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水鏡の花嫁  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)
第一部

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第十一話 黄泉路

罠が閉じはじめたのは、神降ろし(かみおろし)の、三日前だった。


朝、坂人(さかびと)が、広間に集められた。儀の、最後の段取りを、聞くためだ。けれど、その場で、織部(おりべ)の娘が、立ち上がった。(みお)に、いちばん、辛く当たってきた、あの娘だった。


「申し上げます」娘は、神官に向かって、言った。声が、勝ち誇っていた。「この、真葦(まあし)の澪には、穢れの、疑いがあります。調べました。あれの父は、病で死んだことに、なっています。けれど、本当は――穢野(えの)で、溺れて死んだのです。穢れた水で。それを賄賂で、書き換えた。穢れを、隠した家の娘です」


広間が、ざわめいた。


澪の、心臓が跳ねた。けれど、顔は動かさなかった。来た、と思った。いちばん、隠してきたものが、いちばん悪い時に、暴かれた。


父の死。賄賂。それが暴かれれば、澪は、穢れ。家ごと、墨に落ちる。


葦境(あしざかい)に、(ひな)が――いや、雛は、もう葦境にいない。(なお)の、手の中だ。澪が墨に落ちれば、直は雛をどうするか。


澪は、何も言えなかった。弁解すれば、嘘になる。沈黙すれば、認めることになる。どちらにしても、終わりだった。


織部の娘は、勝ち誇っていた。当然だった。穢野帰りの娘が、判官贔屓で、自分たちを食って、いちばん上まで行った。それが、ずっと気に入らなかったのだ。


今、その娘を、いちばん高いところから、いちばん低いところへ突き落とせる。墨の底へ。娘の目には、その快楽が、はっきり浮かんでいた。


澪は、それを責められなかった。澪も知っていた。いちばん下にいた者が、誰かを自分より下へ落とすときの、あの暗い喜びを。


穢野の村で、何度も見てきた。誰かが墨に落ちれば、自分はまだ落ちずに済む。だから人は、隣人を突き落とす。


この娘も村の女たちも、同じだった。みんな、怖いのだ。落ちるのが。


広間の、誰も澪を庇わなかった。当然だった。庇えば、自分が次に疑われる。


澪は、ひとりだった。いつものことだった。


「静まれ」


低い声が、した。


広間の、奥から。いつのまにか、(ふゆ)が、立っていた。大織主が坂人の段取りの場に、現れる。


あり得ないことだった。神官たちが、いっせいに、平伏した。織部の娘も、慌てて、膝をついた。


冬はゆっくりと、澪の前まで、歩いてきた。穏やかな顔で。手に一本の、(しゃく)を、持って。


「その娘の、父のことは」冬は、言った。「わしが、知っておる」


澪は、顔を上げた。


「三年前、葦境の、戸の帳(とのちょう)に、不審があった。わしの耳にも、入っていた。穢れた死を、病と書き換えた疑い。だが――」冬は、織部の娘を、見た。「調べた結果、その父の死は、病であった。間違いない。わしが、確かめた。この娘の家は、清い。穢れては、おらぬ」


それは、嘘だった。


澪には、わかった。冬は、知っていた。父が、穢野で死んだことを。賄賂のことも。


すべてを。それなのに、冬は澪を庇った。広間の、全員の前で。穢れていない、と。


織部の娘が、青ざめた。大織主が直々に、否定したのだ。誰も、もう、覆せなかった。娘は震えながら、頭を下げ、引き下がった。


澪は、救われた。けれど、救われたことが、いちばん、恐ろしかった。


冬は、なぜ、庇ったのか。慈悲では、ない。この男にそんなものは、ない。答えはひとつしか、なかった。


冬は澪をここに、残したかった。祓い落とし(はらいおとし)にされては、困るのだ。澪は、(ちょう)を集めた、いちばん清い坂人。神降ろしで、器に侍る、勝者の娘。


冬は、澪を喰うつもりだった。だから、墨に落とさせなかった。穢れていない、ことにした。喰うために。


冬は、澪を、見た。慈しむような目で。瞳の動きだけが、止まっていた。秤に載せた、ひと握りの重さを、確かめる目で。


「もう、誰もお前を、穢れとは言わぬ」冬は、澪にだけ、聞こえる声で、言った。「安心して、清いまま、その日を、迎えるがよい」


その日。神降ろしの日。澪が、(いつき)と一緒に、喰われる日。


冬はそれきり、広間を去った。澪を、いちばん安全な場所に――いちばん、喰われやすい場所に、置いて。


澪は広間にひとり、立ち尽くしていた。助かったのに、ぞっとしていた。今まで、敵はわかりやすかった。穢れと罵る者。


墨に落とそうとする者。澪を低いところへ突き落とそうとする者たち。だから、抗えた。隠れて、潜って、やり過ごせた。


けれど、冬は違った。冬は、澪を高いところへ押し上げてくる。清いと言い、勝者と呼び、いちばん尊い役を与えてくる。落とすのではなく、持ち上げて、喰う。


突き落とされるのなら、踏ん張れる。けれど、優しく持ち上げられて、いちばん高い祭壇へ運ばれていく。それには抗う手がかりすら、なかった。冬は、澪が十六年かけて身につけた、すべての守り方を、無効にする男だった。


その夜、澪は、(みさご)に、すがった。


「方法を、ください」澪は、言った。初めて、誰かにすがる、という形で。「どんな方法でも、いい。斎を、喰わせない方法を。雛を、取り戻す方法を。あなたは、還り(かえりびと)だ。中を、見たんでしょう。何か、あるはずだ」


鶚は長いあいだ、澪を、見た。横を、向かずに。


「ないよ」鶚は、言った。けれど、いつもの、突き放す声では、なかった。「俺も、探した。あの娘を、救う方法を。何年も。なかった。神降ろしは、止められない。……ただ」


「ただ?」


「ひとつだけ、わかったことが、ある」鶚は、声を落とした。「器が、砕けるのは、魂を注ぎ込まれたときだ。注ぎ込む、その瞬間。あそこだけが、儀の、いちばん、無防備なところだ。神官の、結界がいちばん、薄くなる。何かが起きるとすれば、あそこだ。けど――あそこに、近づけるのは、侍る娘だけだ。つまり、お前だけだ。そして、近づいたが最後、お前も注ぎ込まれる。喰われる。助かる道は、ない。あるのは二人で、喰われる道だけだ」


二人で、喰われる道。


澪はそれを、聞いて、奇妙に静かになった。道がある。喰われる道だけれど。それでも、斎の、すぐそばまで、行ける道が。


何かを、するための。あとは、その「何か」を、見つければいい。喰われる前に。


その夜、澪は眠らなかった。雛の髪紐を編んだときの、指の動きを思い出していた。三つの筋を、互い違いに組んでいく。ひとつでは、すぐ切れる。


三つ縒り合わせれば、切れない。澪は、自分の持っているものを数えた。禊で水を弾いた、説明のつかない体。鶚の教えた、結界の薄れる一瞬。


斎がたった一度ほしがった、生きたいという願い。どれも、それだけでは何にもならない。けれど、縒り合わせれば。


澪は暗がりでひとつだけ、細い筋道を見つけた気がした。確かめる術は、なかった。賭けるしか、なかった。


神降ろしの日が、来た。


神迎えの宮(かみむかえのみや)の、いちばん奥。今まで坂人が、立ち入れなかった、最奥の、祭壇の間が、開かれた。()と、白の、神官が何十人と、並んだ。


中央に、黒い、石の祭壇。その周りに、いくつもの、水盤。水鏡(みかがみ)だ。


今日の神降ろしは、国じゅうが、見届ける。いちばん、寵を集めた儀になる、と誰かの声がした。穢野の娘の、おかげで。


澪は、白い、侍り装束を、着せられていた。勝者の、娘として。


その装束が、何を意味するか、澪は知っていた。これは花嫁の、装束だった。神に、嫁ぐための。器と一緒に、喰われるための。


けれど、澪はそれを、着た。拒めば、その場で祓い落とし。雛が、墨に。


だから、着た。喰われるための、白い衣を。斎の、すぐそばへ、行くために。


そして、斎が運ばれてきた。


祭壇の間の、奥から。白い輿(こし)に、乗せられて。物忌みの装束ではなく、いちばん、清い、白の、礼装で。


髪を結われ、化粧を施されて。人形のように、美しかった。人形のように、生きていなかった。


澪が、千引岩(ちびきいわ)の庭で見た、あの、空の色を懐かしむ少年は、もうどこにも、いなかった。代わりにいちばん、清い、皿が運ばれてきた。喰われるための。


澪は、その輿が自分の前を通るのを見ていた。手を伸ばせば届く近さだった。けれど、伸ばせば二人とも死ぬ。斎の白い指が、膝の上で揃えられていた。


逃げ出さないように縛られては、いなかった。縛る必要がなかったからだ。斎はもう、逃げない。逃げ場がないことを、誰よりよく知っていた。


あの庭で、空の色をたった一度ほしがった少年が、今は与えられた皿の役を、寸分の狂いもなくこなしていた。澪は、その従順さがいちばん苦しかった。抗ってくれたほうが、まだよかった。斎が静かであればあるほど、澪の中で、何かが音を立てて軋んだ。


水鏡がいっせいに、その姿を映した。国じゅうが、見ていた。尊い、と誰かが泣いた。誉れだ、と。


澪は、その泣き声を聞いていた。国じゅうの人が、水鏡の向こうで泣いている。美しい儀だ、世界を救う尊い犠牲だ、と。誰も知らなかった。


今から何が起きるかを。あの美しい少年が、何百もの死者の魂を注ぎ込まれて、砕けることを。誰も知らずに、泣いて、拝んでいた。


それが、いちばんおぞましかった。冬の嘘は、ここまで行き渡っていた。国じゅうが、共犯だった。


知らずに、喰うことに手を貸していた。慈悲だ、秩序だ、と。澪の村も、そうだった。


澪自身もこの宮に来るまでは、そうだった。水鏡の前で正座して、見届けていた。知らずに。


だから、と澪は思った。せめて、わたしだけは、知っている。知っている者が、ひとりはいなければならない。皿ではなく、斎を見ている者が。


斎は祭壇へ、上らされた。


神官が祝詞を、唱えはじめた。低い、地を這うような、声で。祭壇の周りの、空気がざわめいた。何かが、満ちてくる。


澪の肌がぴりぴりと、粟立った。御魂(みたま)だ、と澪はわかった。比良坂で死んだ、何百もの、魂がこの祭壇の、上に集まりはじめている。注ぎ込まれる、刻が、近い。


満ちてくる気配は、穢野の匂いに似ていた。死と、泥と夜明けの匂い。澪が十六年、毎朝潜ってきた、あの水の底の匂い。


けれど、ここにあるのは、ひとつの死ではなかった。何百もの死が、いちどに押し寄せていた。澪の肌が、それに応えるように粟立った。


禊で、水を弾いたときと同じだった。澪の体が、また、何かを知ろうとしていた。澪の与り知らぬ、何かを。


御魂は、斎のほうへ流れていく。空っぽの器を満たそうとして。澪は、それを見ていた。あれが、斎の中に入る。


斎を押し流す。澪が「ここにいる」と言った、あの少年を消す。考えただけで、澪の足が勝手に前へ出かけた。まだ、早い。


まだ、注ぎ込まれていない。澪は、その足を止めた。最後の一瞬まで。鶚の言った、いちばん無防備な、その一瞬まで。


冬が祭壇の、最も高いところに、立った。笏を、掲げて。


「いざ、神を、迎えん」


澪は侍り装束のまま、祭壇の、下に控えていた。


すぐ近くに、斎が、いた。三尺。触れれば、死ぬ距離。


けれど、もうそんなことは、関係なかった。これから、二人とももっと、ひどいやり方で、消えるのだから。


斎が祭壇の上で、こちらを向いた。


水鏡に、背を向けて。映してはいけない、その一瞬に。国じゅうの目から、隠れた、その一瞬に。


斎は、澪を、見た。最後に、一度だけ。


何も映さなかった、あの目が今は必死に、何かを訴えていた。澪には、読めた。何度も、聞いた言葉だった。


――来るな。


斎の唇が声もなく、そう、動いた。来るな。お前まで、喰われる。生きろ。


雛のところへ、還れ。俺のことは、忘れて。最後まで、放つ愛だった。喰われる、その間際まで、斎は澪を突き放そうとしていた。


けれど。


澪はその唇を、見て、決めた。


守るというのは、手放すことではない、と澪は思った。斎は、放つことで澪を守ろうとした。手を隠し、突き放し、ひとりで喰われようとした。けれど、澪が穢野で覚えた「守る」は、違った。


守るとは、手を伸ばすことだった。冷たい水の底へ、雛のために、毎朝、手を伸ばすことだった。たとえ、その手が何かに灰にされても。澪は、放つ愛を知らなかった。


澪が知っているのは、囲う愛でもなかった。澪のは、ただ届かせようとする愛だった。届かないとわかっていても、伸ばす手の。


斎は十七年、誰にも望まれずに、生きてきた。生きたい、とたった一度、思った。それを教えたのは、澪だった。


なら、最後まで見届けるのも、澪の、つとめだった。来るな、と言われて、引き下がるのは、もう終わりにする。


今までは来るな、と言われて、それでも、来た。隠れて。こっそり。


今度は、違った。


澪は国じゅうの、水鏡の、ど真ん中で。


斎の、突き放す唇に、背いて。


祭壇の、いちばん高いところへ向かって――足を、踏み出した。


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