第三話 代わり立ち
澪が一歩前へ出ると、村じゅうの目が、いっせいにこちらを向いた。
背に、何百もの視線が刺さった。重さがあった。澪は、その重さから、十六年、逃げて生きてきた。見られないこと。
気づかれないこと。忘れられていること。穢野の底で息を殺すように、村の隅でも、息を殺してきた。そのすべての逆を、いま、自分の足で踏んだ。
「代わり立ちを」
声は、震えなかった。震えないように、息をふたつ数えてから、口を開いた。
「妹の代わりに、俺が行く」
ざわめきが、波のように引いて、それから、戻ってきた。
代わり立ち。古い慣わしだ。選ばれた者の代わりに、近しい血の者が名乗り出る。誰も、もう何年も、口にしなかった言葉だった。
名乗り出る者が、いなかったからだ。比良坂へ行くことは、戻らないこと。誰がわざわざ、戻らない場所へ、代わりに行く。
だから、村の者は、澪を、化け物でも見るように見た。あるいは、ほっとした顔で。一人、進んで死地へ行く者がいれば、そのぶん、自分の子の名は、呼ばれずに済む。
司が、澪を見た。
水盤の前から、ゆっくりと。緋の袍の裾が、地を擦る音がした。司の顔には、相変わらず、何も浮かんでいない。
けれど、その目だけが、わずかに細くなった。珍しいものを見る目だ。長く生きた者が、滅多に見ない獣を、はじめて見たような。
「……お前が、代わるか」
「はい」
「雛、という子の、姉か」
「はい」
「血は、繋がっているな」
帳を指で確かめながら、司は言った。代わり立ちには、血の証がいる。司の指が、戸の帳の上を滑り、二つの名の繋がりを確かめていく。
澪の名と、雛の名。同じ墨で書かれた、姉と妹。
その帳の、すぐ上の行に、父の名がある。「病」と書き換えられた、あの行が。司の指は、今度は、そこで止まらなかった。もう、確かめる必要がないからだ。
澪が自分から、水鏡の前へ出てきたのだから。穢れを隠した家の娘が、自ら贄になる。神都にとって、これほど都合のいい話はない。
「だめ」
小さな声が、澪の背を刺した。
雛だった。澪の衣の裾を、両手で握っている。さっき放した手が、また、戻ってきていた。
「だめ、お姉ちゃん。だめ」
「雛」
「行かないで。わたしが行く。わたしが、選ばれたんだもの」
雛の目から、涙がこぼれていた。けれど、声は、村じゅうに聞こえないように絞られていた。こんなときでも。
この子は、騒ぐと澪が困ると、わかっている。震える声を、必死に小さくしている。それが、澪の胸を、いちばん抉った。
澪は、膝を折って、雛と目の高さを合わせた。そして、笑った。たぶん、笑えていなかった。澪は、笑い方を、もう、よく覚えていない。
「お前は、咳がひどいだろう」
「……」
「比良坂は、遠い。冬の山を、いくつも越えるそうだ。お前の体じゃ、保たない。だから、俺が行く。それだけのことだ」
「やだ」
「雛」澪は、声を低くした。「俺の言うことを聞け。家に帰って、母さんのそばにいろ。薬は、戸棚のいちばん上だ。煎じ方は、教えただろう。湯がぐらりと回ってから、三つ数えて、火を弱める。覚えてるな」
「……お姉ちゃん」
「覚えてるな」
「……うん」
雛は、しゃくり上げながら、頷いた。澪は、その小さな頭に、手を置いた。穢野の冷たさが、まだ残る手で。雛の髪は、温かかった。
いつも、温かかった。澪が、十六年、守りたかったのは、この温かさだ。たったひとつの、これだけだった。これを守れるなら、自分の名が、どこへ書かれようと、かまわない。
「すぐ帰る」と、澪は言った。
嘘だった。雛に嘘をつくのは、これで、何度目だろう。昨夜もついた。明日は、いつもの朝が来る、と。
来なかった。澪の嘘は、いつも、雛にだけ効く。今も、効いてしまった。
裾を握る手の力が、ほんの少し、緩んだ。信じてくれた。澪の、嘘を。
澪は、その緩んだ指を、そっと、自分の衣から、外した。外すときだけ、指先が、震えた。誰にも、見えないように。
母は、その間、何も言わなかった。
村の者の後ろで、うつむいたまま、立っていた。澪が、わが子の代わりに死地へ行くと言っているのに、顔を上げなかった。三年前、父を引き上げた朝から、母は、そういう人になった。
澪は、母を責めなかった。責めるだけの言葉を、母と交わしたのは、もう、ずっと前のことだ。ただ、最後に一度だけ、母の背中を見た。
母の肩が、小さく震えていた。声を殺して、泣いているのが、わかった。澪に、聞こえないように。
雛が、澪に聞こえないように泣くのと、同じやり方だった。ああ、と澪は思った。この泣き方は、母から雛へ、伝わったのだ。
そしてたぶん、俺にも。同じ家の、同じ血。声を殺して泣くことだけが、上手になっていく血だ。
澪は、立ち上がり、司に向き直った。
「連れていってください」
「……よかろう」司は、帳を閉じた。「代わり立ちを、認める。今日より、お前が、坂人だ」
その言葉で、戸が、閉まった。
音は、しなかった。けれど、澪には、わかった。後ろ戻りの、できない戸だ。
十六年、いちばん遠ざけてきた場所へ、自分の足で、入ってしまった戸。それでも、澪は、震えなかった。震えるのは、迷いがあるときだ。
澪に、迷いはなかった。雛の咳が止むなら、それでいい。それは、迷いではなく、ただの、当たり前だった。
そのときだった。
水鏡の面が、また、揺れた。朝、村を撫でたときとは、違った。今度は、揺れが、止まらない。
水の中に、何かが映りかけては、消える。遠い、白い場所の気配。誰かが、その向こうから、こちらを覗いている気配。
司の足が、止まった。
司も、それに気づいていた。水鏡が、澪の上で、退かない。普段は、村を一度撫でれば、それきり、ただの水に戻る。
神都の目は、貧しい村の一人になど、長く留まらない。留まる値打ちが、ないからだ。
それなのに、今朝の水鏡は、澪を見ていた。ずっと。
司が、はじめて、はっきりとした表情を見せた。戸惑い、だった。緋の袍の中で、司は、わずかに姿勢を正した。遠くの、自分よりずっと上の誰かに、見られていることを、ふいに思い出したように。
司は、何も言わなかった。けれど、もう一度、澪を見た。さっきの、獣を見る目とは、違った。
今度は、澪の後ろの、水鏡を気にする目だ。あれが、なぜ、この娘を見ているのか。それを、測りかねる目。
澪には、わからなかった。なぜ、自分が見られているのか。
ただ、穢野の底で、ときどき感じる、あの目を思い出した。咎める目ではない。知っている者を見るような、静かな目。あれと、同じものが、いま、水鏡の向こうから、自分を見ている気がした。
気のせいだと、いつものように思おうとした。けれど、今日は、うまく思えなかった。袂の内で、親指の爪を、人差し指の腹に立てた。
痛みは、来た。それでも、見られている感じは、消えなかった。むしろ、知られた、という感じだった。
何を、とは、わからない。けれど、何かを、向こうの誰かに、見つけられた。そういう、ひやりとした感じだった。
水鏡が、ようやく、澪から目を逸らした。
村の者は、誰も、それに気づかなかった。気づいたのは、司と、澪と――もうひとりだけ。
「澪」
直だった。
いつのまにか、人垣を抜けて、すぐ後ろに立っていた。澪が振り向くと、直は、笑っていた。いつもの、穏やかな笑い方で。けれど、その笑みは、目の、ずいぶん下のほうにしか、なかった。
「なんで」直は言った。「なんで、俺に相談しなかった」
「相談する、ことじゃない」
「相談することだろう」声は、やわらかかった。やわらかいまま、少しずつ、低くなっていく。「俺は、言っただろう。なんとかするって。お前か雛が選ばれたら、どんな手を使っても、って。言ったよな、澪」
「あんたの手は、いらない」
直の、瞬きが、止まった。
澪の手から、目を離さない。さっき、雛の頭に置いた、その手から。直は、ゆっくりと、息を吸い込んだ。
長く、深く。井戸の朝と、同じように。澪の決めたことごと吸い込んで、なかったことにするみたいに。
「どんな手を使っても、って言ったのは、本気だぞ」直の声は、穏やかなままだった。「司の一人や二人、夜の道で、消えたって、神都は、すぐには気づかない。そう思って、昨日から、ずっと、考えてた。お前と雛を、どうやって、ここから連れて逃げるか」
澪は、息を、呑んだ。直が、何を言っているのか、一拍遅れて、わかった。この男は、本気で、人を、と。
「だから」直は、笑みを深くした。「相談しろよ、って言ってるんだ。お前が、勝手に、いちばん戻れない手を、選んじまう前に」
「……あんたの手は」澪は、もう一度、言った。声が、少しだけ、掠れた。「いらない」
直は、笑った。今度は、声を立てて。村の何人かが、それを、咎める目で見た。
こんな朝に、笑う男を。けれど、直は気にしなかった。澪だけを見ていた。
「いいよ」と、直は言った。ひどく穏やかな声で。「いいよ、澪。お前が、そう決めたなら」
その声が、いちばん、澪をぞっとさせた。やめてくれ、と言いたかった。そういう声で「いいよ」と言うのは、やめてくれ。
けれど、言わなかった。言えば、直は、また、満ちた顔をする。澪が、言葉に引っかかったことを、喜ぶ。
直は、それ以上、追ってこなかった。ただ、その場に立って、澪を見送る顔をした。見送る、というより――行き先を、確かめる顔だった。
白い衣の者が、澪の腕を取った。
「時間だ」と、その者は言った。腕を取った手は、薄い布越しだった。穢れに、じかに触れないように。澪は、まだ墨に落ちてはいない。それでも、穢野帰りの娘の肌に、素手では触れたくないのだ。澪は、それを、なんとも思わなかった。慣れている。誰も、澪に、素手では触れない。直を、除いては。
連れていかれる先に、ほかの坂人たちが集められていた。朝、名を呼ばれた、北の家の娘。それから、澪の知らない、ほかの村の、若い娘や若者が、数人。みな、青い顔で、俯いていた。
誉れの、はずだった。誰も、誉れの顔を、していなかった。北の家の娘が、澪を見て、何か言いかけ、やめた。代わり立ちなんて、と言いたげな顔だった。
馬鹿な娘、とでも。澪は、それにも、何も返さなかった。返す言葉を、持っていなかった。
澪は、振り返った。最後に、一度だけ。
雛が、村の者の隙間から、こちらを見ていた。母に肩を抱かれて。さっき緩んだはずの手で、今度は、何かを握るように、胸の前で、両手を合わせていた。
神に願う形に。澪が、何度も無駄だと思ってきた、あの形に。
雛の唇が、動いた。声は、聞こえなかった。けれど、澪には、読めた。
――すぐ、かえってきてね。
澪は、頷かなかった。頷けば、また、嘘になる。だから、ただ、雛を見た。
この温かさを、忘れないように。穢野の底でも、思い出せるように。網膜に、灼きつけるように、見た。
それから、前を向いた。
ここから先は、誰にも頼らない。澪は、そう決めた。もともと、誰にも頼らずに生きてきた。母にも、村にも、神にも。
ただ一人、守るもののために、潜って、隠れて、嘘をついて。その生き方を、続けるだけだ。場所が、穢野から比良坂に変わる。それだけのことだ。
生きて、還る。雛のところへ。そのために、いる。
水鏡の向こうの、あの目のことも、考えないことにした。知られた、という、あのひやりとした感じも。知られて困るものなど、自分には、何もない。あるとすれば、雛のことだけだ。
だから、雛のことは、誰にも見せない。これから先、自分が何を大事にしているか、誰にも、悟られてはいけない。大事なものは、弱みになる。
それは、穢野が、とうに教えてくれた。守りたいものほど、深く隠す。息を止めて、水の底へ、沈めるように。
澪は、心の中で、雛を、いちばん深いところへ沈めた。誰の目も届かない、底の底へ。そうして、顔から、何もかもを消した。
緋の幟の並ぶ道を、白い衣の者たちが、坂人を連れて、村の外へ歩きだす。天津宮へ続く、長い道だ。澪は、その列に加わった。一度も、振り返らなかった。
背中で、雛が泣いていた。小さな、必死に絞られた声で。澪に、聞こえないように。
けれど、澪には、聞こえていた。村が見えなくなる、その境まで、ずっと、聞こえていた。
澪は、息をふたつ数えた。
それから、もう一度、数えた。
それでも、足りなかった。




