第一話 穢野
水に潜るとき、澪は息をふたつ数えてから沈む。
ひとつで、葦の根のあいだに足を入れる。ふたつで、冷たさが膝から胸へ這い上がり、喉のところで止まる。そこから先は、音がない。
夜明け前の穢野は、墨を溶いた水の底だった。澪は目を開けたまま、泥へ手を伸ばす。水の中では、何も見えない。見えなくても、指が覚えている。
どこに葦の株があり、どこに沈んだ根があり、どこに昨日の筌を仕掛けたか。指先が、その竹の縁をなぞった。中で、何かが身をよじる。逃がさないよう、えらの下へ親指を滑り込ませて、握った。
顔を上げると、空が薄く白んでいた。
鰻が一匹。腕ほどの長さがある。今朝はこれで足りる。
澪は獲物を腰の籠へ落とし、まだ暗い水面に目を走らせた。葦の向こう、霧の底に、捨てられた者たちの気配がある。
穢野は、死者を流す場所だった。焼かれない死人も、名を消された者も、川を下ってみなここへ来る。だから、誰も近づかない。近づけば、穢れが移る。
移れば、墨の衣を着せられ、人ではないものの側へ落とされる。村の子どもは、穢野の方角を指で差すことさえ、しない。差した指が腐ると、本気で信じている。
澪は、その水に毎朝潜っていた。
穢野の毒は、肌の弱い者から蝕む。死人を扱う穢人でさえ、半年もすれば指の先が黒く爛れて、爪が剥がれていく。けれど澪の指は、白いままだった。三年、この水に通って、一度も病まなかった。
あかぎれはできても、爛れはしない。体が丈夫なのだと、母は言う。澪も、そう思うことにしていた。それ以上は、考えない。
考えれば、父のことに行き着くから。
父も、この穢野で死んだ。三年前の春、雪解けで増水した夜に、ひとりで筌を上げに来て、戻らなかった。翌朝、葦の根に引っかかっているのを、澪が見つけた。
一晩、水に浸かった父の指は、白く、ふやけていた。澪は、その手を握って、引き上げた。冷たいだけの、ただの手だった。
穢れた水で死んだ者は、穢れた死人になる。戸の帳にそう書かれれば、残された家ごと墨へ落ちる。母は、帳を預かる役人の袖に、なけなしの銭を握らせた。
父の死は「病」と書き換えられた。澪たちは、常民のまま、葦境の端にとどまった。銭は、それきり、家から消えた。
だから澪は、父を殺した水に潜る。妹に、米を食わせるために。
水から上がると、膝の裏に、葦の切り口が一本、赤い線を引いていた。痛みは、後から来る。澪はいつも、痛みを後回しにするのが上手かった。
泣くのも、震えるのも、後回しにして生きてきた。後回しにしているうちに、たいていのことは、痛む順番を失くしていく。
東の空が、藍から、白い縁を持ちはじめていた。村が目を覚ます前に、帰らなければならない。穢野から戻る姿を、人に見られてはいけない。見られれば、噂になる。
噂は、見立てのとき、芽を出す。澪は、夜明けと競うようにして、毎朝この道を急ぐ。光より、半歩だけ、速く。
籠を背負い、霧を分けて歩きだす。ふと、足の先が、柔らかいものに触れた。
見下ろすと、水際に、白いものが半分沈んでいた。人の、手だった。指が、こちらへ向かって開いている。
流れ着いたばかりらしい。爪に、まだ赤みが残っていた。
澪は、立ち止まった。
息は、乱れなかった。胸の鼓動も、変わらない。三年前、父を引き上げたときも、澪は吐かなかった。穢人の子でさえ、初めて死人に触れた夜は、震えて泣くのだと聞く。
澪は、震えなかった。その白い手から、目を逸らすこともしなかった。膝をつき、両手を合わせて、頭を下げる。それだけして、また歩いた。
なぜ怖くないのか、考えたことはある。一度だけ。
水の底にいるとき、ときどき、誰かに見られている気がするのだ。咎める目ではない。むしろ、知っている者を見るような、静かな目。
答えが出なかったので、考えるのを、やめた。
葦境の家は、村のいちばん端にあった。穢野にいちばん近い、ということだ。
澪が戸を引くと、土間の薄暗がりに、雛が膝を抱えて座っていた。澪の足音で、顔を上げる。それだけで、頬の色が変わった。
「お帰り」
「起きてたのか」
「……ちょっとだけ」
雛の手が、夜着の裾を握っているのが見えた。少しだけ。澪が穢野へ行く朝は、いつもこうだ。
眠れないのを、眠ったふりで隠す。雛は、嘘が下手だった。澪と違って。
澪は竈に火を起こし、鰻を割いた。雛は土間に下りてきて、澪のすぐ後ろに立つ。手伝うでもなく、ただ近くにいる。背中に、視線の温度がある。
「お姉ちゃん、指、冷たいでしょ」
「平気だ」
雛は答えず、両手で澪の左手を包んだ。雛の手のほうが、ずっと小さくて、ずっと温かい。澪は手を引かなかった。
引けば、雛がまた何か言う。火が爆ぜるまで、ふたりはそうしていた。
雛が、咳をした。胸の奥で、湿った音がする。去年の冬から、その音は消えない。医師に診せれば、薬が要る。
薬には、銭が要る。銭を得るには、澪が潜るしかない。澪は鰻を串に刺しながら、その音の数を、いつのまにか数えていた。ひとつ、ふたつ。
今朝は、みっつで止まった。昨日より、ひとつ少ない。それだけのことが、火の熱さよりも、澪の手を温めた。
焼けた鰻を、澪は雛の椀へ、多いほうを置いた。
「お姉ちゃんのが、少ない」
「俺は、水を飲んできたから」
「うそ」
「食え」
雛は、しばらく串を見ていた。それから、半分に裂いて、片方を澪の椀へ戻した。澪も、戻さなかった。
戻せば、雛がまた半分にする。その繰り返しを、澪はもう知っていた。ふたりは、互いの椀に置かれた半分を、黙って食べた。
食べ終えると、雛が、串の先で椀の底をなぞりながら、言った。
「ねえ、お姉ちゃん。明日、司さまが来るって、ほんと?」
「……どこで聞いた」
「井戸で、おばさんたちが」雛の声が、少し小さくなる。「東の家の子も、連れていかれたって。あの子、わたしと、同い年だったよ」
澪は、串を置いた。
「お前は、連れていかれない」
「ほんと?」
「ほんとだ」
嘘だった。澪に、明日のことを約束できる力など、何もない。けれど雛は、その嘘で、肩の力を抜く。
澪が、平らな声でそう言えば、雛は信じる。昔から、そうだった。澪の嘘は、雛にだけ、効く。
「お姉ちゃんが言うなら、そうだね」
雛は、笑った。咳を一つして、また笑った。澪は、その笑顔を見ないように、椀を片づけた。見れば、嘘をついた指の、関節が白くなる。
奥の間で、母が背を向けて横になっていた。澪が膳を運んでも、起きない。起きていることは、肩の動きでわかる。
父が死んでから、母の背中はいつもこちらを向いていなかった。昔は、よく笑う人だった。父の獲った鰻を焼きながら、鼻歌をうたう人だった。
その声を、澪は思い出せなくなっていた。澪は膳を枕元に置き、何も言わずに下がった。言うことは、もう、なくなっていた。
表で水を汲んでいると、声がかかった。
「澪」
直だった。井戸の縁に肘をついて、笑っている。幼いころから変わらない、穏やかな笑い方だ。
水無瀬の同じ泥で育って、同じ年に背が伸びた。澪が川で足を滑らせたとき、いつもこの男が手を差し出した。差し出された手を、澪はあまり、取らなかったけれど。
「また穢野か」
「……声が大きい」
「悪い」直は、ほんとうに困った顔で眉を下げた。「でも、心配なんだよ。お前、ひとりであんなとこ行って。俺に言えば、ついていくのに」
「いらない」
「つれないなあ」
直は籠の中を覗き込んだ。鰻を見て、それから澪の手を見た。あかぎれの目立つ、白い指を。
「これ、これからは俺が獲ってきてやる。お前は家にいろよ。雛のそばに」
「あんたの仕事じゃない」
「お前のことなら、俺の仕事だ」
言い方は、やわらかかった。やわらかすぎた。澪が顔を上げると、直はまだ笑っていた。
けれど、その目だけが、笑っていなかった。瞬きが、ない。澪の手から、目を、離さない。
幼いころ、一度だけ、村の子が澪の籠を蹴って、中の魚を泥にぶちまけたことがある。次の朝、その子の家の筌が、すべて切り裂かれていた。誰がやったか、村では話にもならなかった。ただ、その日の直は、いつもよりよく笑っていた。
澪に、新しい籠を編んでくれながら。あのときの目を、澪は覚えている。今の目と、同じだった。
井戸の水が、桶の縁から静かに溢れた。
「……汲みすぎだ」と澪は言って、目を逸らした。
直が、息を吸い込んだ。長く、深く。澪の指先の冷たさごと、吸い込むように。
それから、いつもの直に戻った。眉が下がり、声が軽くなる。
「大選り、もうすぐだな」
その言葉で、井戸端の空気が変わった。
大選り。数年に一度、神都から司が下りてきて、村の者を選り分ける儀だ。穢れた者を墨へ落とし、清いと見立てられた若者を、比良坂へ連れていく。
何のために連れていかれるのか、村の誰も、正しくは知らない。知っているのは、連れていかれた者が、戻ってこないことだけだ。
戻る代わりに、社の水鏡が、遠い宮の景色を映す。緋の衣の人々。白く長い回廊。
そして、誰にも触れてはならぬという、神の器の少年。村の者は、それを正座して見る。見届けないと、不敬になる。
不敬は、見立てのとき、思い出される。だから、みな見る。澪も、何度か見た。
水盤の面の向こうの少年は、いつも、動かなかった。大勢の手が、その体に届きかけては、寸前で止まる。誰も触れない。触れれば、死ぬのだという。
崇められ、傅かれ、けれど、ただの一度も、触れられない。あんなふうに静かな顔を、澪は他に知らなかった。静かすぎて、生きているのかどうか、わからないほどの。一度だけ、その少年が、まばたきをした。
それだけのことに、澪は、なぜか目を離せなくなった。村の女たちは、ため息をついて、尊い、と言った。澪は、尊いとは思わなかった。ただ、ひとりに、見えた。
「先の選りで、東の家が墨に落ちただろう」直の声が、低くなった。「あれ、見立てひとつだったらしい。婆さんが、死ぬときに穢野の方角を向いてた、ってだけで」
澪は、何も言わなかった。
「向きひとつで、家が四代、墨だ。理不尽だよな」
「……そういうものだ」
「お前は、そう言うよな。いつも」
直が、澪を見た。今度は、目も笑っていた。澪は、桶の縁を握る指に、力をこめた。
「澪。もし、お前か雛が選ばれたら、俺が、なんとかする。どんな手を使っても」
「やめてくれ」
「なんで」
「あんたが、そういう顔をするのが、いやだ」
直は、少し黙った。それから、笑った。「ひどいな」と。傷ついた声では、なかった。
むしろ、何か、満ちたような声だった。澪は、その違いがわかる程度には、この男を長く知っている。だから、桶を持ち上げて、背を向けた。
「明日が、大選りだ」直が、背中に言った。「俺は、お前の名が呼ばれても、困らない。お前が、最後に、俺のそばにいてくれるなら」
澪は、振り返らなかった。
振り返れば、また、あの瞬きのない目を見ることになる。井戸の底のように、暗くて、どこまでも、こちらを離さない目を。
その日、村は、いつもと違う匂いがした。
道の辻に、緋の幟が立てられていた。明日、司を迎えるためのものだ。穢れのない、清い色。村でいちばん貧しいこの土地に、その色だけが、場違いに鮮やかだった。
常民の女たちが、その下で、子の襟を直し、髪を梳いていた。少しでも清く見えるように。少しでも、墨に近く見えないように。
澪が通ると、女たちは口をつぐんだ。穢野帰りの娘だと、知っている。けれど、誰も、そのことを口にしない。口にすれば、自分の家まで、穢野の方を向いてしまう気がするのだろう。
澪は、それでいいと思っていた。視られないことは、忘れられることだ。忘れられている家は、見立てのとき、思い出されない。
辻の向こうで、老人がひとり、地に額をつけて、何かを唱えていた。比良坂の方角へ。連れていかれた孫が、せめて還りますように、と。澪は、足を止めなかった。
願う相手を、間違えている。そう思いながら、けれど、その背中からは、目を逸らした。逸らした先で、緋の幟が、風に鳴っていた。
家に着くころには、日が暮れていた。
その夜、雛はなかなか寝つかなかった。
澪の隣で、何度も寝返りを打つ。澪は天井の闇を見ていた。茅葺の隙間から、星が一つ、覗いている。明日が、大選りの朝だった。
「お姉ちゃん」
「寝ろ」
「……ねえ」雛の声は、布団の中でくぐもっていた。「あした、お姉ちゃんが選ばれませんように」
澪は、答えなかった。
「わたし、お願いするの。神さまに。お姉ちゃんと、お母さんが、選ばれませんようにって」
「お前のことは」
「わたしは、いいの」
雛が、笑った気配がした。暗くて、顔は見えない。けれど、笑ったのが、わかった。
澪はそれを、ずっと知っている。雛は、自分のことを願わない子だった。自分の咳のことも、細い手首のことも、願いの数に入れない。
いつも、誰かのために手を合わせる。澪が無事に帰るように。母が、朝、起きてくるように。
澪は、闇の中で、袂の内側の親指の爪を、人差し指の腹に立てた。痛くなるまで、立てた。
神に願うなら、相手を間違えている、と澪は思う。この村に、願って叶うような神はいない。比良坂の神は、村を救わない。
村から、人を取っていくだけだ。父も、東の家の四代も、神は救わなかった。
それでも、雛は毎晩、手を合わせる。叶わないと知らずに。あるいは、叶わないと知っていて、なお。
守る。守ってみせる。
それが、澪のたったひとつの願いだった。神に向けたことは、一度もない。願う相手を、信じていないから。
願いは、自分の手でしか、叶わない。澪は、そう決めて生きてきた。
けれど、その夜だけは。
明日、神都の目が葦境を覗いても、どうか、この子の名を、呼ばないでほしい。
視られないように生きてきた娘が、闇に向かって、生まれて初めて、誰にともなく、そう念じた。
外で、風が葦を鳴らした。穢野のほうから、水の匂いが流れてくる。死者と、泥と、夜明けの匂い。
雛の寝息が、ようやく深くなった。咳は、止んでいた。澪は、その小さな背に、夜着をもう一枚かけた。
澪は、目を閉じた。
夜明けは、もう、近かった。




