第一話 花の檻
目が覚めて、まず指先を確かめた。
右手の、人差し指の腹。そこにまだ、温さが残っている。皿ではない、生きた人の頬の温さ。爪のあいだに、あの一瞬がこびりついて落ちない。
澪は手を握り、また開いた。握り、開く。何度やっても、温さは指の内側から出ていかなかった。
寝かされていたのは、見たこともない褥だった。
絹が、肌に吸いつく。葦境の家の、藁の匂いのする寝床ではない。白檀の香が、天井の梁の高みからゆっくり降りてくる。枕元には、白い衣が衣桁にかけて広げてあった。
袖が長く、裾が長く、銀の糸で波の文様が縫い取られている。花嫁の装束だ、と知れた。誰に教わらなくても、肌が知っていた。
外は、しんとしていた。
おかしなことだ、と頭の隅で思った。比良坂の儀のあいだ、宮はいつも音であふれていた。供物を運ぶ足音、坂人を呼ぶ声、水鏡の前の祝詞。にぎわいの底に、いつも誰かの息があった。
それが、今朝はない。回廊に人の気配はあるのに、声がない。澪のいる一室だけ、音から切り離されていた。腫れ物に触れるように、宮じゅうが、ここを避けて回っている。
その静けさが、何より、澪を見張っていた。
部屋の隅に、浅い水盤が据えてある。
澪は息を止めた。水鏡。社にしかないはずのそれが、寝起きの枕元にある。水の面は、空の色を映していない。
墨を一滴溶いたほどの翳りの底で、何かがこちらを見ていた。国じゅうの目だ。寝顔を、寝返りを、握り直した指の動きまで、見られていた。
肩を動かさず、細く息を吐く。一つ、二つ。鏡断ちの数えが、そのまま蓋になる。けれど蓋をしても、見られているという事実は冷たいまま、肌の下にとどまった。
衣を着せられた。
宮の女が三人がかりで、澪の腕を上げさせ、帯を巻いた。誰も口をきかなかった。指は丁寧で、目は合わなかった。
供物として届いた絹を、かつて澪に着せた女たちと、同じ手つきだった。あのときと違うのは、女たちの指先が、触れるたびにわずかに引かれることだった。穢れに触れた、とでもいうように。
けれど引かれた手は、それでも仕事を続けた。引きながら、着せる。蔑みながら、かしずく。
かつて、供物の絹を着せられたことがあった。判官贔屓で寵が上がり、国じゅうが澪を推した、あの頃。女たちは、誇らしげに澪を飾った。指は弾んで、目はよく合った。
同じ絹、同じ宮、同じ手つき。違うのは、女たちの目の中身だけだった。あのとき澪を飾った熱が、いまは、澪を遠ざける冷たさに変わっている。布の重さは、何も変わらないのに。
帯の最後を締めるとき、女の一人が、ごく低く言った。
「水鏡の花嫁さま」
その声には、敬いも、嫌悪も、どちらも入っていた。混ざらないまま、同じ器に注がれていた。
澪は答えなかった。答える言葉を、まだ持っていなかった。袖の内で、親指の爪が、手のひらをそっと押した。声に出さない代わりに、爪が、澪のかわりに何かを堪えていた。
*
几帳の向こうに、斎がいた。
白の礼装のまま、脇息にもたれて座っている。祭壇へ運ばれたときの装束を、まだ解かれていない。視線を上げると、斎もこちらを見ていた。
その目を見て、澪の胸の奥が、ひとつ鳴った。
斎だ、と思った。几帳の隙間越しに、斎の目が澪を捉えて、離れない。喉が小さく上下する。伏せた手の指が、わずかに開いて、また握り込まれた。
届かせてはならぬ手を、自分で押し止める癖。あの夜、千引岩の庭で見たのと、同じ。生きている。喰われずに、ここにいる。
「……斎」
呼ぶと、斎のまつげが震えた。何か言おうとして、唇が薄く開いた。
そのとき、目の色が、変わった。
どう変わったのか、言葉にできない。瞳の奥に、ふいに遠いものが差した。澪を見ているのに、澪より、ずっと向こうを見ている目。
何百年も前から何かを待っていて、いまもまだ待っている目。斎の顔のまま、斎ではない誰かが、几帳のこちらを覗いていた。
澪の喉が、こくりと鳴った。
握った手の温さが、急に遠くなった。あの一瞬、たしかに握り返してくれた手。あれは斎の手だったのか。
それとも、斎の顔をした、別の何かの手だったのか。確かめたくて、確かめるのが怖かった。
斎の目が、また澪に戻った。遠いものが、すっと退いた。斎が、こちらを見ている。今度はたしかに、斎だった。
ほんの数瞬の出来事だった。けれどその数瞬が、これからずっと続くのだと、澪の肌が先に知っていた。
几帳のあいだは、三尺もない。手を伸ばせば、届く。あの夜、国じゅうの前で、澪はその距離を越えた。越えて、触れて、何も弾かれなかった。
なのに、いまはまた、越えられない。触れれば、こんどは何が崩れるのか、分からないから。斎の中の遠いものを、揺り起こしてしまうかもしれないから。
澪は、伸ばしかけた手を、膝の上で握った。斎も、同じだった。脇息に置いた指が、わずかに開いて、また閉じた。
閉じる律儀さが、見ている澪の指まで、こわばらせた。届かせてはいけないと、斎は、まだ自分に言い聞かせている。器でも、神でもなく、斎が。
「……生きてる」と澪は、声にならない声で言った。
斎は答えなかった。けれど、まつげが、一度だけ伏せられた。聞こえた、というしるしのように。
*
冬が来たのは、昼を過ぎてからだった。
白の簡素な衣に、笏を一本。供を連れず、ひとりで几帳のうちへ入ってきた。澪の前に膝をつき、目の高さを澪と同じにする。
大織主が、辺境の娘に膝をつく。それだけで、宮の空気がぴんと張った。
「よく眠れたか」
声は、痛ましいほど穏やかだった。怒鳴られるより、ずっと応えた。
「お前のしたことを、責めに来たのではない」冬は笏を膝に置き、その柄を、親指でゆっくりと撫でた。「むしろ、礼を言いに来た。お前は、誰にもできなかったことをした。器に触れて、神罰に弾かれなかった。あれを国じゅうが見た。あれで、すべてが定まった」
「……定まった」
「お前は、水鏡の花嫁だ」冬は微笑んだ。「比良坂の儀は、まだ終わっていない。新しい花嫁を迎えて、これから、本当の刻が始まる。お前は、その芯になる」
芯、という言葉の重さが、すぐには分からなかった。
「雛は」澪は、それだけを言った。喉が渇いていた。「雛を、返してください」
冬の手が、笏の柄の上で止まった。
慈しむような目のまま、瞳の動きだけが、ふっと止まった。澪を見ているのに、澪を、人として見ていない目。台帳の数字を確かめるときの目だ。
「妹は、直のところにいる」冬は静かに言った。「私のもとにはいない。だが、案ずるな。お前がここで、なすべきことをなせば――妹のことも、悪いようにはならぬ」
なすべきこと。
その四文字を、冬は祈りのように置いた。やさしく、含みを持たせて。澪は、その含みの底を覗き込みたくなかった。覗けば、足をすくわれると分かっていた。
「なぜ」澪は、乾いた喉で押し出した。「なぜ、わたしを生かしておくのですか。禁忌を犯した者を」
「綻びは、現実だ」冬は、諭すように言った。怒りも、勝ち誇りもない。淡々と事実を述べる声だった。「境が薄れ、季節が狂い、村が黄泉に呑まれていく。それを繕うには、清い血が要る。お前は、その血を持っている。誰よりも濃く。禁忌を犯したお前を罰するより、お前の血を世のために役立てるほうが、ずっと慈悲深い。そうは思わないか」
筋が、通っていた。澪には、すぐに返す言葉がなかった。論理の隙間が、どこにも見つからない。
底から見上げれば、人は数ではなく、ひとつひとつの顔のはずだった。けれど冬の言葉は、その顔を、丁寧に塗りつぶしてくる。
「断れば」と澪は、ようやく言った。
「断る、とは」冬は小さく首を傾げた。心から不思議そうだった。「お前に、断るも受けるもない。お前はもう、選ばれた者だ。選ばれた者に、できるのは、応えることだけだよ」
笏を取り、冬は立ち上がった。去り際、几帳の水盤に目をやって、ひとこと添えた。
「国じゅうが、お前を見ている。けなげな娘だと泣いた、その同じ目で、いまは穢れだと囁いている。……惜しいことだ。お前は、愛されることもできた娘なのに」
衣擦れの音が遠ざかり、几帳の向こうが、静かになった。
澪は、自分の指がまだ握られていることに気づいた。冬の前で、無意識に握っていた。爪が、手のひらに痕をつけていた。
*
ひとりになると、罪の重さが戻ってきた。
あの夜、祭壇へ走った。国じゅうの水鏡の真ん中で、背を向ける斎へ、手を伸ばした。触れた。
神罰は来なかった。代わりに、別のものが、すべて来た。
斎は、いまも宮の奥で、半分どこかへ沈んでいる。あの目の遠さは、澪が引き戻しきれなかったしるしだ。雛は、直の手に攫われた。鶚の後ろの戸へ逃がしたはずの、あの手を。
澪が走らなければ。澪が、見なければ。見て、惹かれて、救おうとしなければ。雛は、いまも澪の隣で、湿った咳をしながら眠っていたかもしれなかった。
守りたかっただけだった。目の前の、ひとりを。
そのために、十六年、心を殺した。隠れて、潜って、目立たないように生きた。大事なものほど深く沈めれば、誰にも奪われずに済むと、信じていた。
それなのに、伸ばした手は、守りたかったものを、ふたつとも遠くへやってしまった。
隠していれば、よかったのか。斎を視なければ。あの夜、走らなければ。
膝の上の手が、震えた。けれど、と澪は思い直す。隠していたから、見えなかったものがあった。
斎の孤独も、冬の嘘も、雛を奪う直の顔も。隠すのをやめたから、ようやく見えた。見えてしまったものは、もう、なかったことにできない。
水盤の翳りが、澪を見ている。
澪はその面を、見返した。墨の底の、国じゅうの目。けなげだと泣いた目。
穢れだと囁く目。どちらも、澪の指の動き一つで、簡単に裏返る目だった。
立ち上がる。花嫁の白い裾が、足にまとわりついた。几帳の端まで歩き、外へ続く戸に手をかけてみた。
戸は、開いた。閉ざされてはいなかった。
廊下に、衛士はいない。けれど、回廊のそこかしこに、浅い水盤が据えてある。一歩出れば、その全部が、澪を映す。どこへ行こうと、国じゅうの目が、ついてくる。
逃げた先で待つのは、穢れを狩る声だ。戸を開けておくことが、いちばん深い錠だった。逃げられるのに、逃げ場がない。
澪は戸を、そっと閉めた。
檻だ、と思った。鉄の格子も、縄もない。絹と、香と、見られているという視線だけでできた檻。あの夜、ようやく届いた一触が、こんなにも豪奢な檻に、姿を変えていた。
それでも、と澪は思った。
指先の温さは、まだ消えていない。斎は、几帳の向こうで、たしかに澪を見た。沈みきってはいない。
沈みきる前なら、引き戻せるかもしれない。雛は、生きている。直の手の中で、生きてさえいれば、取り返せる。
ふたつ。伸ばせる手は、まだ、ふたつある。
澪は窓辺に寄り、外を見た。檜の回廊の先、内環の街々の屋根が、霞んで連なっている。その一つ一つの社に、いま、水鏡がある。
澪を映している。澪は、見られることを、十六年こわがって生きてきた。隠れて、潜って、心を殺して。
隠れる場所は、もう、どこにもなかった。
ならば、と澪は、初めて思った。見られたまま、やるしかない。
*
夜が来た。
灯は落とされ、几帳のうちは藍の闇に沈んだ。水盤の翳りだけが、ほのかに濃く見える。逢魔が時を過ぎ、宮の物音が絶えた。
闇の向こうで、衣擦れがした。
斎が、起きている。澪は息を詰めた。几帳越しに、白い影が、ゆっくりとこちらへ顔を向ける気配がした。
「……みお」
呼ばれた。
斎の声だった。低く、掠れた、あの声。けれど。
呼び方が、おかしかった。澪、と呼ぶときの、斎の間の取り方ではなかった。初めてその名を覚えた者が、舌の上で確かめるように、ひとつひとつ、置くように呼んだ。
みお。まるで、ずっと昔から知っていた名を、今ようやく口にできた、というふうに。
澪は、闇の中で、目を見開いた。
いま呼んだのは、誰だろう。
斎なのか。それとも、斎の喉を借りた、あの遠いものなのか。澪は闇の中で、几帳のほうへ、わずかに身を寄せた。
確かめたかった。確かめれば、引き返せなくなると分かっていて、それでも、寄った。
返事は、なかった。衣擦れも、もう聞こえない。斎は、また沈んでいったのかもしれない。あの遠いものの底へ。
澪は、握った手をひらいた。手のひらに、爪の痕が、白く残っていた。その真ん中に、消えない温さだけが、まだ、あった。
明日も、これを頼りに、起きるのだろうと思った。指先の、たったこれだけの温さを。




