第十話 囲う手
直は、鏡断ちの帰り道で、待っていた。
逢魔が時が、終わったあと。千引岩の庭から、宮へ戻る、その渡殿の、いちばん暗いところで。澪が、足を止めた。
直は、柱に背を預けて、笑っていた。いつもの、穏やかな笑い方で。
「楽しかったか」直は、言った。「依代との、逢瀬は」
澪は、答えなかった。否定する言葉を、探した。けれど、直の目を見て、それが無駄だと、わかった。
「三日に、一度。逢魔が時。千引岩の、奥の庭」直は、指を折りながら、数えた。「俺は、鴉だ。覚えてるだろう。夜目が、利く。お前がどこへ行くかなんて、最初の晩から、知ってたよ」
澪の、背が冷たくなった。
知られていた。最初から。澪がいちばん隠したかったものを、いちばん知られたくない男に。穢野で、誰にも見つからないように、息を殺してきた。
村で、忘れられるように、顔を伏せてきた。それなのに、この男だけは、ずっと見ていた。澪が隠れれば隠れるほど、直はよく見えていたのかもしれない。
鴉は、暗いところでいちばん目が利く。澪が闇に潜むたびに、直の目だけは、その闇の中で、澪を捉えていた。十六年、ずっと。
「言わなかったのは」直は、柱から、身を起こした。「お前を、信じてたからだ。いつか、目が覚めると、思ってた。あんな、喰われるだけの皿に、何の見込みもないと、気づくと。でも、お前は」直は、首を傾けた。「気づかないな。むしろ、深みに嵌まってる。だから、俺が、終わらせてやることにした」
「終わらせる」
「ぜんぶ、だ」
直は、近づいてきた。三尺など、関係なかった。直は、澪に触れられる、ただひとりの男だった。
澪の、肩に、手を置いた。穢れも、何も気にせずに。
澪はその手を、振り払わなかった。振り払えば、直がどうするか、わからなかったから。
「澪。俺はお前を、ここから、連れ出す」直の声は、優しかった。「儀になんて、出させない。喰われさせもしない。お前と、雛を、連れて、遠くへ逃げる。誰の目も、届かない場所へ。穢れも、寵も、依代も何もない場所で、三人で暮らすんだ。お前は、もう、隠れなくていい。潜らなくていい。俺がぜんぶ、守ってやる」
それは、優しい言葉だった。
十六年、誰も、澪に言わなかった言葉だった。守ってやる。隠れなくていい。澪がいちばん、欲しかったかもしれない言葉。
それを、直は知っていた。だから、囁いた。澪の、いちばん、柔らかいところを、狙って。
けれど、その言葉の底に、澪は別のものを、聞いた。連れ出す。逃げる。
三人で。それは優しさの形をした、檻だった。
恐ろしいのは、その檻が、温かそうに見えることだった。三人で暮らす。隠れなくていい。守ってやる。
それは、澪が子どものころ、何度も夢に見た暮らしだった。父がまだ生きていて、母が鼻歌をうたっていて、雛が咳をしないで笑っている。直は、その夢の形を知っていた。澪のいちばん弱いところに、いちばん欲しい餌を置いてみせた。
もし、斎に会っていなければ。澪は、ふと思った。この宮に来る前なら、わたしは、その手を取っていたかもしれない。疲れていたから。
ずっと、ひとりで抱えてきたから。誰かに守られたいと思わなかったわけでは、ない。直の檻が恐ろしいのは、それが牢屋に見えないからだった。いちばん入りたくなる形を、していたからだった。
「あんたは」澪は、言った。「何のために、ここまで、した」
「お前のためだ」
「嘘だ」
「嘘じゃない」直の、笑みが深くなった。「お前のためだよ、澪。ぜんぶ。死人の名を買ったのも。坂人に化けたのも。雛を、見ているのも。ぜんぶ、お前のためだ。俺はお前を、愛してる。誰よりも。だから、お前を穢れの底から、救い出して、誰にも渡さない。それの、どこが、嘘だ」
直の声は、優しかった。穏やかだった。怒鳴りも、しなかった。
それなのに、澪は震えていた。冬の前で、震えたときと、同じだった。けれど、冬とは違った。冬は世界を、秤に載せていた。
直は――澪、ひとりだけを、載せていた。世界中の、ほかのすべてが、どうなろうと、直には関係なかった。雛さえ、本当は関係なかった。
雛は、ただ、澪を繋ぎ止めるための、紐だった。直の秤には、澪、ひとりしか、載っていない。それが冬よりも、ずっと恐ろしかった。
「俺は」澪は、声を絞り出した。「あんたとは、行かない」
直の、瞬きが止まった。
笑みは、消えなかった。けれど、その目だけが、動かなくなった。澪を、見据えたまま。
「……依代の、せいか」直は、言った。声は、やわらかいままだった。「あの、喰われるだけの皿の、せいでお前は、俺と、行かないのか」
「斎は、関係ない」
「斎」直が、その名を舐めるように、繰り返した。「名前で、呼ぶのか。器を。……そうか。そこまで、行ってるのか」
直はゆっくりと、息を吸い込んだ。長く、深く。澪の、肩に置いた手に、わずかに、力がこもった。
痛いほどでは、なかった。けれど、離れない、という力だった。
「澪。よく、聞け」直は、言った。同じ、優しい声で。「あの依代は、儀で、死ぬ。喰われて、消える。お前が何をしても、止められない。お前も、知ってるはずだ。だったら、あれに、心を残すのは、無駄だ。死ぬものに、心をやるな。それは捨てるのと、同じだ。俺に、やれ。俺は、死なない。俺は、ずっとお前のそばにいる。だから――あの皿のことは、忘れろ。それが、お前のためだ」
「いやだ」
「澪」
「斎は、皿じゃない。それにあんたに、忘れろと言われる筋合いも、ない」
直の、笑みがほんの少し、歪んだ。初めて、だった。澪が十六年で、見たことのない、歪み方だった。
「……困ったな」直は、言った。穏やかに。「お前が、聞き分けてくれないと、俺は嫌なことを、しなきゃならない」
「嫌なこと」
「あの依代を、消すことだ」
澪の、心臓が跳ねた。
「簡単だよ」直は、笑った。楽しそうですら、あった。「器は、宮の奥にいる。番は、厳重だ。けど、儀の前には、必ず、外に出る。禊の庭。神楽の庭。その、わずかな隙に。俺は、もう、宮の中だ。坂人として。誰も、俺を疑わない。鴉は、賢いんだ。いつ、どこでそれができるか、もう、見当をつけてある」
「やめろ」
「やめてほしいなら」直は、澪の、耳元に口を寄せた。「俺と、来い。お前が俺のものになれば、あの皿は消さない。儀で勝手に、死ぬのを待てばいい。お前さえ、俺のそばにいてくれれば、俺はあれに、手を出さない。なあ、澪。簡単なことだろう」
それは取引の、形をしていた。
澪を人質に取って、斎の命を見逃す。あるいは斎の命を、人質に取って、澪を、奪う。どちらにしても、澪は、直の、檻に、入る。澪は初めて、はっきりと、わかった。
直の愛は放つ愛とは、正反対だった。斎は、澪を生かすために、自分から、遠ざかった。直は、澪を奪うために、なんでも近づけた。
斎は、手を隠した。直は、手を伸ばしてくる。どこまでも。
そして、囲う愛のほうが、放つ愛よりも、ずっと近くにいた。
斎は、三尺向こうにいて、触れれば死ぬのに、いちばん遠かった。直は、すぐ隣にいて、触れても死なないのに、いちばん恐ろしかった。触れられる手が、いつも優しいとは限らない。澪は、それを初めて知った。
穢野では、触れられないものこそ危険だと、教わってきた。死人。穢れ。けれど、この宮でいちばん危ないのは、触れていいはずの、いちばん近い手だった。
澪は、肩に置かれた直の手を見た。あかぎれ一つない、ただの男の手。十六年、何度も差し出されてきた手。
澪が、何度も取らなかった手。今、その手が、澪の肩を、放そうとしなかった。
「考えとけよ」直は、身を引いた。何ごともなかったように。穏やかな、幼馴染の顔に、戻って。「急がなくていい。俺は待つのが、得意だ。鴉は光るものを、見つけたら、何年でも、待つ。お前を最初に好きになった、あの川のときから、もう十年以上、待ってる。あと少しくらい、どうってことない」
直は、踵を返しかけて――ふと、思い出したように、振り返った。
「ああ、そうだ。これを渡しておこうと、思って」
直が懐から、何かを取り出した。
細い、色の褪せた、組み紐だった。澪の、手が止まった。見間違える、はずがなかった。澪が、編んだものだった。
何年も前に。雛の、細い髪を結ぶために。穢野で拾った、端切れをより合わせて。
雛はそれを、宝物のように、していた。毎朝、澪が結んでやった。葦境を、出る朝も雛の髪に、それはあった。
それが、今、直の、手の中にあった。
「雛は」直は、言った。優しく。「俺の家の者が、預かってる。安全な場所に、移した。葦境の、あの貧しい家より、ずっと暖かい場所だ。薬もちゃんと、ある。咳も、よくなってきたらしい。……心配、しなくていい。俺が預かってる限り、雛は、安全だ」
俺が、預かってる限り。
その言葉の、意味を、澪は骨の髄で、理解した。雛は、もう、葦境にいない。直の、手の中にいる。
直の、機嫌、ひとつで暖かくも、冷たくもなる場所に。澪が言うことを聞けば、雛は、安全。聞かなければ――。
直はそれを、言わなかった。言わないことが、いちばん、効いた。澪の想像が、いちばん、残酷な絵を、勝手に描いた。
澪は、組み紐を握る手に、力を込めた。雛が毎朝、髪を結んでもらうとき、くすぐったそうに笑った。その重さも、温かさも、澪の指は覚えていた。その雛が今、どこにいるのか、わからない。
直の家の者、というのが、どんな者かも、わからない。暖かい場所だ、と直は言った。けれど、暖かいかどうかを決めるのは、直だった。澪が、賢くしている限り。
賢く、というのは、つまり、こういうことだ。斎を諦めること。直の檻に入ること。澪が、自分の手で、いちばん守りたかった二人のうち、片方を捨てること。
雛を生かすために、斎を。あるいは、斎を生かすために、雛を、直の機嫌に預けつづけること。直は、澪に、その二択を握らせた。優しい顔で。
「お前の、いちばん大事なものが、どこにあるか」直は、組み紐を、澪の、手のひらに、そっと握らせた。「忘れるな、って、言っただろう。澪。俺は、優しい男だよ。お前が、賢く、してくれる限りは」
直は、行ってしまった。
澪は暗い渡殿に、ひとり、残された。手のひらの中に、雛の、組み紐を握って。さっき、斎が灰になると言って、隠した手のことを、思い出した。
触れたくても、触れられない手。そして今、この手の中には、触れていいはずの、いちばん近い男が、置いていった、いちばん冷たいものが、あった。
澪はその組み紐を、頬に当てた。
まだ、雛の、匂いが、した。葦境の、煙と、薬と穢野の、匂いが。澪はその匂いに、初めて、声を殺さずに、泣きそうになった。
けれど、泣かなかった。泣けば、終わる気がした。澪は組み紐を、いちばん深いところに、握りしめた。
四方が、塞がれていた。冬が、上から。直が、隣から。
儀が、前から。そして、いちばん大事なものは、もう、敵の、手の中だった。
穢野で、雛を心の底に沈めたときのことを、思い出した。守りたいものほど、深く隠す。大事なものは、弱みになる。あのとき、澪はそう決めた。
それは正しかった。けれど、間に合わなかった。直は、澪が雛をいちばん深いところに沈める前に、もう、その場所を知っていた。澪が隠そうとしたものを、いちばん最初に奪った。
そして斎のことは、隠せなかった。隠す前に、好きになってしまった。澪は、自分のいちばん大事なものを、二つとも、隠しきれなかった。
十六年、隠すことだけは得意だったのに。この宮に来て、澪は隠し方を忘れた。忘れたから、二つとも奪われかけている。
けれど、隠すのをやめたから、見えたものも、あった。斎の孤独。冬の嘘。直の本性。
隠れていたら、どれも見えなかった。澪は今、生まれて初めて、隠れずに立っていた。いちばん危ない場所で。けれど、いちばんよく見える場所で。
それでも、と、澪は思った。
それでもわたしは、まだ二人を、諦めない。雛も。斎も。
たとえ、この手がどちらにも、届かなくても。
澪は、立ち上がった。膝が、震えていた。けれど、止まるまでは待たなかった。震えたまま、歩きだした。
穢野で、罠を上げに行く朝と、同じだった。怖くても、行く。守るものが、いるから。
今度は、二人いた。手の届かない場所に、二人とも。それでも澪は、その二人のほうへ、一歩、踏み出した。




