第二話 水鏡
大選りの朝は、村じゅうが同じ方角へ歩く。
澪は、雛の手を引いて、その列の端にいた。誰もが、いちばん清い衣を着ていた。継ぎの少ない、染みの薄いものを。
澪の衣も、母が一晩かけて、灰汁で洗ったものだった。墨に近い色を、ひとつでも、身から消すために。
冷えた朝だった。村の者の吐く息が、白く、列に沿って流れていく。誰も、口をきかない。
咳ひとつ、遠慮がちだった。澪の前を歩く老婆は、数珠を握る手が、震えていた。年のせいか、寒さのせいか、それとも。
母は、澪の半歩後ろを、うつむいて歩いていた。三年前まで、この道を、四人で歩いた。父が先に立ち、母が鼻歌をうたい、澪が雛の手を引いて。今は、ひとり、足りない。
足りないぶんだけ、列が短くなった気がした。母は、その短さを、見ないようにしている。澪も、見ないようにしていた。
道の両側には、緋の幟が並んでいた。昨日まで一本だったものが、夜のうちに、いくつも増えていた。貧しい村に、その色だけが、血のように濃い。雛が、その下を通るたび、澪の袖を握る指に、力を入れた。
澪は、何も言わなかった。握り返しもしなかった。握り返せば、この子は、怖がっていることを、知られたと思う。雛は、いつも、そういう子だった。
社は、村のいちばん高いところにあった。
普段は苔むした、小さな祠だ。けれど今朝は、白い幕が張られ、見たことのない数の人が、その前に整列していた。神都から下りてきた者たちだ。
緋と、白。澪たちの村には、ない色。汚れることを、許されている者の色。
彼らは、村の者と目を合わせなかった。合わせる必要が、ないからだ。同じ人として、見ていない。
その中央に、ひとつの水盤が据えられていた。
黒い石を刳り抜いた、浅い盤。なみなみと張られた水は、風のない朝なのに、かすかに揺れていた。澪は、それを知っている。水鏡。
神都の目が、ここを覗くための、窓。普段は遠い社の奥にあって、年に一度、この朝だけ、村の真ん中へ運ばれてくる。村を、見るために。
「澪」
横に、直がいた。いつのまにか、列の隙間を縫って、すぐ隣に。
「離れるなよ。人が多い」
澪は答えず、雛を、自分と直のあいだに入れた。直の手が届かない側へ。直は、それに気づいた顔で、けれど、笑った。
「賢いな、お前は」
何が、とは聞かなかった。聞けば、長くなる。直は、それきり黙って、澪の半歩後ろに立った。
澪の視界の、ちょうど外側。そこからなら、澪が誰を見るかが、ぜんぶ見える場所だ。
幕の奥から、司が現れた。
緋の袍に、白の領巾を垂らした、若い男だった。顔は、笑っていなかった。怒ってもいなかった。何も、なかった。
澪が穢野で見る、流れ着いた死人の顔に、少し似ていた。生きているのに、何も映していない顔。けれど、その死人の顔より、たちが悪い。死人は、こちらを裁かない。
司は、水盤の前に立つと、ゆっくりと、両手を広げた。
「見届けよ」
低くもない、高くもない声だった。それでも、村じゅうの息が、止まった。
「神は、見ておられる。常に。この水鏡を通して、お前たちのひとり残らずを。清き者は栄え、穢れし者は退く。それが、世の理。乱れた糸を、神が繕うてくださる。これは、罰ではない。慈悲である」
慈悲。
澪は、その言葉を、口の中で転がした。味は、しなかった。父を穢野から引き上げた朝にも、誰かが、同じことを言った。
穢れた死も、神の御心のうち、と。澪は、そのとき覚えた。慈悲という言葉を使う者は、たいてい、こちらの目を見ない。
水盤の面が、ふいに、色を変えた。
ざわめきが起きた。水の中に、遠い景色が滲んでいた。白い回廊。緋の衣の列。
澪も、何度か見たことのある、神都の宮だ。村の女たちが、いっせいに額を地につけた。あれが、選ばれた者の、行きつく先。比良坂の、向こう。
「見ろよ」直の声が、低くなった。「三年前、北の村から選ばれた娘がいただろう。あの水鏡に、毎日、映ったらしい。神事を、国じゅうが見届ける。器の傍に侍る娘は、いちばん清い、ってな。みんな、その娘に夢中になった」
「夢中」
「供物だよ。絹だの、米だの、加護の札だの。国じゅうが、見も知らぬ娘に、それを送った。寵を集めた者ほど、神の近くへ行ける。だから、娘の村は、貧しいくせに、その年だけ、潤った」
「その娘は」
「……戻ってこなかった」直は、肩をすくめた。「けど、村は祝ったよ。誉れだって。今でも、その家には、緋の札が下がってる。娘の代わりに」
戻ってこない娘の代わりに、緋の札を下げて、祝う。
澪には、その理屈が、わからなかった。わからないまま、村の女たちは、水鏡に手を合わせていた。自分の子が、あの中に映る日を、恐れながら、どこかで、夢見ている。映れば、誉れ。
映らなければ、ただ、貧しいまま。隣で、ひとりの母親が、幼い娘の髪を、しきりに撫でつけていた。少しでも、清く見えるように。少しでも、選ばれる側に。
澪には、その手つきが、いちばん、怖かった。
水盤の面の景色が、消えた。
そして、水鏡の目が、村の上を、ゆっくりと、撫でるように動いた。誰の上で止まるか。村じゅうが、息を詰めて、それを待った。
それが、澪の上を通った、そのときだった。
水の揺れが、止まった。
ほんの、半呼吸。澪のいるあたりだけ、面が、墨を流したように、暗くなった。誰も、気づかなかった。
司も、村の者も、直さえも。澪だけが、見た。見られた、と思った。
咎める目では、なかった。穢野の底で、ときどき感じる、あの目。知っている者を、見るような、静かな目。
澪は、袂の内で、親指の爪を、人差し指の腹に立てた。
気のせいだ、と思うことにした。気のせいにしておかないと、立っていられない。父も、こんなふうに、見られていたのだろうか。
穢野の底で。考えかけて、やめた。今日は、考えてはいけない日だ。
水鏡は、また、ただの水に戻っていた。
司が、帳を開いた。
戸の帳。村のひとり残らずの、血と、穢れが、記されている。司は、それを指でなぞりながら、名を読み上げていく。家ごとに、人が進み出る。
司は、その顔を、ひとめ見る。そして、短く言う。「常」あるいは、「褻」あるいは、ただ一言――「穢」。
その言葉が出るたび、村のどこかで、息を呑む音がした。
西の端の、漁師の家で、それが起きた。司が、男の顔を見て、帳を見て、「穢」と言った。理由は、告げられなかった。男の女房が、去年、流行り病で死んだ。
その死に水を、誰が取ったか。枕元に、誰がいたか。それだけのことらしかった。
白い衣の者たちが進み出て、家の者に、墨の衣を着せていく。男と、女房の老いた母と、子どもが、ふたり。袖を通された墨衣は、まだ、糊の匂いがするほど、新しかった。
前もって、用意されていた。誰が穢れるか、神都は、村へ来る前から、決めていたということだ。
いちばん下の子が、何が起きたかわからない顔で、母の墓のほうを指さして、何か言いかけた。母親が、その手を、強く引き下ろした。声を出させなかった。
声を出せば、もっと、悪くなる。子どもは、それを、母の手の強さから、学んだ。澪が、ずっと前に、学んだように。
誰も、止めなかった。止めれば、自分の名が、次に呼ばれる。村は、ただ、目を伏せた。隣の家が墨に落ちる音を、聞かないふりをして。
明日からは、その家の井戸の水も、飲まない。同じ村だったことも、忘れる。そうやって、村は、自分の清さを、守る。
澪は、雛の目を、手のひらで覆った。
「見るな」
「お姉ちゃん……」
「見るな。何も、見なくていい」
雛の睫毛が、澪の手のひらの中で、何度も、上下した。浅く、速い息が、指の隙間から、漏れていた。澪は、もう片方の手で、その背を、ゆっくり、叩いた。穢野の冷たさが、まだ残る手で。
司の指が、帳の上を、進む。家が、ひとつ、またひとつ、片づいていく。
そして。
「真葦の家」
澪の家の名だった。
澪は、雛の手を引いて、進み出た。母が、その後ろを、うつむいて続く。司の目が、澪を見た。
雛を見た。母を見た。それから、帳に目を落とした。
指が、止まった。
ほんの、一拍。司の指が、ある一行の上で、止まっていた。澪には、それがどの行か、わかった。三年前、「病」と書き換えられた、父の死の行。
墨を上から塗った跡が、わずかに、紙を盛り上げているはずの行。役人の袖に握らせた銭が、ちゃんと、仕事をしているかどうか。それが、今、試されている。
澪は、息を、ふたつ数えた。顔は、動かさなかった。膝の裏の、昨日の葦の傷が、衣の下で、じくりと痛んだ。
痛みは、ちょうどいい。痛みがあると、顔が、こわばらずに済む。
司が、顔を上げた。澪を、もう一度、見た。澪の目の奥を、覗き込むように。
澪は、その視線をまっすぐには受けなかった。司の、白い領巾の結び目あたりに、目を置いた。穢野で、死人を見るときと、同じ目の置き方で。
「……常」
それだけ言って、司は、指を、次の行へ滑らせた。
澪は、頭を下げ、雛の手を引いて、退がった。背中に、直の視線があった。汲みすぎた井戸の水のように、静かで、こちらを離さない視線が。直は、笑っていた。
澪の家が、墨に落ちなかったことを、自分のことのように、喜んでいる顔で。けれど、その目は、別のことを言っていた。落ちればよかったのに、と。落ちれば、お前は、俺にすがるしかなかったのに、と。
澪は、そう読んでしまった自分を、すぐに、打ち消した。考えすぎだ。今日は、誰もが、おかしくなる日だから。
選別が、終わりに近づいていた。
最後に、司は、帳を閉じ、別の、細い木札の束を取り出した。
「比良坂へ、奉る者を、選ぶ」
村の若い娘と、若者の名が、読まれていく。札を引く、という形だった。けれど、引かれる名は、いつも、貧しい家から出た。
墨に近い家から。澪は、それを知っていた。誰もが、知っていた。
知っていて、籤だと、信じることにしていた。籤なら、運だ。運なら、誰のせいでもない。
直が、澪の耳元に、口を寄せた。
「もし、お前の名が出ても」声は、やわらかかった。「俺が、なんとかする。言っただろう」
「やめてくれ」
「お前は、俺が守る。お前だけは」
お前だけは。澪は、その言葉の落とす影に、気づかないふりをした。お前だけは、なら、ほかは。雛は。
母は。けれど、問い返さなかった。問い返せば、直は、嬉しそうな顔をする。澪が、自分の言葉に、引っかかったことを、喜ぶ。
司の声が、ひとつ、名を読んだ。澪の知らない、北の家の娘の名だった。娘が、声もなく、進み出る。
母親が、その場に、崩れ落ちた。誉れのはずだった。誉れのはずなのに、誰も、笑っていなかった。
次の名を、司が読もうとして、木札を、めくった。
澪は、自分の名を、待っていた。来るなら、来い。雛の前に、自分が立てるように。
膝に、力を込めた。一歩、踏み出せるように。
司は、しかし、澪の名を、読まなかった。
読んだのは、もっと、短い名だった。澪が、この世でいちばん、聞きたくない、二文字。
「真葦の――雛」
風が、止まった気がした。
村のざわめきも、緋の幟の音も、何もかもが遠くなった。澪の手の中で、雛の指が、びくりと、跳ねた。それから、ゆっくりと、澪を見上げた。
「……お姉ちゃん」
雛の唇が、震えていた。けれど、声は、出さなかった。出せば、澪が困ると、わかっているから。
こんなときでも。この子は、こんなときでも、澪の心配を、している。
澪の胸の奥で、何かが、音もなく、折れた。
けれど、顔には、出さなかった。出してはいけない。ここは、村の真ん中で、水鏡の目が、こちらを向いている。神都が、見ている。
村じゅうが、見ている。直が、見ている。澪が崩れれば、それが、見立てになる。
澪は、その小さな手を、一度だけ、強く握った。雛の手は、氷のようだった。穢野の水より、冷たかった。
見られている。
視られないように、生きてきたのに。今、村の真ん中で、いちばん見られたくないものを、抱えて、立っている。
澪は、雛の手を、ゆっくりと、放した。
雛が、不安げに、その手を追う。
澪は、それより速く、一歩、前へ出た。




