど、顔は水盤の面のように、静かに保った。揺らせば、そこに何かが映ってしまう。
「……次」
神官が、言った。
澪は頭を下げ、退がった。
通り抜けた。
退がりながら、澪は御簾の方を、一度も見なかった。見る余裕がなかった。だから、気づかなかった。
御簾の奥の、白い影がいつのまにか、わずかに前へ傾いでいたことに。坂人たちの中で、ただ一人、澪の腕の上で水が玉になった、その一瞬を、見ていた者がいたことに。
宮へ戻ってから、澪は、しばらく手の震えが止まらなかった。禊の庭では、止まっていた。誰かに見られているあいだは、震えない。それは、穢野で覚えた。
怖いのは、いつも、終わったあとだ。痛みを後回しにするように、澪は、恐怖も後回しにする。誰もいない宮の隅で、ようやく、その順番が回ってきた。澪は、震える手を膝の下に挟んで、それが止むまで、ただ、待った。
その日の夕方、宮に最初の供物が届いた。
絹の反物だった。北の家の娘に、ひとつ。織部の娘たちに、いくつか。そして、澪に、ひとつ。
「なんで、お前に」と、織部の娘のひとりが言った。笑いごとではない、という顔で。さっき澪に囁いた、あの娘だった。「穢野の娘に、供物だなんて。何かの、間違いよ」
澪にも、わからなかった。届けに来た者が、短く言った。代わり立ちの娘の話が、水鏡を通して、国じゅうに広まっているのだ、と。病の妹の代わりに、自ら贄になった、貧しい娘。
あかぎれの腕で、神の前に立った娘。その姿に、心を動かされた者がいる。誉れの家の清い娘より、穢野帰りの、傷だらけの娘に。
「判官贔屓、というやつさ」と、鶚が後ろで言った。
「人ってのは、上から落ちる者より、下から這い上がる者を見たがる。お前は、いちばん下から来た。だから、いちばん目立つ。よかったな」
鶚の声は、皮肉だった。けれど、その目は笑っていない。澪のほうを、見てもいなかった。
「よく、ないだろう」澪は、反物を見ながら言った。
「ああ。よくない」鶚は、あっさり認めた。「目立つってことは、見られるってことだ。寵が集まれば、妹は守れる。けど、その分、お前の一挙手一投足が、水鏡に映る。隠し事のある奴には、いちばん向かない場所に、お前は、自分から立っちまった」
その夜、織部の娘たちの間で、ひそひそと、何かが話されていた。
澪には、聞こえないふりをするのが、上手かった。けれど、切れ切れに、言葉が届いた。穢野帰り。父親が病で死んだというが、本当か。
あの家は、昔、何か、あったらしい。調べてみれば。あの娘の、化けの皮を、剝いでやれば、寵なんて、すぐに。
工作が、始まっていた。澪を穢れの淵へ、突き落とすための。澪が浮かべば浮かぶほど、その手は執拗になる。
鶚の言ったとおりだった。この宮は、弱みを的にする場所だ。
澪は、届いた絹の反物を、隅へ押しやった。雛に送れるものなら、送りたかった。あれ一反で、薬が何月分も買える。けれど、ここから何も送れない。
送れば、雛のことがばれる。澪が何のために必死かが、ばれる。誉れの絹は、ただ隅で埃をかぶるしかなかった。守りたいものに届かない誉れなど、何の意味もない。
「禊の水、弾いてたな」
鶚が、声を低くした。ふいに。
澪の息が、止まった。鶚は、見ていた。あの一瞬を。
「見間違いです」と、澪は言った。
「だろうな」鶚は、肩をすくめた。「俺は、何も見てない。これからも、見ない。けど、覚えとけ。お前が隠してるものが、何であれ、これから先、それをいちばん見たがる目が、この宮には、ふたつある」
「ふたつ」
「ひとつは、水鏡の向こうの、いちばん上の御方。もうひとつは」
鶚は庭の奥のほうを、顎でしゃくった。御簾の下りた、あの場所を。
「器だ。あれにだけは、見られるな。あれはお前が、何でできてるかを、見抜く目を持ってる。たぶん、お前自身より、先にな」
その夜、澪は、また眠れなかった。
腕を見た。今は何の変哲もない、傷だらけの腕だった。さっき、井戸で水をかけてみた。今度は、ふつうに染み込んだ。
なぜ、禊のときだけ弾いたのか。わからなかった。わからないことが、また、ひとつ増えた。穢野で爛れないこと。
死人を恐れないこと。水底で、見られている気がすること。そして、清めの水を弾くこと。
澪の体は澪の知らないところで、何かを知っているらしかった。澪の、与り知らぬ、何かを。
廊下に、足音がした。
澪は、息を殺した。こんな刻に、誰が。足音は、宮の戸の前で止まった。けれど、戸は開かなかった。
ただ、誰かがそこに立っていた。気配だけが、薄い板戸越しに伝わってきた。澪は、その気配を知っていた。
白い。何もかもが白い。触れられたことのない者の、気配。
声は、なかった。
ただ戸の向こうの誰かが、ひとつ、息を吸って、半呼吸だけ、それが乱れた。
そして、すぐに整えられた。律儀なほど、すぐに。
足音は来たときと同じに、静かに遠ざかっていった。澪は、戸を開けなかった。開ければ、死ぬ。
三尺より近づけば、死ぬ。けれど、戸が閉まったままなのに、澪の胸の奥は、さっき、御簾の前で水を弾いたときと、同じくらい、騒いでいた。
澪は、布団の中で、右手を握りしめた。開けてはいけない。あの戸を開ければ、二人とも死ぬ。それは、わかっていた。
わかっているのに、指が、板戸の冷たさを恋しがった。あの白い気配の、すぐそこにある熱を。十六年、誰にも触れられずに生きてきた手が、今になって、いちばん触れてはいけないものを求めている。澪は、その手を、もう片方の手で強く押さえた。
戸の向こうに、たぶん、ひとつの問いが置かれていた。声にならなかった問いが。
――お前、何者だ。
澪にもその答えは、わからなかった。
わからないまま、澪は夜が明けるまで、板戸の木目を、見ていた。さっきまで、その向こうに、誰がいたかを、思い出さないようにしながら。思い出せば、また右手が、勝手に、伸びていきそうだったから。




