第十三話 水鏡の花嫁
「やめろ」
冬の声が、祭壇の間に、響いた。
その声を、澪は、背中で聞いた。足は、止めなかった。白い、花嫁装束の裾を、踏みそうになりながら、石の段を駆け上がった。一段。
二段。神官たちが、振り返った。何が起きているのか、わからない顔で。穢野の娘が、侍る場所を、離れて、祭壇へ上ってくる。
あり得ない、ことだった。誰も止め方を、知らなかった。儀の、最中に誰かが、こんなことを、するなど、千年、なかったのだから。
ひとりの、神官が腕を伸ばした。澪を、捕まえようと。
澪はその手を、潜った。穢野で、覚えた身のこなしだった。掴まれない。逃げる。
それだけは、誰よりも上手かった。十六年、追われて、生きてきた体が、今、いちばん、追われたくない場所へ、向かって、走っていた。逃げるためではなく。たどり着くために。
段は高かった。見上げれば、首が痛くなるほどに。幼い頃、葦境の塔をこうして見上げたことがあった。穢野の娘が足をかけてはならない高みだと、教えられてきた段だった。
それを今、澪はひとつずつ上っていた。白い裾が足に絡んだ。何度もつまずきかけた。膝が石を打った。
痛みは遠かった。後ろから神官の足音が追ってくる。前から御魂の唸りが降りてくる。
澪はそのあいだを、ただ上った。十六年、頭を低くして地を這うように生きてきた体が、生まれて初めて、まっすぐ上を目指していた。誰かにたどり着くために。
祭壇の、いちばん高いところ。
斎が、いた。
目を、閉じたまま。御魂の渦の、ただ中に。白い礼装が、見えない風に、嬲られていた。その胸に、光の、糸のようなものが、何百も集まって、入り込もうと、していた。
死者の、魂。比良坂で、喰われた、何百人もの、無念。それが、今、斎という、空っぽの器に、注がれようと、していた。
あと、わずかだった。
光の糸の、先端が、斎の、胸に触れかけていた。
それが入れば、終わりだった。鶚が言っていた。器に魂が注がれれば、器は砕ける。中身を満たすために、外側が壊れる。
斎という、人の形をした十七年ぶんの何かが、何百もの死者に上書きされる。空の色を懐かしんだ少年も。来るなと澪を突き放した声も。生きたいと、たった一度こぼした願いも。
すべて押し流されて消える。あとに残るのは、神の名を着た、別の何かだ。澪が惹かれたものは、ひとかけらも残らない。それを見ていることなど、できなかった。
澪は最後の段を、跳んだ。
冬が祭壇の、向こう側で、笏を、止めたまま、こちらを見ていた。止めろ、と言った。けれど、もう間に合わないことを、その目は知っていた。澪と、斎の、あいだに割って入るには、冬は遠すぎた。
近いのは、澪だった。
いちばん、近いのはいつも澪だった。鏡断ちの、戸の向こうでも。千引岩の、庭でも。触れれば、死ぬ、その三尺の、内側にずっと立ってきたのは、澪だけだった。
斎の、瞼が震えた。
最後の、気配を感じたのだろう。誰かが、近づいてくる。来るな、と言ったのに。斎の、目が、薄く、開いた。
澪を、見た。光の渦の、向こうから。その目が、見開かれた。声にならない声で、何かを叫んだ。
来るな。来るな。お前まで。
その目を、澪は見返した。逃げなかった。十六年、誰かにまっすぐ見られることなど、なかった。穢野の娘は、いつも見下ろされるか、見ないふりをされるかだった。
斎だけが、澪を見た。鏡断ちの闇で。初めて、人として。
だから澪も、見返すと決めていた。最後まで。斎が来るなと叫ぶなら、その叫びごと受け止めると。
お前をひとりにはしない。たとえ、この手が灰になっても。澪の足は、もう迷わなかった。
澪は、手を伸ばした。
触れれば、死ぬ。
清い、神の、器に。穢れた、穢野の、娘が。決して、触れてはならない、とこの世界の、すべてが定めていた。神話が。
掟が。血が。穢れが。十六年、澪を縛ってきた、すべてがその手を、引き戻そうと、した。
けれど、澪は引かなかった。
逢瀬のたびに、伸ばしかけては、引いてきた手だった。鏡断ちの、闇の中で。あと少しで、触れられる、その距離で、いつも止めてきた手だった。お前に、移る、穢れが、と。
お前を殺してしまう、と。斎が、いつも先に身を引いた。澪も、引いた。
触れたい、と思うほど、離れなければ、ならなかった。それがこの恋の、形だった。触れられない、恋。
今、その手が初めて、止まらなかった。
澪の、指が、斎の、頬に触れた。
世界が、止まった。
国じゅうの、水鏡が、その一瞬を、映した。穢人の娘の、指が神の器の、頬に触れる、その瞬間を。何万もの、人が息を呑んだ。何かが起きる、と。
神罰が、下る、と。穢れた手は、灰になる、と。清いものに、穢れが触れれば、両方が壊れる。それがこの世界の、理だった。
誰もがそれを、待った。澪の手が、燃え上がるのを。少女が、灰になるのを。
時が伸びた。指が頬に触れた、その一点だけが、世界の全てになった。祭壇の祝詞も。御魂の唸りも。
冬の止め声も。国じゅうの、息を呑む音も。すべてが遠のいて、澪の指先の感覚だけが残った。
澪は目を閉じなかった。最後まで、斎を見ていたかった。たとえ、これが別れになるとしても。
見届ける者がひとりはいなければならない。皿ではなく、斎を見ている者が。それはずっと、澪の役目だった。
何も、起きなかった。
澪の指は斎の頬に、触れたまま、そこにあった。灰にも、ならず。弾かれも、せず。温かかった。
斎の頬は、温かかった。人形のようだと、思っていた、その肌が、人の、温度をしていた。澪はそれに、息を呑んだ。触れて、初めて、知った。
斎は、生きていた。皿ではなく。器でもなく。まだ、生きている、人だった。
澪はその頬に指を添えたまま、動けなかった。冷たいと思っていた。神の器だから。喰われるための皿だから。
違った。斎の肌は、澪の指先より温かかった。脈があった。薄く、けれど確かに。
澪の指の腹に、斎の命が触れていた。十六年、誰にも触れなかった手だった。雛の髪を編むときだけ、人の温もりを知った手だった。その手が今、もうひとつの温もりを知った。
触れてはならないと世界じゅうが言った、その温もりを。澪はそれを手放したくなかった。たとえ次の瞬間、灰になるとしても。
「……斎」
澪は、呼んだ。十六年でいちばん、柔らかい声で。
光の糸が斎の胸の、手前で揺らいでいた。入り込もうとして、入り込めずに。何かがそれを、阻んでいた。澪の、触れた、その一点から、波紋のように、広がる、何かが。
御魂が斎ではなく、澪のほうへ、流れを変えはじめていた。澪の、指から、腕へ。腕から、体へ。
冷たい、はずの、死者の魂が、澪に触れると、穏やかになった。鎮まった。まるでずっと帰る場所を、探していた、ものがようやく、それを見つけた、ように。
澪には、わからなかった。なぜ、自分が灰にならないのか。なぜ、御魂が自分を、避けないのか。むしろ、慕うように、寄ってくるのか。
わからない、まま、澪は思い出していた。禊の朝、水が自分を、弾いたことを。説明の、つかなかった、あの体のことを。澪の中の、何かが、この、儀の、いちばん、深いところと、繋がっている。
澪はそれを、まだ知らなかった。けれど、体は知っていた。御魂が澪を母のように、迎えるのを。
死者たちは、澪の手にすがった。冷たい指で。何百もの見えない手が、澪の腕に絡んだ。怖くはなかった。
むしろ懐かしかった。穢野の水の底で、毎朝触れてきたものと同じ匂いがした。死と、泥と夜明けの匂い。澪はずっと、その底に潜ってきた。
誰よりも死に近い場所で生きてきた。だからわかった。この魂たちは、澪を穢れとは見ていなかった。澪を、帰る場所のように見ていた。
なぜ、と問う前に、澪の奥のほうで、何かが静かに頷いていた。お前は知らなくていい、まだ。けれど、お前はこちら側のものだ、と。
澪は無意識に、斎の頬から手を滑らせて、その胸に当てた。光の糸が群がる、その一点に。すると、糸は斎を諦めた。斎の中に入ろうとしていた何百もの魂が、向きを変え、澪の手のひらを通って、澪のほうへ流れ込んできた。
斎の胸が軽くなるのがわかった。器が空に戻っていく。喰われかけたその器が、注がれる前に引き戻されていく。澪が肩代わりした。
死者の重さを。自分の体に。なぜそれができるのか、澪は知らなかった。
ただ、体が知っていた。これは自分の仕事だ、と。ずっと昔からそうだった、というように。
祭壇の、向こうで冬が笏を取り落とした。
その顔を、澪は、見た。
冬は驚いて、いなかった。恐れても、いなかった。冬の顔に浮かんでいたのは、もっと別のものだった。確かめていた、ものが目の前で、確かめられた、という、顔。
長いあいだ、探していた、ものを、ついに見つけた、という、顔。冬は、澪の、指を見ていた。斎の頬に触れて、灰にならない、その指を。
「……やはり」
冬の唇が、そう、動いたのが、澪には読めた。やはり。冬は何かを、知っていた。
澪がここに、いる、本当の意味を。澪自身より、ずっと前から。
その時。
斎の、手が動いた。
膝の上で揃えられていた、白い手が。ゆっくりと、持ち上がって。澪の、手に重なった。
握り返した。
澪の、息が止まった。
触れられた。斎に。十六年、触れることを、禁じられてきた、その手に。今、斎の指が澪の指に、絡んで握っていた。
温かく。強く。離さない、というように。
澪の、目に熱いものが、滲んだ。涙だった。十六年、流してこなかった、涙だった。
穢野の、底で泣くことすら、贅沢だった、少女の、涙だった。それが、今、あふれた。触れられた、という、ただそれだけのことで。
「……斎。よかった。生きてる。生きてる」
澪は、笑った。泣きながら。斎の手を両手で、包んで。
触れたくて、触れられなかった想いが、いちばん、最悪の、ところでいちばん、美しく、叶った。国じゅうの、目の前で。神の祭壇の、上で。喰われかけた、その器を引き戻して。
これ以上の、逢瀬はなかった。これ以上の、破滅も。
鏡断ちの闇で、二人はいつも囁きあった。いつか触れられたら、と。穢れが消える日が来たら、と。来ない、とわかっていた。
それでも言葉にした。願いだけは自由だったから。今、その願いが叶っていた。けれど、闇の中ではなく、光のど真ん中で。
誰にも知られないはずの逢瀬が、国じゅうに晒されて。守りたかったひとつの恋が、世界を揺るがす事件になって。澪は握られた手を見つめた。願いは叶うとき、いつもこんなに残酷なのか、と。
けれど。
斎の、目を、見て、澪は凍りついた。
握り返した、その手は温かかった。けれど、その目がおかしかった。澪を、見ている。
澪を見ているのに、斎の、目ではなかった。あの、空の色を懐かしむ、あの目ではなかった。来るな、と訴えた、あの目でも。
もっと、深い、もっと、古い、何かがその奥から、澪を見ていた。何百年も何千年も、待っていた、ような、目で。御魂が、入ったのか。
それとも、別の、何かが。斎の、口が、薄く、開いた。
「……みお」
斎の声で。けれど、斎の、言い方では、なかった。澪の名を初めて、呼ぶ、ような。ずっと待っていた名を、ようやく、口に、する、ような。
澪は握った手を、放せなかった。放したくも、なかった。けれど、わからなかった。今、自分が握り返されている、この手の主が、まだ斎なのか。
それとも斎の顔を、被った、何か、なのか。神なのか。あるいは。
澪は、冬を、見た。
冬は静かに、笑っていた。すべてが設計どおりだ、という、ように。
その笑みを、澪は見たことがあった。秤を覗き込むときの目だった。澪を初めて選んだ、あの日から。冬はずっと、この瞬間を待っていた。
澪が自分の意志で禁忌を破る瞬間を。命じてではなく。脅してでもなく。澪が誰かを救いたくて、自ら手を伸ばす、その瞬間を。
冬はそれを知っていて、舞台を整えた。斎を祭壇に上げ。雛を人質にし。
澪を追い詰めた。澪が走るように。澪が触れるように。
澪の選んだ一歩は、澪のものではなかった。最初から、冬の掌の上だった。澪はそれを悟って、背筋が凍った。
「水鏡の、花嫁よ」
冬が、言った。声を、荒らげずに。むしろ、悼むように。
低く、よく、通る声で。祭壇の間の、全員に。国じゅうの、水鏡の、向こうの、全員に。
「神の器に、触れて、神罰に灰とならぬ娘。御魂を鎮める、血を持つ娘。お前は、ただの、穢人ではなかった。お前こそが、この儀の、本当の、終わりに用意された、贄であり、花嫁だ。よくぞ、自ら、ここまで、来た。わしが呼ぶより、早く」
その言葉のひとつひとつが、澪の中に落ちて沈んだ。御魂を鎮める血。神に触れて、灰とならぬ娘。澪は自分の手を見た。
さっきまで、ただの穢野の娘の手だった。雛の髪を編み、冷たい水を掻き、墨を恐れた、その手が、今、神の頬に触れて、燃えていない。澪は自分が誰なのか、わからなくなった。
穢人の娘ではなかったのか。では、何なのか。冬は知っている。
澪自身が知らない答えを。その答えがこれから、澪をどこへ連れていくのか。考えるだけで、足元が崩れる気がした。
冬は澪に向かって、頭を垂れた。うやうやしく。まるで本物の、花嫁にするように。それがいちばん、恐ろしかった。
冬は、澪を罰しなかった。澪を、迎えた。澪が禁忌を、破ったその瞬間に、澪は罪人ではなく、もっと大きな、何かの、駒になっていた。
名指された、と澪は思った。
逃げ場がなくなった、と。
祭壇の間が、ざわめいた。神官たちが、ひれ伏すべきか、捕らえるべきか、わからずに、惑っていた。水鏡の、向こうで国じゅうが、震えていた。
穢人が神に触れて、生きている。それが何を意味するのか、誰にもわからなかった。けれど、誰もが感じていた。
何か、途方もないことが、起きた、と。この国の、千年の、秩序にひびが、入った、と。その、ひびの、真ん中に白い装束の、少女がひとり、立っていた。
昨日まで、国じゅうがこの少女に見惚れていた。穢野から来た、けなげな娘。判官贔屓の寵を、いちばん集めた、推しの娘。水鏡の向こうで、誰もが応援していた。
その同じ水鏡が、今、別のものを映していた。神の禁忌を犯した者。秩序を壊した者。畏れと好奇と、敵意がない交ぜになった、何万もの視線が、一斉に澪へ注がれた。
愛されることと、狙われることが、同じ顔をしていた。水鏡は、いつもそうだった。持ち上げた指が、そのまま突き落とす指になる。
混乱の、ただ中で。
澪はふいに、思い出した。
雛。
逃がした、はずの、妹。後ろの、戸へ。鶚の、ところへ。澪は、振り返った。
人垣の、向こうを探した。雛は、どこだ。鶚は、受け止めたか。
そして、見つけた。
直を。
直が、いた。祭壇の間の、後ろのほうに。腕に、雛を抱えて。
雛は、暴れていた。直の腕の中で。小さな手で、直の、肩を叩いて。澪を、見ていた。
澪を、呼んでいた。ねえちゃ、とその口が、動いていた。今度は、声になって。けれど、混乱の、ざわめきに、かき消されて、澪には届かなかった。
直は、澪を見ていた。
笑っては、いなかった。剥き出しの、顔の、ままで。雛を奪われた、あの瞬間に、笑みの、剥がれた、その顔の、ままで。直は澪に何かを、告げる、ように唇を動かした。
――返してほしければ。
そう、読めた。
――俺の、ところへ、来い。
直はそれきり、身を翻した。雛を、抱えたまま。混乱に、紛れて。神官も神も誰も子供ひとりと、その男を追わなかった。
みんな、祭壇の、澪に釘付けに、なっていたから。直はいつも誰にも、見えないところを、通る。鴉のように。
「雛!」
澪は、叫んだ。手を、伸ばした。斎を握っていない、もう片方の手を。
けれど、届かなかった。直の、背中は後ろの、闇に消えていった。妹を、抱えて。
雛の最後の顔が、澪の目に焼きついた。怖がってはいなかった。泣いてもいなかった。ただ、姉を見ていた。
なぜ助けに来ないの、という顔で。後ろの戸へ走れと言ったのは、姉だった。走れば鶚が受け止めると言ったのも。雛は信じて走った。
それなのに、待っていたのは直の腕だった。姉の約束は、また果たされなかった。澪はその目を、一生忘れないだろうと思った。守ると誓った妹を、自分の手で別の地獄に渡したような、その目を。
澪は、動けなかった。
片手は、斎に握られていた。放せば、斎を失うかもしれない。御魂の、渦の中へ、また引き戻されるかもしれない。
けれど、もう片方の手の、先で雛が連れ去られていく。澪が十六年、守ってきた、たったひとりの、妹が。
助けた、はずだった。
逃がした、はずだった。
それなのに、また、奪われた。直の、手に。澪が斎を選んだ、その瞬間に。
これが答えだ、と澪は思った。
直の、ジレンマは、終わって、いなかった。澪は、枠の、外に出たつもりだった。けれど、直はその先で、待っていた。お前が斎を選ぶなら、雛はもらう。
直は、そう、言っていた。微笑みの、剥がれた、顔で。これは、罰だった。澪が初めて、自分の、心に従った、その、罰だった。
澪は斎の手を、握ったまま、雛の、消えた闇を、見つめた。
何も終わって、いなかった。
斎は、救った。けれど、斎が、まだ斎なのか、わからない。
雛は、逃がした。けれど、また直の手に、落ちた。
神罰は、下らなかった。けれど、その代わりに、澪は名指された。水鏡の、花嫁、と。国じゅうの、見ている、前で。
心を殺して、妹、ひとりを守りたかっただけの、少女だった。誰にも望まれず、誰にも触れられず、ただ雛のために、生きてきた、だけだった。それが、今、望みもしないのに、全世界の、見ている前で、神の、禁忌に触れた者に、なっていた。
逢瀬の、果ての、一触が。
二人を、いや、三人を国じゅうの、標的に変えた。
冬がゆっくりと、両手を広げた。儀の、続きを宣する、ように。
「比良坂の儀は、成った」冬は、言った。「新しき、花嫁を迎えて。さあ――次の、刻へ」
その声は、祝福のように響いた。けれど、澪にはわかっていた。これは終わりではない。冬は儀を止めなかった。
澪を捕らえもしなかった。澪を、儀の新しい芯に据えただけだった。比良坂の儀は終わらない。むしろ、ここから本当の儀が始まる。
澪を贄に。澪を花嫁に。澪のまだ知らない血を使って。
冬の声の穏やかさが、その底知れなさを、いっそう際立たせた。逃げられない、と澪はまた思った。けれど、今度はひとりではなかった。
斎の手が澪の手を、強く、握った。離さない、というように。
その手が、誰の、ものなのか、澪には、まだわからなかった。
祭壇の、上で。国じゅうの、水鏡に映されながら。
少女は握り返された手の、温もりだけを、確かめて、立っていた。
救いたかったものは、何ひとつ、手の中に残らなかった。妹は奪われた。斎は、誰とも知れぬものになった。澪自身は、もうただの娘ではいられない。
心を殺して、ただ生き延びたかった。それだけのはずだった。それなのに、澪は世界の真ん中で、最も目立つ場所に立たされていた。水鏡の花嫁として。
逢瀬の果てにたどり着いたのは、二人きりのしあわせではなかった。国じゅうを敵に回した、ひとつの温もりだった。それでも澪は、その手を放さなかった。
そこですべての、水鏡が暗転した。




