第十二話 贄の刻
足が地を蹴ろうとした、その時。
横から、腕が伸びた。澪の肩を、掴んで引き戻す。痛いほどの、力で。
振り向くと、直が、立っていた。神官の、白い装束を、着て。いつのまにか、侍る娘の、すぐ後ろまで、来ていた。当然のような、顔で。
誰にも、咎められずに。直なら、できることだった。直は、いつも、誰にも見えないところから、現れた。
「だめだよ、澪」直は、囁くように、言った。優しく。「そっちは、行き止まりだ」
そして、直の、もう片方の手が、引いた。
その手の先に、雛が、いた。
澪の、心臓が止まった。葦境の、外にいるはずの妹が、ここに、いた。神迎えの宮の、最奥に。
祭壇の、すぐそばに。薄い、白い衣を着せられて。子供には、寒すぎる場所だった。
雛は、震えていた。直の手がその細い腕を、掴んでいた。逃げられないように。
雛が、澪を見つけた。
「ねえ……」雛の唇が、動いた。声は、出ていなかった。けれど、澪には読めた。ねえちゃ。
澪は、一歩、踏み出しかけた。直の手が雛の腕を、わずかにねじり上げた。雛が、顔を歪めた。澪の足が、止まった。
その止まり方を、直は見ていた。雛が痛がれば、澪は動けない。それを確かめるように、直は、もう一度、ほんのわずか、雛の腕に力を込めた。
雛が、息を詰めた。澪の全身が、強張った。直は、満足そうに頷いた。
鎖の長さを測る、ように。澪を繋ぐ、いちばん丈夫な鎖が雛であることを、直は誰よりよく知っていた。澪自身より、深く。
「動かないで」直は、笑っていた。「ね。話を、しよう。澪と、ゆっくり」
御魂の気配が、祭壇の上で、膨らんでいた。祝詞が、高くなっていた。刻が、迫っていた。斎が、注ぎ込まれるまでの、刻が。
「斎を、助けたいんだろう」直は、言った。「わかってる。ずっと、見てたから。お前があいつの、何でもないところに、惹かれていくのを。隠れて、逢いに行くのを。腹が、立ったよ。なんであんな、空っぽの皿なんだ、って。お前は、俺を、見てくれなかったのに」
直の声は、穏やかだった。けれど、その奥で何かが、煮えていた。澪は初めて、直の、本当の顔を、見ている気がした。幼い頃から、隣に、いた。
誰よりも、優しかった。澪が泣くと、いつもそばに、いた。その優しさの底に、こんなものが、沈んでいたとは、知らなかった。
裏切られた、と澪は思った。けれど、いちばんこたえたのは、斎を喰わせようとしていることではなかった。直がずっと見ていた、ということだった。澪が斎に惹かれていく、その始まりから終わりまで。
隠れて逢いに行く、その後ろ姿を。直は、ひとつも見逃さずに見ていた。助けるためではなく。
いつか、それをてこにするために。澪が、いちばん人に見られたくなかった柔らかい部分を、直は、ずっと覗き込んで数えていた。優しい顔をしながら。
「だから、考えたんだ」直の微笑みは、崩れなかった。「斎が、喰われれば、いい。今日、ここで。そうすれば、お前の、その、おかしな気持ちも、一緒に消える。皿が割れれば、皿に乗せた想いも、なくなる。そうしたら、お前は、また俺のところに、戻ってくる。昔みたいに。俺だけを、頼って」
澪は直の顔を、見た。
この男は、本気だった。斎を、喰わせたがっていた。澪を、助けるためではなく。
澪を、独り占めするために。恋敵がいなくなれば、いいと。
おかしい、と澪は思った。直は、澪を愛していると言う。それなのに、澪がいちばん苦しむことを、しようとしている。澪の好きになった人を、目の前で喰わせて。
それを、愛だと呼んでいる。直の愛は、澪を幸せにするためのものではなかった。澪を、自分のものにしておくためのものだった。澪が誰を想おうと、関係なかった。
むしろ、想う相手をひとつずつ消していけば、最後に残るのは直だけになる。直は、そう信じていた。澪の心が空っぽになれば、そこに自分が入れる、と。
「雛は、預かってる」直は、雛の腕を引き寄せた。「いい子だろう。お前に、よく似てる。だから、選んでいいよ、澪。簡単なことだ」
直は、雛の、白い衣の、襟を直してやった。優しい手つきで。それがいちばん、恐ろしかった。
「斎のことは、忘れて、ここにいなさい。じっと。そうすれば、斎は立派に、喰われて、儀は終わる。誰もお前を、責めない。お前は勝者の娘として、生き残る。そして、俺が雛をお前に、返してあげる。二人で、また、暮らせばいい。俺が、守ってあげる。ずっと。……それとも」
直の、目が細くなった。
「斎を、助けに走るか。国じゅうの、水鏡の前で。穢れた手で、神の器に触れに。そうしたら、お前はおしまいだ。神罰で、灰になる。雛も穢れの妹として、墨に落ちる。俺の手の中で。お前が走った、その瞬間に。どっちにしても、斎は喰われるよ。お前が間に合うわけ、ないんだから。だから、ね。賢く、選んで。雛を、取るんだ。当たり前だろう。お前はいつも雛のために、生きてきたんだから」
それは、ジレンマだった。
完璧な、ジレンマだった。直は、澪の、いちばん、柔らかいところを、知っていた。雛。
澪が十六年、すべてを捧げてきた、たったひとりの、妹。その雛を人質に、取った。斎を助けに走れば、雛が墨に落ちる。
雛を取れば、斎が喰われる。澪の、救いたい、ふたりを天秤に、載せて。どちらかしか、選べないように。
そして、直は知っていた。澪がどちらを、選ぶかを。澪はいつだって、雛を選んできた。自分の、命より。
自分の、心より。だから、直は笑っていた。勝ったと、思っていた。
澪は、雛を、選ぶ。斎を、見捨てて。それですべてが、直の、思いどおりに、なる。
祝詞が、また、ひとつ高くなった。御魂が、祭壇の上で渦を巻きはじめた。刻が、削れていく。一拍ごとに。
澪に、考える時間を与えないように。直は、それすら計算に入れていた。追い詰められた者は、いちばん慣れた道を選ぶ。澪にとって、いちばん慣れた道は、生き延びることだった。
雛を抱えて、頭を低くして、嵐が過ぎるのを待つこと。十六年、そうしてきた。直は澪がまた、そうすると信じていた。
澪は、雛を、見た。
震えている、妹を。澪が守ると、約束した、妹を。
雛の目が、澪を見ていた。助けて、とは言っていなかった。ただ、姉を信じていた。姉なら、何とかしてくれる、と。
その無垢な信頼が、澪の胸を締めつけた。十六年、その目に応えるために、澪は生きてきた。何を捨ててでも。
雛を取れば、その信頼は守られる。けれど、その代わりに、澪は祭壇のほうを、二度と見られなくなる。雛を抱いて、生き延びて、それでも心のどこかが、永遠に、あの祭壇の前に立ち尽くしたままになる。
澪は、それを知っていた。生き延びることと、生きることは、同じではない、と。穢野で十六年、ただ生き延びてきた澪が、初めて、その違いを知った気がした。
それから、祭壇の、斎を、見た。
御魂がその体に、流れ込もうと、していた。斎は、もうこちらを、見ていなかった。目を、閉じていた。
受け入れる、ように。最後まで、抗わずに。澪に来るな、と言ったあとは、もう何も望まない、というように。
その閉じた目を見て、澪の中で何かが決壊しかけた。斎は最後まで、澪を巻き込むまいとしていた。目を閉じることで。お前は見なくていい、というように。
お前は逃げろ、というように。けれど、澪は思った。誰も見ていないところで、ひとり、消えていく。それが、いちばん斎にさせたくないことだった。
斎は十七年、そうやって生きてきた。誰にも見られず、誰にも惜しまれず。最後までそれを繰り返させて、たまるか、と。
澪の、息が浅くなった。指先が、冷たくなった。
直は、正しかった。間に合わない。走っても、斎は喰われる。澪も、灰になる。
雛も、墨に。すべてを、失う。何ひとつ、救えない。賢く、選ぶなら、雛だ。
雛だけでも、取るべきだ。それがいちばん、損の、少ない道だ。十六年、澪が選び続けてきた、生き延びるための、計算だった。
けれど。
澪はその計算を、一度、捨てた。
直は、ひとつ、間違えていた。澪がいつも雛を選んできたのは、雛をいちばん、愛していたからではない。雛しか、救えるものが、なかったからだ。穢野の、底で。
何も持たない、少女がたったひとつ、手を伸ばせるものが、妹だった。だから、伸ばした。毎朝、冷たい水の底へ。けれど、今は違った。
今、澪の前には、ふたり、いた。手を、伸ばせるものが。雛と、斎。直はそのどちらかを、選べと言った。
澪は選ばないことに、した。
選べと言われた時点で、負けなのだ、と澪は思った。直の二択は、どちらを選んでも、直の望む形に終わる。雛を取れば、斎が消え、澪は直に戻る。斎に走れば、澪も雛も滅び、それでも斎は喰われる。
直の組んだ枠の内側には、澪の勝てる目が、ひとつもなかった。だったら、枠の外に出るしかない。直の用意した、ふたつの道のどちらでもない、三つ目をこじ開ける。
確かめる術のない、細い筋道を。賭けるしかなかった。あの夜、暗がりで縒り合わせた、あの一本に。
直の、論法には、ひとつ、穴があった。直は澪が走れば、すぐに雛を墨に落とす、と言った。けれど、それをするには、直の手が雛の腕を、掴んでいなければ、ならない。雛が、直の、手の中にいなければ。
だったら。
澪は直に向かって、微笑んだ。初めて。十六年で初めて、直に見せる、嘘の、笑顔だった。
「直」澪は、言った。声を、震わせて。怯えた、ふりをして。「わかった。雛を、取る。お願い、雛を返して。お願い」
澪は、手を差し出した。すがるように。直の、いちばん、見たかった顔を、見せて。澪が折れて、自分のところに、戻ってくる顔を。
直の、目が緩んだ。勝利を確信した、目だった。直は雛の腕を、掴む手を、ほんの、わずかに緩めた。
澪に、渡そうとして。雛を餌にして、澪を手に入れた、と思って。
その、一瞬だった。
澪は、雛の、もう片方の腕を、掴んだ。直の手が緩んだ、その隙に。力いっぱい、引いた。妹の、小さな体を、直の手から、自分のほうへ。
「雛、走って!」澪は、叫んだ。「鶚のところへ!後ろの戸!今すぐ!」
雛は澪の声に、弾かれたように、駆け出した。子供の足で。けれど、必死に。
澪が、教えたとおりに。鏡断ちの戸のほうへ。御魂の気配で、神官たちが、祭壇に気を取られている、その隙を縫って。
直の手が、空を掴んだ。
雛の、小さな背中が、人垣の間に消えていった。神官たちは、誰も追わなかった。祭壇の御魂に釘付けになっていて、子供ひとりのことなど、目に入らなかった。鶚なら、受け止める。
澪は、それだけは信じられた。あの男は横を向いたまま、約束は破らない。雛は助かる。少なくとも、今は。
澪の手から、ひとつ、重荷が降りた。十六年、片時も降ろせなかった重荷が。軽くなった、その分だけ、澪は速く走れた。
直の顔から、笑みが消えた。初めて、見る顔だった。優しさも余裕も、剥がれ落ちて。底にあった、剥き出しの、何かだけが、残った。
「澪」直は、低く、言った。「お前――」
けれど、澪は、もう直を見ていなかった。
澪は、振り返った。祭壇の、斎を。
雛は、逃がした。あとは、もう、ひとり。
御魂が、斎の、胸に触れようと、していた。あと、わずか。指の幅、ひとつ分。それが入りきれば、斎は、もう斎ではなくなる。
澪が「ここにいる」と言った、あの少年は、御魂の海に沈んで消える。間に合うかどうかは、わからなかった。それでも止まる理由には、ならなかった。
澪は、走った。
三尺の、禁忌など、もう頭になかった。触れたら、死ぬ。その掟が、二人をずっと隔ててきた。逢瀬のたびに、伸ばしかけた手を引き戻させてきた。
けれど、今、澪はその掟へ向かって、まっすぐ走っていた。触れに行くために。喰われかけた斎を、引き戻すために。穢れた手で、神の器に。
許されない、と誰もが言うだろう。神罰が、弾くだろう。それでも、よかった。届かせようとする愛だけが、今、澪に残された、ただひとつの手だった。
国じゅうの、水鏡がその姿を、映した。穢野の娘が、白い、花嫁装束の裾を、翻して、祭壇へ駆け上がっていく姿を。誰もが、息を呑んだ。何が起きているのか、わからずに。
祭壇の、最も高いところで、冬が、笏を止めた。
その、いつも凪いでいた顔に、初めて、波が立った。
「やめろ」
冬が、声を張った。
この国で、ただひとり、何があっても、声を荒らげなかった男が。
わずかに。けれど、確かに。




