第四話 依代
天津宮が見えたのは、村を出て、五日目の夕暮れだった。
それまで、澪は、自分の足だけを見て歩いてきた。顔を上げれば、後ろに置いてきたものが、見える気がしたからだ。けれど、坂人たちの足が、いっせいに止まったので、澪も顔を上げた。
山の上に、白い都があった。
幾重もの屋根が、夕日を弾いて、緋に燃えていた。葦境の家が、ぜんぶ入っても、まだ余るほどの、大きな門。その向こうに、塔。回廊。
水を引いた、いくつもの池。貧しい村しか知らない目には、それは都というより、別の世の景色だった。坂人の何人かが、息を呑んだ。きれい、と北の家の娘が、小さく言った。
澪はきれいだとは、思わなかった。
風向きが変わると、その白い都から、匂いが流れてきた。香だ。重い、甘い、花の香。けれど、その香の底に、別の匂いが、混じっていた。
澪は、それを知っている。穢野の匂いだ。死者と、泥と腐れの匂い。
どれだけ香を焚いても、消えない匂い。この都はそれを、隠している。隠すために、香を焚いている。
きれいなものほど、深く隠す。澪は、そう思った。自分が、雛を隠したように。
門をくぐると、澪たちは別の建物へ、分けられた。
神迎えの宮、と白い衣の者が言った。坂人が儀のあいだ、籠る場所だ。檜の柱は、磨かれて、澪の顔が映るほどだった。
床は足が沈むほど、厚い畳。膳には見たこともない、白い米と、魚と汁が並んだ。葦境では祭りの日でも、出ないものばかりだった。
坂人たちは、戸惑いながら、それを食べた。誉れのはずだった。誰も、笑わなかった。
澪は白い米を、一口だけ食べて、箸を置いた。腹が、受けつけなかった。この米がどこから来たか、考えてしまったからだ。たぶん、穢野のような土地の、痩せた田から。
墨の衣を着せられた者たちが、爛れた指で、植えた稲から。澪はその米を、雛に食べさせたかった。けれど、ここには、雛がいない。
それがいちばん、応えた。
夜、坂人たちが眠ったあと、ひとりの男が、宮へ入ってきた。
「揃ってるか。逃げたやつは、いないな」
くたびれた声だった。白い衣ではなく、色の褪せた、麻の衣。年は、四十ほどか。けれど、目だけがやけに、若かった。
あるいは、年を測らせない目だった。男は坂人たちを、一人ずつ、眺めていった。品定めするように。古道具屋が、台に並んだ皿を、ひとつずつ、裏返すように。
「俺は、鶚。お前らの、世話役だ」
「世話役……」北の家の娘が、おずおずと、尋ねた。「あの、わたしたちは、これから」
「死ぬ」
男があっさりと、言った。
宮の空気が、凍った。鶚はそれを、面白そうに、眺めた。
「ほとんどは、な。比良坂から、生きて還った者を、還り人という。俺は、その、数少ない一人だ。だから、世話役をやってる。生き残りのコツを、お前らに、教えてやるためにな」
「コツ……?」
「ああ。いちばん大事なやつを、ひとつだけ、教えてやる」
鶚は膝を折って、坂人たちと、目の高さを合わせた。皮肉に歪んだ口元の、奥のほうだけが、笑っていなかった。
「寵を、集めろ」
「ちょう」
「この宮のことは、ぜんぶ、水鏡に映る。国じゅうが、お前らを見ている。見届け、というやつだ。で国じゅうが、気に入った坂人には、供物を送る。絹だの、加護だの。その、人気のことを、寵という。寵位が、高い者ほど、儀のあいだ、守られる。低い者は」鶚は、指をすっと、横に引いた。「祓い落としだ。儀の前に宮から、追い出される」
「追い出される……だけ、なら」
「追い出された坂人の家は、穢人に落ちる。一家、まとめてな。穢れた贄を出した家、ってことで」
澪は、顔を上げた。
それまで聞いていないふりを、していた。けれど、その言葉だけは、聞き逃せなかった。家が、穢人に落ちる。澪がいちばん、恐れていたことが、いちばん、避けたかった結末が、ここにもあった。
場所を、変えて。葦境でも天津宮でも、澪を縛るものは、同じだった。雛を、墨に落とさないこと。
つまり、こういうことだ。澪が寵を集められなければ、雛が穢人になる。澪が目立てば、雛を守れる。澪が隠れれば、雛が落ちる。
十六年、いちばん遠ざけてきた「目立つこと」を、これから、しなければ、雛を守れない。
鶚の目が、澪を捉えた。
「お前」と、鶚は言った。「代わり立ちの、娘だな」
「……はい」
「馬鹿だな」
鶚は、笑った。けれど、その目は横を向いていた。澪の、顔をまっすぐには、見なかった。
「妹のために、来たのか。それとも、ほかの誰かのために」
「妹のためです」
「……そうか」鶚は、立ち上がった。「なら、覚えとけ。ここで、お前がいちばん隠さなきゃならないのは、その『妹のため』だ。お前が何のために必死か、ばれた瞬間、それがお前の弱みになる。この宮は弱みを、的にする場所だ」
それから、鶚は、ふと、声を低くした。
「もうひとつ。器には、近づくな」
「器」
「依代だ。お前らがこれから、侍る相手。神の、器。……あれにだけは、関わるな。近づいた坂人は、たいてい、長く、保たない」
言うだけ言って、鶚は宮を出ていった。なぜ、と聞く間も、なかった。
澪の隣で、織部の坂人たちが、くすくすと、笑っていた。
緋に近い、上等な衣を着た娘たちだ。血の濃い、清い家の生まれ。澪のような、穢野帰りとは、座る場所からして、違っていた。
「妹のため、ですって」一人が、わざと聞こえるように、言った。「健気ねえ。穢野の娘って、そういう話、好きよね。どうせ、寵なんて、集まらないのに」
澪は、何も言わなかった。言い返す言葉を、持っていなかったし、持つ気もなかった。言い返せば、覚えられる。覚えられれば、的になる。
澪は、ただ畳の目を、数えた。母が父の死を、数でやり過ごしたように。澪も、数でやり過ごす。
その夜も、澪はよく眠れなかった。厚い畳は、かえって背に馴染まない。葦境の薄い茣蓙のほうが、まだ眠れた。
隣で寝息を立てる織部の娘たちは、夢の中でも清い顔をしているのだろう。澪は暗い天井を見ながら、雛のことを考えた。今ごろ薬を、ちゃんと煎じているだろうか。
湯がぐらりと回ってから三つ数えて、火を弱める。あの子は覚えていられるだろうか。母は、起きているだろうか。
考えてもどうにもならないことだけが、次々と浮かんできた。澪はそれをひとつずつ、心の底へ沈めた。穢野で息を止めて潜るように。沈めたものは誰にも見えない。
鶚の言葉が正しいなら、見えないことがいちばんの武器になる。寵を集めて、雛のことは隠す。目立ちながら、いちばん大事なものだけは隠し通す。矛盾していた。
けれど澪は、その矛盾を生きるしかなかった。穢野に潜って清い顔で村を歩く。それと同じことだ。
次の日の、朝だった。
坂人たちは、白い衣に着替えさせられ、長い回廊を、歩かされた。これから、依代にお目通りをする、という。神の器に侍る前の、顔合わせだ。
澪は、列の、いちばん後ろにいた。いちばん後ろが、いちばん、見られずに済む。
回廊の突き当たりに、御簾の下がった、広い間があった。
その奥にひとつの、影があった。
御簾越しでも、わかった。白い。何もかもが、白かった。衣も、肌も、その者を取り巻く空気さえも。
坂人たちが、いっせいに、膝をついた。澪もつられて、膝をついた。けれど、目だけは上げていた。
穢野で死人を見るときの、目の置き方で。怖いものほど、見ておく。見ておかないと、いつ、足元に来るか、わからないから。
御簾がゆっくりと、巻き上げられた。
依代がそこに、いた。
水鏡で何度も見た、あの少年だった。けれど、こんなに近くで見るのは、はじめてだった。年は、澪とそう変わらない。十七か、十八か。
整いすぎた顔は、人形を思わせた。けれど、人形より、ずっと生きていなかった。生きているのに、生きていない。あの、流れ着いた死人の顔に、いちばん、近いものを、澪はようやく、思い出した。
父だ。穢野から、引き上げた、父の顔。何も映していなかった、あの顔に似ていた。
ただ、ひとつだけ、違った。
少年の、立ち方だった。触れられることに、慣れていない者の、立ち方をしていた。誰の手も届かないように、自分の輪郭を、薄く、薄く、保つような。
両の手は決して、体から離さず、衣の内に隠していた。まるで自分の手が、誰かに触れてしまうことを、恐れているみたいに。
「依代様に、触れてはならぬ」白い衣の者が、坂人たちに、言った。「三尺より、近づくな。触れれば、双方、死罪。穢れた身が、神の器に触れることは、世の理を、汚す。覚えておけ」
三尺。澪はその距離を、目で測った。穢野の、浅瀬、ひとつ分。それより、近づけば、死ぬ。
触れられたことのない少年。触れれば、死ぬ少年。崇められて、傅かれて、けれど、ただの一度も、誰の手も届いたことのない少年。
ふと、澪は思った。あの白い衣の内に隠された手は、どんな手なのだろう。きっと、あかぎれも、まめもない手だ。穢野の冷たさも知らない手。
けれどそれは、何かを掴んだことのない手でもある。米を研いだことも、妹の頭を撫でたこともない手。守るもののために汚れたことのない、きれいな手。
澪の手は、あかぎれだらけで、いつも何かの匂いがした。魚か、泥か、煙か。それでもその手で、澪は雛を守ってきた。汚れることのできる手だった。
触れられない手と、触れることしかできない手。どちらがましなのか、澪にはわからなかった。
澪の胸の奥で、何かが静かに、動いた。
なんだろう、と思った。怒りでは、ない。憐れみとも、違う。もっと、古い、もっと覚えのある、何か。
穢野の底で、死人に手を合わせるときの、あの感じに、少し、似ていた。誰にも見送られない者を、せめて、自分だけは、見ておく。そういう、感じ。
そのときだった。
少年の、目が動いた。
伏せられていた視線が、ゆっくりと、上がって――坂人たちの、いちばん後ろ。澪の上で、止まった。
時が止まりは、しなかった。けれど、澪の、息は止まった。
少年の目は、無表情のまま、澪を見ていた。咎める目では、なかった。珍しがる目でも、なかった。それは――知っている者を、見る目だった。
穢野の底で、ときどき感じる、あの目。水鏡が村を撫でて、澪の上で退かなかった、あの目。同じ、ものだった。
なぜ、神の器の目が、それと同じなのか。澪には、わからなかった。わからないのに、体だけがその目を、覚えていた。
少年の、唇がわずかに、開いた。何かを、言いかけたように。
けれど、声は出なかった。
代わりに少年の、肩が半呼吸だけ、上下した。整った呼吸が、一度だけ、乱れて――そして、すぐに整えられた。律儀なほど、すぐに。まるで乱れたことを、自分で咎めるみたいに。
少年は、目を逸らした。澪から、足元へ。本心と逆のことを、するときのように。
御簾が、また、下ろされた。少年の、白い影がその向こうに、消えた。
それで、終わりだった。坂人たちは、また回廊を、歩かされた。北の家の娘が、ため息をついて、尊い、と言った。
織部の娘たちは、依代様の、お顔を間近で見られた、とはしゃいでいた。誰も、気づいていなかった。あの目が最後に、誰を見て、誰から、逸らされたか。
澪だけが、知っていた。
知っていて、それをどうすればいいのか、わからなかった。あの目に見覚えがあること。器のほうも、澪に見覚えがあるように見えたこと。
誰にも言えなかった。言えば、おかしな娘だと思われる。神の器が、穢野帰りの娘を知っているはずがない。
あるはずがないのだ。それなのに、澪の体は、まだあの視線の重さを覚えていた。肌の上に、置かれたままのように。
その夜、澪は眠れなかった。
厚い畳の上で、天井を見ていた。決めるべきことは、決まっていた。寵を、保つ。雛を、守る。
無事に、還る。誰にも、心を許さない。器にも――いや、器にだけは、いちばん、許してはいけない。
鶚が、そう言った。近づくな、と。近づいた坂人は、長く、保たない、と。
澪はそれを、守るつもりだった。守れる、はずだった。澪は十六年、誰にも心を許さずに、生きてきたのだから。
それなのに。
闇の中で、澪は自分の右手が、伸びていることに、気づいた。畳の上を、すべるように。誰も、いない方へ。
御簾の、下りた、あの間の、方へ。三尺より、ずっと、ずっと、遠い、その方へ。
澪はその手を、慌てて、引っ込めた。
袂の内で、親指の爪を、人差し指の腹に、立てた。
けれど、今度ばかりは、痛みもそれを、止められなかった。




